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  • 2022.10.31

ジョアン・ミッチェルとモネ──フォンダシオン・ルイ・ヴィトンが、稀代の女性アーティストを再評価

世界では近年、女性アーティストたちの功績を再評価する試みが増えつつある。パリのフォンダシオン・ルイ・ヴィトンで現在開催中の「Monet - Mitchell」では、抽象表現主義の重要なアーティスト、ジョアン・ミッチェルの作品を、印象派の巨匠クロード・モネと並べて紹介している。

Joan Mitchell, La Grande Vallée XIV (For a Little While), 1983 CENTRE POMPIDOU, PARIS, MUSÉE NATIONAL D’ART MODERNE / CENTRE DE CRÉATION INDUSTRIELLE © THE ESTATE OF JOAN MITCHELL

抽象表現主義の主要人物と聞けば、ジャクソン・ポロックマーク・ロスコウィレム・デ・クーニングなどを想像する人は多いだろう。しかし、リー・クラスナーやエレイン・デ・クーニングなどの女性アーティストも同様に重要であり、近年、このような女性たちの功績を再評価する動きが活発化している。パリのフォンダシオン・ルイ・ヴィトンで現在開催されている、ジョアン・ミッチェルの作品を印象派の巨匠クロード・モネと対等に展示する展覧会も、その最新の試みと言えるだろう。抽象表現主義だけでなく美術史の大きな流れの中で、ミッチェルが重要な存在であることを主張する意欲的な取り組みだ。

同時代の作家たちへの影響

フォンダシオン・ルイ・ヴィトンの芸術監督、Suzanne Pagé(スザンヌ・パジェ)のキュレーションによる展覧会「Monet - Mitchell(モネーミッチェル)」では、ミッチェルの経歴が1950年代初期の抽象作品から年代順に紹介されている。1925年にシカゴで生まれたミッチェルは早くから美術に親しみ、The School of the Art Institute of Chicago(シカゴ美術館美術学校)でMFA(Master of Fine Arts=美術学修士)を取得した。キュビスムと印象派を学んだ結果、ミッチェルの作風は1947年にニューヨークに移住した頃にはすでに抽象に向かっていた。そして50年代には、詩人やアーティスト、ダンサーなどからなるグループ「ニューヨーク・スクール」の一員となり、デ・クーニング夫妻や詩人のフランク・オハラと親交を深めた。特にオハラは、ミッチェルのスタジオで執筆活動を行うほど近い存在となった。

1951年、ミッチェルはジャクソン・ポロック、フランツ・クライン、デ・クーニング夫妻、クラスナーなど抽象表現主義のアーティストとともに、先駆的な展覧会「Ninth Street Show」を開催した。今回の「モネーミッチェル」展では、当時の作品も展示されている。

デ・クーニングとミッチェルの親交の深さは、当時の彼らの作品からも見てとれる。例えば、ミッチェルの《無題》(1952)とデ・クーニングの《発掘》(1951)は、どちらもベージュや淡い色のキャンバスを用いて、黒やそれ以外の色の絵の具で分割しているという共通点があるが、ミッチェルの作品にはより身体性あり(gestural)、デ・クーニングの作品はかなり抑制された幾何学的なスタイルが特徴だ。

記憶と風景、モネとの共通点

1957年には、US版『ARTnews』でアーヴィン・サンドラーによる「Mitchell Paints a Picture」という特集が組まれるほど、ミッチェルは勢いに乗っていた。自身の作品の重要な側面について言及したこの特集の中で、彼女は、「私は自分の風景を持ち歩いている」と語っている。つまりミッチェルにとって、感情的・視覚的な記憶はやがて絵画として開花する種のような役割なのであり、そうした記憶の風景を表現する方法として絵画があるのだ。

1956年の作品《ヘムロック》は、そのプロセスをより忠実に実行した作品であり、濃淡のある緑色の斜線を用いて優美なヘムロックの木を表現している。より抽象的で力強い《マッドタイム》(1960)は、色彩がぶつかり合う一方で、その周縁はフェードアウトしており、激しい雨のあとの泥だらけになった春の街並みが表現されている。

こうした風景へのアプローチ、つまり自然を再現する手法は、ミッチェルとモネの共通点と言えるだろう。今回の展覧会で、モネの《睡蓮》(1917-19)とミッチェルの《川》(1987)が並べられている様は驚くほど美しい。モネは池を、ミッチェルは川を描いているのだが、両者とも白のかたまりで水を表現し、そこに色とりどりの細い線を足している。このように、2人の作品を並べると驚くべき発見がある。特にミッチェルは、モネの紫の使い方に心酔していた。彼女は三連作《エドリタ・フリード》(1981)で、モネが《睡蓮》で水の深さを表現するために用いた青と紫を用いて敬意を表している。

モネとミッチェルの共通点はスタイルに留まらず、制作場所にも見てとれる。ミッチェルは50年代半ばにフランスにスタジオを移し、フランスのゆったりとした雰囲気が作品の発展には必要なのだと実感したという。1955年、ミッチェルはパリへの移住について、「画家として生きるなら、フランスの方が楽だと思う。ここでは、何年も作品を発表せずとも受け入れられるし、尊厳を持って、時間をかけて制作することができる」と語っている。そして晩年には、フランス・ジヴェルニーにあるモネの住居からほど近い土地に居を構えている。

展覧会の後半では、ミッチェルが1983年から1984年にかけて制作した21枚の作品からなる《ラ・グラン・バレ》のうち、1984年の初公開以来、最大規模となる10枚が展示されている。この作品は、ミッチェルの友人であったジゼル・バローの幼少期の記憶から着想を得たものだ。バローはミッチェルに、バローといとこが子どもの頃によく一緒に遊んだ風景について話しており、そのいとこは亡くなる直前に、当時遊んだその場所に戻りたがっていた、と伝えたのだという。この作品のほとんどが、大きなサイズからなる二連作、三連作。ミッチェルが深い悲しみを表現するために用いたと思われる黄と青は衝突しあい、うねるような低木と花の茂みを表現している。バローと実姉の死に触発され、ミッチェルは連作を通して、死後の世界の風景を想像しようとしたのだ。

*US版ARTnewsの元記事はこちら

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