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ニューヨークの建築通が、近郊の知られざる名住宅を案内!建物が語るストーリー

有名建築というと、美術館やホテル、競技場など、大規模で公共性の高いものが思い浮かぶかもしれない。しかし、「住吉の長屋」が安藤忠雄の出世作であるように、著名建築家が設計した住宅にも見逃せないものは多い。特に、富裕層が集まるマンハッタン郊外の住宅地には、歴史に名を残す建築家の作品がいくつもある。ニューヨークのギャラリーオーナーであり建築通のミッシェル・アルガスが、とっておきの名建築を案内する。

マイロン・ゴールドフィンガー設計のロバート・コナソン邸(1984)、ニューヨーク州サウサンプトン Mitchell Algus

あえて説明するまでもないことだが、アートと建築には近しい関係がある。ニューヨークを拠点に活躍した抽象画家のアド・ラインハートが残した名言、「彫刻とは、絵画を見るために後ずさりしたときにぶつかってしまうもの」を言い換えると、その関係をうまく表現できるかもしれない。つまり、「建築とは、彫刻を見るために後ずさりしたときにぶつかってしまうもの」だと。

とはいえ、アート界は建築物にはほとんど関心を示さない。新しい美術館を話題にする時だけは別かもしれないが。

美術品の多くは倉庫や個人宅に収められているが、建築は自由に見ることができる。一方で、アートの世界と同じく、建築の世界にも知られざる物語や作品が数多く存在する。だが、一見ありふれた風景の中に名建築が隠れていたりするのが、埋もれたままになってしまう美術品と決定的に違うところだろう。

2020年3月、コロナ禍で美術館やギャラリーが閉鎖され始めた頃、私は妻のダイアンと一緒に車に乗り込み、郊外の建築物を見て回っていた。コロナ禍の初期には道路もガラ空きだったので、多少遠くてもあっという間に移動できるという利点もあった。もとはと言えば、15年に自分の経営するミッチェル・アルガス・ギャラリーのインスタグラムアカウントを作ったときに始めたプロジェクトだったが、それが私たちのコロナ禍での生活を記録する日記になったというわけだ。目的地はグーグル・ストリートビューで探し、不法侵入せずに撮影できる建築であることはちゃんと確認している。

建築はアートと同じように、さまざまな形で姿を現す。何もないところから生まれるものはないし、建物の周囲の環境には必ず何らかの個性がある。それゆえに、建物のある地域全体が、さまざまなエピソードとともに、入り組んだ歴史を物語る文書のように浮かび上がってくるのだ。私たちを取り巻く建築やアートの中には、個人的な人間関係やさまざまな記憶、コミュニティからの評価がないまぜになって宿っている。そんなことを思わせる10の建築と、それを手がけた建築家を紹介したい。


Myron Goldfinger/マイロン・ゴールドフィンガー


マイロン・ゴールドフィンガーとジューン・ゴールドフィンガー夫妻 Photo: Mitchell Algus

建物が語るのは、建築と芸術、社会情勢と個人史を結びつける物語だ。だから、まだ広く知られていない建築を思いがけず発見すると、啓示を与えられたように感じる。

マイロン・ゴールドフィンガー(1933- )の設計した住宅は、ニューヨーク近郊のあちこちに存在しているが、建築やアートのコミュニティではほとんど知られていない。私がゴールドフィンガーの作品に初めて出会ったのは、ロングアイランドの西寄りにあるニューヨーク州キングスポイントのショアロード454E番地。大型の規格住宅が立ち並ぶ裕福な地区の中で、その真っ白なファサードと彫刻のような立体感は異彩を放っていた。

この地域にはゴールドフィンガー設計の住宅がいくつかあるが、最もよく知られているのは、サンズポイントにあるヴァンダービルト・ドライブ10番地のものだ。1981年にフィットネス関連企業ウェイトウォッチャーズ社のCOO、フレッド・ジャロスロウのために建てられた豪邸で、邸内はミロ、ピカソ、カルダーの作品で埋め尽くされている。「豪華客船」と呼ばれるこの屋敷は、マーティン・スコセッシ監督の映画「ウルフ・オブ・ウォールストリート」(2013)の中で、レオナルド・ディカプリオがビーチパーティを開く家として登場したこともある。ちなみに、近くにあるゴールドフィンガーの妻の実家は、ゴールドフィンガーの自邸がニューヨーク・タイムズ紙で紹介された翌年、同紙に取り上げられている。

