訃報:フランク・ゲーリー、96歳で死去。美術館建築に革新をもたらした建築家

美術館建築のあり方を一変させ、グッゲンハイム・ビルバオ(1997)で都市再生の契機を生んだフランク・ゲーリーが、12月5日、96歳で逝去した。曲線とチタンの外装で知られる革新的建築は、都市と文化の関係を再定義し続けた。

Frank Gehry
自身の建築模型の前で1989年に撮影されたフランク・ゲーリー。Photo: Getty Images

プリツカー建築賞(1989)をはじめ多数の受賞歴を誇る世界的建築家で、美術館建築の分野に多大な影響を与えたフランク・ゲーリーが、12月5日(アメリカ現地時間)、カリフォルニア州サンタモニカで死去した。96歳だった。最初に訃報を報じたニューヨーク・タイムズによれば、死因は短期間の呼吸器系疾患とされる。

フランク・ゲーリーは1929年、カナダ・トロントに生まれた。のちに反ユダヤ主義を恐れ、フランク・オーウェン・ゴールドバーグ(Frank Owen Goldberg)から現在の名に改名したとされる。父が心臓発作で倒れた後、一家はロサンゼルスへ移住。南カリフォルニア大学で建築を学び、1954年の卒業後はしばらく軍に所属した。

1952年に最初の妻アニタ・スナイダーと結婚し、1966年に離婚。1975年に2人目の妻ベルタ・イサベル・アギレラと結婚し、死去時も婚姻関係にあった。スナイダーとの間に1人、アギレラとの間に3人の子どもがいる。

1960年代、ゲーリーはビリー・アル・ベングストン(Billy Al Bengston)やラリー・ベル(Larry Bell)らLAのアーティストたちと親交を深め、のちにジュディス・F・バカ(Judith F. Baca)のヴェニス・ビーチのスタジオも設計した。1962年に事務所を設立し、現在のゲーリー・パートナーズへと発展させた。

グッゲンハイム・ビルバオと「ビルバオ効果」

この半世紀で、ゲーリーほど美術館建築の方向性を決定づけた建築家はほとんどいない。傾斜した不均衡な形態を組み合わせた建築で知られ、美術館は新古典主義や硬質なモダニズム建築の殻を破り得ることを示した。

最も著名な美術館建築はグッゲンハイム・ビルバオ(1997)だ。同館は経済的に停滞していたスペイン・ビルバオに開館し、都市再生の契機となった。その成功は他都市の美術館にも波及し、いわゆる「ビルバオ効果」を生み出した。ゲーリーの設計は、その流れに決定的な役割を果たしたとされる。

外装には3万3000枚のチタンパネルが使用され、当時の館長トーマス・クレンツの依頼で河岸の荒廃した一角に建設された。設計にはCATIAと呼ばれるコンピューターソフトが用いられ、施工にはチタンパネルを取り付けるために登山家が起用された。プロジェクト・マネージャーの一人は、「登山家を雇って取り付け技術を教える方が、職人を登れるよう訓練するより簡単だった」と振り返っている。

開館直後から同館は画期的な建築として称賛され、建築家フィリップ・ジョンソンは、「我々の時代の最高の建築」と評した。

しかし、全てが絶賛されたわけではない。ゲーリー自身も「丘を越えて建物を見た瞬間、こう思った。『なんということだ。私は彼らに何をしてしまったんだ?』」と述懐している。アーティストのアンドレア・フレイザーは、2004年の著名なエッセイで、グッゲンハイム・ビルバオは「自由への幻想」を刺激し、「新自由主義の根底にある欲望を煽る」と記した。だが同館が後の美術館の在り方を変えたことは疑いようがなく、ゲーリー本人もビルバオ後に多数の美術館を手がけた。

ゲーリーはその後、ニューヨークの高層ビル、ベルリンの銀行、ロサンゼルスのコンサートホールを含む多彩な建築を手がけ、フィラデルフィアからパリまで各地で美術館建設を指揮した。キャリアの最重要プロジェクトの一つであるグッゲンハイム・アブダビは、現在2026年の開館に向けて建設が進められている。

美術館以外の建築にもビルバオとの共通性は見られる。ウォルト・ディズニー・コンサートホール(2003)は形態が折り重なるように構成され、フォンダシオン・ルイ・ヴィトン(2014)は波打つようなガラス屋根が特徴。いずれも、チタンと鋼材が織りなす造形を想起させる。

グッゲンハイム・ビルバオの外観。Photo: Joaquin Gomez Sastre / NurPhoto via Getty Images
ヴィトラ・デザイン・ミュージアム。Photo: Education Images/Universal Images Group via Getty Images
2003年10月20日、ロサンゼルスに完成したウォルト・ディズニー・コンサートホール前で行われた献堂式でスピーチするフランク・ゲーリー。Photo: Bob Riha, Jr./Getty Images
パリにあるフォンダシオン・ルイ・ヴィトンの外観。Photo: Michael Jacobs/Art in All of Us/Corbis via Getty Images
LUMA アルルは、パトロンであるマヤ・ホフマンが主導する、Parc des Ateliers再開発区域内の文化複合施設の象徴的存在。Photo: Francois LOCHON/Gamma-Rapho via Getty Images
未完の大プロジェクト、2026年に開館予定のグッゲンハイム・アブダビ。Photo: Gehry Partners

「脱構築主義」をめぐる議論と遺された問い

ゲーリーはしばしば「脱構築主義(Deconstructivism)」に関連づけられる。これは1980年代に現れた潮流で、「ねじれた形状、歪んだ面、折り曲げられた線」を特徴とし、MoMAの1988年の展覧会では「モダニズムの純粋形態を侵犯する試み」と評された。ゲーリーはその展覧会には参加しておらず、こうした分類を避ける傾向もあった(2014年には記者会見で質問者に中指を立て、「現代建築の98%は完全なクソだ」と発言したことでも知られる)。

それでも、彼が建築を伝統から大きく押し広げ、建物を彫刻のような存在へと変えたことは疑いない。実際、ゲーリーは美術作品も制作し、世界有数のギャラリー、ガゴシアンで展覧会を開いた数少ない建築家でもあった。

初期の重要作には、自身のサンタモニカ邸の改修(1977)がある。家に霊がいると聞きつつ、それを「キュビスムの幽霊」と捉え、ガラスと波板スチールを用いた大胆な形態へと作り変えた。「近所の人々は激怒した」と振り返るが、この住宅は後の革新の原型となった。

1983年にはロサンゼルス現代美術館(MOCA)の別館であるテンポラリー・コンテンポラリー(現在のThe Geffen Contemporary)の改修に携わり、倉庫2棟を結合して現代美術の展示空間に再生した。シンプルで端正な佇まいは異色とされるが、最初の本格的な美術館設計となるヴィトラ・デザイン・ミュージアム(1989)では旋回する白いボリュームが組み合わされ、外観は複数の高さの立体が重なるように見える。キャリア後期にも精力的に活動し、LUMA アルル(2021)などの大型施設を手がけた。前述のグッゲンハイム・アブダビは未完の大プロジェクトで、並列された鋼管が連なるような外観となる予定だ。

グッゲンハイム・アブダビがついに開館すれば、ゲーリーが美術館をどう変革したのか、再び大きな論考を生むだろう。だが本人は「ビルバオ効果」への関与をどこか恥じてもいた。2017年、ガーディアン紙にこう語っている。

「それに関わったことを申し訳なく思う。ヤードアーム(見せしめ)に吊るされるべきかもしれない。そんなつもりではなかったのに」

(翻訳:編集部)

from ARTnews

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