マイロン・ゴールドフィンガーは、20世紀を代表する建築家ルイス・カーンの教え子で、生涯にわたる友人でもあった。55年にペンシルバニア大学を卒業し、建築史家のシビル・モホリ=ナジ(夫は写真家・画家のラースロー・モホリ=ナジ)によって採用され、プラット・インスティテュートで10年以上教壇に立った。その間、ゲスト講師にブルータリズム建築で知られるポール・ルドルフを頻繁に招いている。その後発表した、地中海の伝統的な共同体建築の写真集『Villages in the Sun(日差しの中の村)』(1969)は影響力のある著作だ。この写真集の序文は、こうした「建築家以前の建築」をリスペクトしていたルイス・カーンが書いている。

ゴールドフィンガーの建築は、カーンと同様、初期のル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエのインターナショナル・スタイルとは一線を画したものだ。インターナショナル・スタイルが長方形の構造と開放的で平面的な形を強調したのに対し、ゴールドフィンガーの建築は彫刻的な普遍的形式で、単調なモダニズムに陥るのを避けようとしている。立体感や外観、光の取り入れ方に着目した住宅は、逆説的にではあるが象徴的なもので、ゴールドフィンガーが緻密に記録していた古代のヴァナキュラー(土着的)建築との関連を思わせる。70年にマンハッタンの北にあるウエストチェスターに建てた自邸は、3つの異なるモジュラーユニット(一辺4.6メートルの立方体、三角屋根の部分、片持ち梁のデッキ)から構成され、標準的な構造で標準的ではない建築を実現している。ゴールドフィンガーの住宅は、時代を超えた秩序を表現する、個性的かつ唯一無二の存在なのだ。

では、なぜゴールドフィンガーの建築はあまり知られていないのだろうか。ブルックリン区ブライトンビーチにあるシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)を除いて、すべて住宅であることが理由の1つだろう。しかし、これは意図的な選択だった。1960年代にスキッドモア・オーイングス&メリルやフィリップ・ジョンソンの建築事務所に勤めた後、ゴールドフィンガーは大組織のヒエラルキーの中では働きたくないと考えるようになった。そして、妻のジューン(室内デザインを全て担当した)と、住宅に特化した小さな建築事務所を設立。その評判は、時とともに高まっていった。設計の依頼を受けるためには売り込みが必要だが、ゴールドフィンガーの場合は作品そのものが宣伝になったと言えるだろう。


Benjamin Thompson, the Architects Collaborative, and Walter Gropius, Mary Griggs and Jackson Burke House/ベンジャミン・トンプソン、アーキテクツ・コラボラティブ、ヴァルター・グロピウス設計 メアリー・グリッグス&ジャクソン・バーク邸(1953/61)


メアリー・グリッグス&ジャクソン・バーク邸 Photo: Mitchell Algus

建築界には、アート界にはほとんど知られていない保存主義者(歴史的な建築・場所などの保存を訴える人たち)が存在する。アートでも作品の保存が問題になることはあるが、建築の場合、保存や保護は建物そのものの存在に関わる問題だ。USモダニストやドコモモUSといった団体は、戦後の重要建築を記録し、歴史的建造物への脅威を指摘することに注力し、最近ではロングアイランドのローレンスにあったマルセル・ブロイヤー設計のゲラーハウス I(1947)が、突然取り壊されたことに対する問題提起を行っている。一方、危機にある建物を監視する人たちは、不動産業界にとっては厄介者でもある。

現在、ロングアイランド地域で最大の危機に瀕しているのは、センターアイランドにあるメアリー・グリッグス&ジャクソン・バーク邸だ。メアリー・グリッグスは、米国の日本美術収集家の重鎮として知られ、ニューヨークのメトロポリタン美術館の理事を務めたほか、コロンビア大学に日本美術センターを設立している。

バーク夫妻と親交のあった建築家のヴァルター・グロピウスと、彼が結成した共同設計事務所アーキテクツ・コラボラティブ(TAC)は、グロピウスの弟子のベンジャミン・トンプソンをバーク邸の設計に抜擢した。メアリー・グリッグスは2012年に亡くなり、家は売りに出されたが、現在も売れないまま荒廃が進行している。不動産屋の担当者は、私たちが家の内覧をしたいと申し込むと同意したものの、電話やメールで具体的にアポを取ろうとすると返事が途絶えた。保存主義者かもしれない客には内覧させたくないということだろう。ともあれ、家の外観はセンター・アイランド・ロード145番地で見ることができる。


Josep Lluís Sert, Marian Willard Johnson House/ホセ・ルイ・セルト設計 マリアン・ウィラード・ジョンソン邸(1948)


Photo: Mitchell Algus

1948年築のこの住宅は、スペイン・カタルーニャ地方出身で米国に亡命した建築家、ホセ・ルイ・セルトが、友人でギャラリストのマリアン・ウィラード・ジョンソンのために設計し、彼女の祖父宅の敷地内に建てられた。セルトは、37年に開かれたパリ万博のスペイン・パビリオンの設計者として知られている。ピカソの《ゲルニカ》はアレクサンダー・カルダーやジョアン・ミロの作品と並んで、この万博のために制作されたものだ。

ウィラード邸の完成後、セルトは仕事上のパートナーだった建築家、ポール・レスター・ウィーナーとともに、ウィラードの親族の土地にあった納屋2軒を購入している。その納屋で、セルトはル・コルビュジエ風の寝室をピロティの上に増築。メインの居住スペースには、アレクサンダー・カルダーに制作を依頼した大きなスタビル(*1)があった。


*1 動かない抽象彫刻。カルダーは動く彫刻、モビールを生み出した。モビールと同じように金属の平たい曲線を用いるが、動かないものをスタビルと言う。

50年代初頭、離婚したウィーナーの納屋は空き家になり、55年に彫刻家リチャード・リッポルドの手に渡っている。リッポルドは納屋を家族と暮らす住居兼スタジオとして使い、ここでつり下げ型の彫刻を制作。作品は、マンハッタンのリンカーンセンターにあるエイブリー・フィッシャー・ホールやフォーシーズンズ・ホテルのバー、メトロポリタン美術館の階段などに設置された。さらに68年、リッポルドのパートナーだったこともあるアーティストのレイ・ジョンソンが、マンハッタンでナイフを持った強盗に襲われる災難に遭った後、納屋に近いローカストバレーの小さな家に引っ越してきた。ジョンソンは95年に亡くなるまで、そこで暮らしている。


Vertner W. Tandy, Villa Lewaro/ヴェルトナー・W・タンディ設計 ヴィラ・レワロ(1916)


Photo: Mitchell Algus

美術史が対象とする範囲は昔より多様で幅広くなった一方で、米国の建築史は依然として白人男性にほぼ独占されている。ジョージ・フロイド殺人事件の後、2020年5月に巻き起こったブラック・ライブズ・マター運動を経た今も、建築界における人種とジェンダーの問題は手付かずのままだ。

その中で称賛に値する人物の1人が、ニューヨーク州で初めてアフリカ系アメリカ人建築家として登録された。アメリカ建築家協会(AIA)に所属した最初の黒人建築家であるヴェルトナー・ウッドソン・タンディ(1885-1949)だ。ニューヨーク州アービントンにあるイタリア風の邸宅、ヴィラ・レワロは、タンディが1916年から18年にかけて、実業家のアレリア・ウォーカーとその母親、米国初の黒人女性起業家で大富豪になったマダムC・J・ウォーカーのために設計したもの。タンディはまた、48年にハーレムのハミルトン・テラス13番地にあるアイビー・デルフ・アパートメントを設計した。現在は国家歴史登録財に指定されている。

タンディ同様、もっと評価されるべきなのが、アフリカ系アメリカ人の女性として米国で初めて建築家の資格を得たビバリー・ロレイン・グリーン(1915-57)だろう。グリーンは40年代後半にシカゴからニューヨークに移り、マンハッタンのイーストビレッジ近くの地区でメットライフ生命が開発を手がけた集合住宅、スタイブサント・タウンの設計に取り組んだ(自分自身は人種的制約のため住むことはできなかったが)。

その後、エドワード・ダレル・ストーンやマルセル・ブロイヤーとともに、サラ・ローレンス大学の学生アートセンターなど、数多くのプロジェクトに携わった。また、パリのユネスコ本部やブロンクスのニューヨーク大学のユニバーシティ・ハイツ・キャンパスの設計をブロイヤーと共同で行っていたが、その最中に42歳で亡くなった。葬儀は、グリーン自身が53年に設計したハーレムのユニティ葬儀会堂で営まれた。フレデリック・ダグラス大通り2252番地にあるこの場所では、後にマルコムXの葬儀も行われている。


Paul Rudolph, Barbara and Maurice A. Deane Residence/ポール・ルドルフ設計 バーバラ&モーリス・A・ディーン邸(1969)


Photo: ©John Dessarzin

ポール・ルドルフの代表作、ロングアイランドのガーデンシティにあるエンドー製薬ビル(1962)は、コンクリートの量感のある建築に金属ハケを用いたコーデュロイ風の仕上げを施している。60年代後半、これを依頼したエンドー製薬のCEOモーリス・ディーンは、やはりロングアイランドのグレートネックに建てる邸宅の設計もルドルフに依頼。木造の骨格が特徴的なディーン邸の設計は、ルドルフの得意とするブルータリズムとは異なるものだ。しかし、プールを望むこの住宅は現在空き家で、フェンスに囲まれて取り壊しを待つばかりの危機的状況にある。これもまた、非情な不動産市場の犠牲になりかねない物件だ。

建築物には建築家の名前は書かれていない。ディーン邸を訪れたおかげで、2018年にアイランディア(グレートネックから車で1時間ほど東にあるロングアイランドの町)で初めて見た、金属板でできた不思議な銀行建築の謎が解け、建築家を特定することができた。私はそれまで、この建物をどの建築家のものとも断定できずにいたが、主構造の六角形の骨組みはディーン邸と明らかに共通していた。実際、アイランディアの銀行建築の構造は、1970年にルドルフがオフィスビル群計画のために考案したものだ(その設計図はポール・ルドルフ財団のウェブサイトで見ることができる)。しかし、このプロジェクトは設計費を節約したい不動産開発業者の意向でルドルフから地元の業者に移管され、実際に建設されたのはこの銀行1棟にとどまった。


Louis Kahn, George Howe and Oscar Stonorov, Carver Court/ルイス・カーン、ジョージ・ハウ、オスカー・ストノロフ設計 カーヴァーコート(1941-43)


左:カーヴァーコート、右:ル・コルビュジエのサヴォア邸 Photo: Mitchell Algus; Getty Images

ペンシルベニア州コーツビルにあるカーヴァーコートは、第2次世界大戦中にアフリカ系アメリカ人の防衛鉄鋼労働者住宅として建設された。ルイス・カーン、ジョージ・ハウ、オスカー・ストノロフの設計によるこの建物は、ル・コルビュジエの「近代建築の5原則」に忠実に従い、ル・コルビュジエの有名なサヴォア邸(1931)のように、上階にあるメインフロアをピロティで支える構造、平らな陸屋根、横長の窓が特徴的だ。カーヴァーコートはその後、開放的だった地下を閉じて雨漏りのしにくい切妻屋根を付けるなど、カーンによって大幅に改修されている。

カーヴァーコートは、もともと統合されたコミュニティとして構想されたものだ。しかし、コーツビルには人種差別的暴力の長い歴史があった。たとえば、1911年のザカリア・ウォーカーのリンチ事件は、全米黒人地位向上協会が反リンチ法制定運動をペンシルベニア州で成功させるきっかけとなっている。そうした環境だったため、当初の構想は実現せず、結局カーヴァーコートは人種隔離のための住宅となってしまった。


Alfred Levitt, 26 Butternut Lane, 1947/アルフレッド・レビット設計 バターナットレーン26番地(1947)


ウィリアム・コッター一家がまた借りした家には立ち退き命令に抗議する看板が立てられた(1953) Photo: Jim O'Rourke/Newsday RM via Getty Images

第2次世界大戦後にできた郊外住宅群の1つにレビットタウンがある。その手頃な価格は庶民に夢を与えるもので、フィリップ・ジョンソンが1954年に発表した意欲的なワイリー・スペキュラティブ・ハウスに先駆けて建てられたものだった。しかし、全ての人が夢を叶えられたわけではない。

バターナットレーン26番地は、レビットタウンで初めて黒人家族が住んだ家だ。50年にウィリアム・コッターと妻のシンシア、そして5人の子どもたちは、地元の不動産業者を通さずに、この家をまた借りした。しかし、レビットタウンの権利証書には、「白人以外の者」への転売や賃貸を禁止する条項があった(この条項は48年の最高裁判決で無効とされていたのだが)。そのため、53年にコッター夫妻が賃貸契約の更新または購入を希望すると申し出たところ、裁判所に立ち退きを命じられてしまう。

ウィリアム・コッターは、全米黒人地位向上協会グレートネック支部の支部長で、レビットタウンの差別撤廃委員会の委員長も務めた人物だ。一家が立ち退く前に、家には「同胞愛は家庭から始まる」「コッター家に家を売れ」「レビットタウンの差別をなくせ」といった抗議の看板が掲げられていた。やがてコッター家は、同じバターナットレーンの別の家を売ってくれる「適格な白人男性」を見つけている。上の画像は、現在大きく改造された家である。レビットタウンの当初の住宅の形をとどめる住宅はほとんど残されていないが、47年に建てられたランドマーク的存在のウェーバー・ハウスは原型に近い。なお、スミソニアン博物館は、コレクションに加えることのできるレビットタウンの住宅を探し続けている。


Edward Durell Stone, Villa Riele/エドワード・ダレル・ストーン設計 ヴィラ・リエール(1963)


Photo: Courtesy Elite Auctions

エドワード・ダレル・ストーン設計のヴィラ・リエール(1963)は、ロングアイランドのロイドハーバーにある邸宅だ。所有者は、ニューヨーク社交界の有名人で富豪の未亡人、ガブリエル・ランガー・フォン・ランゲンドルフ男爵夫人。彼女はホテル・ピエールに引っ越したのち、多数の不動産業者を通して2400万ドルでヴィラを売りに出したが、買い手はつかなかった。最近になって、この邸宅はオークションにかけられ、940万ドルで売却されている(買主は公表されていない)。現場には建設機械があるが、工事は始まっておらず廃墟のままだ。

ストーンがやはりロングアイランドに残した建築には、ガーデンシティの旧ブルーミングデールズ店舗(1971)がある。この石造りの建物は、現在ニューヨーク大学ランゴーン医療センターに移築されている。


Gordon Bunshaft, Chase Bank Branch/ゴードン・バンシャフト設計 チェース銀行支店(1969)


Photo: Mitchell Algus

このチェース銀行の建物は、ゴードン・バンシャフトが自宅として設計したトラバーチン・ハウス(1963)の図面を使い、スキッドモア・オーイングス&メリル設計事務所が1969年に建てたものだ。現在は売りに出されているが、取り壊される可能性が高い。ちなみに、トラバーチン(石灰質化学沈殿岩)とは、建築に使用される石材の一種。

バンシャフト設計でニューヨーク州ロングアイランドの東端に近いサガポナックに建てられたトラバーチン・ハウスは、実業家のマーサ・スチュワートがニューヨーク近代美術館から買い取った。しかし、隣人の不動産王ハリー・マックローが改修計画に異議を唱えたため、劣化が進んでしまった。ちなみに、マックローは大アートコレクターでもあり、そのコレクションは2021年にオークションで巨額の落札額をたたき出している。その後、この家は売却されて解体されたが、事前にトラバーチンは剥がされ、ニューヨーク州ウエストチェスターにあるスチュワートの自宅に運ばれたという。


Frank Lloyd Wright, Anne and Benjamin Rebhuhn House/フランク・ロイド・ライト設計 アン&ベンジャミン・レブン邸(1937)


Photo: Mitchell Algus

マンハッタンの郊外(ニューヨーク州、ニュージャージー州、コネティカット州)には、フランク・ロイド・ライトの作品がたくさんある。中でも、ニューヨーク州プレザントビルにあるユーソニア歴史地区は有名だ。ユーソニアは戦後間もない頃に作られた都市近郊のユートピアコミュニティ(人間の理想的社会を実現しようとした都市デザイン)の1つ。他のユートピアコミュニティには、建築写真家エズラ・ストーラーがニューヨーク州ライに創設したカービー・レーン・ノース(保守的な地域に作られた左派の居住区)、コネティカット州サウス・ノーウォークのビレッジ・クリーク(「人種、肌の色、宗教や政治信条による差別のない完全に民主主義的な特質」という公式規約で知られる)などがある。

アン&ベン・レブン夫妻のためにライトが設計した、ロングアイランドのグレートネックにある優雅な邸宅は興味深い建築だ。レブン夫妻は、進歩主義的なキワモノの文学作品で知られる出版社、ファルスタッフ・プレスの経営者だった。ベンは1939年に連邦わいせつ罪で投獄され、ライトは釈放を求める手紙を書いたが当局は聞き入れなかった。のちに彼は、ベンとの面会に刑務所を訪れている。

37年、低迷期から脱却した70歳のライトが建てたこの家は、ライトが理想郷として構想したブロードエーカー・シティのために建てられた安価な平屋建ての住宅で、一般にユーソニアンハウスと呼ばれる。しかし、キャロライン・ザレスキが著書『Long Island Modernism(ロングアイランド・モダニズム)』で指摘しているように、この住宅は過渡期のもので、ライト建築初期のプレーリースタイルの壮大な特徴を多く示している。そのため、当時ライトのタリアセンスタジオで働いていたスタッフたちには古臭いと思われていた。

レブン夫妻はライトと親交を深め、ライトはニューヨーク滞在中にクライアントとの打ち合わせ場所としてこの家を使うこともあった。ソロモン・グッゲンハイムが暮らしていたサンズポイントのトリローラ・コート邸から車ですぐの場所だったこともあり、グッゲンハイム美術館の共同創設者兼初代館長のヒラ・リベイは、同美術館の設立計画をレブン邸で協議している。

このほか、スタテン島のクリムゾン・ビーチ、ニュージャージー州のジェームズ・B・クリスティ邸とスチュアート・リチャードソン邸など、この一帯にはライトが設計した住宅が点在する。リチャードソン邸を見学しているとオーナーが現れ、中に招き入れてくれた。邸内に入ると、玄関の近くにマルティン・ラミレスの大きな絵画、キッチンにはピカソの作品が飾られていた。私と妻はこの邸宅をアート・アドバイザーのトッド・レビンの家だと考えていたが、その推測は当たっていたようだ。

アートの世界では、作品や作家の評判や市場での存在感は、影響力のある関係者によって作り出され、維持されている。こうした人物はテーストメーカー(嗜好を作る人)とも呼ばれる。つまり、組織やコミュニティにおける人と人の関係性や結びつきが、市場価値になるのだ。一方、建築界は、過去数十年間に数々のスター建築家が出てはいるものの、まだその域に達していない。建築の世界で何が流行し、何が認められるかは、アートの世界のように明確ではないのだ。今もなお、建築に意味と文脈を提供できるのは、互いに絡み合ったいくつもの物語なのだろう。

アート界には業界のトレンドを決定するような権力者がいて、大多数の人々にとっては手の届かない作品が流通している。しかし、建築界はそれとは異なる。つまり、建築の世界は依然として、誰にでも開かれたテラ・ヌリウス(誰のものでもない土地)なのだ。(翻訳:清水玲奈)

※本記事は、米国版ARTnewsに2022年8月26日に掲載されました。元記事はこちら

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