アートバーゼル・マイアミビーチは「底なしに薄っぺらい」? その20年の歴史をUS版『ARTnews』編集長が振り返る
今年で20周年を迎えたアートバーゼル・マイアミビーチが大盛況のうちに終幕した。アートバーゼルの中でもとりわけきらびやかなこのフェアの20年を、US版『ARTnews』編集長のサラ・ダグラスが振り返る。
高温多湿のリゾート地で始まったアートフェア
この20年間で私がアートバーゼル・マイアミビーチ(ABMB)を見逃したのは、2004年の1回だけだ。私がABMBの20年の歴史の中でベストだと思う回が2004年であるのも、それが理由。過去最高のパーティやディナーが開かれ、最高のアートと最高の人々が集まったに違いない。当時、パーティやディナーはショア・クラブやデラノ、ザ・ローリーなど、ビーチ沿いの高級ホテルで行われていて、ビスケーン湾の向こう側のウィンウッド(*1)には、まだ何もなかった。新進ギャラリー用の展示ブースとして、砂浜に設置された輸送用コンテナが使われていた時代だ。
*1 倉庫街を再開発した人気のアートスポット。グラフィティのウォールアートで知られ、ギャラリーやショップが並ぶ。
このフェアが歩んできた20年という年月は、気候危機の「グラウンド・ゼロ」と呼ばれるマイアミで、海面上昇などに対する危機感が高まっていった時期と重なる。だからABMBを訪れる時はいつも、世界が終わらんとする中、最果ての地でパーティをしているような気分になるのだ。その危機感は回を重ねるごとに増しているが、中には、「自分の財産をごっそり失うまで、真剣に向き合おうとしない楽観主義者」もいるのも事実だ。湿度の高いマイアミでは程度の差こそあれ、どこもかしこも湿っていて、どんなに立派なホテルでも、空調からカビの臭いがうっすら漂う。それを完全になくすには、街全体を取り壊す必要があるのかもしれない。
ABMBの略称で親しまれているアートバーゼル・マイアミビーチは、50年前からスイスで開催されているアートフェア、アートバーゼルのアメリカ版だ。2000年に構想され、01年にスタートする予定だったが、9月11日の同時多発テロで中止になった。翌02年に開かれた第1回は、どことなく暫定的な感じがして神妙な空気に包まれていたのを覚えている。アート界の人々は慣れない暑さに調子が狂ったようだったし、黒い服を着た人も多く、お祭り騒ぎには時期尚早なのではないかという空気が漂ってもいた。03年にはもう少しリラックスした雰囲気になり、サテライトフェアのNADAマイアミも始まった。
ポップカルチャーやファッションを取り込み拡大
そんなABMBのある意味転換点となったのは、私が行けなかった04年だ。この年に英『アートニュースペーパー』紙が『アート・バーゼル』版の日刊紙を創刊し、米『アートフォーラム』誌は、「Scene & Herd(シーン&ハード)」と題し、イベントやパーティに集うアート界の面々やセレブの様子を日記形式でレポートするオンラインコラムをスタートした。前者は真面目な報道記事で、後者はゴシップ満載という対照的な内容だったが、どちらもカルチャー分野でマイアミビーチの存在感を高めるのに大きく寄与したことは間違いない。両メディアの描き出すこの街は、まるでアート界の住人が集う広場のように見えた。そこでは有名人が華やかなドラマを繰り広げ、内輪同士で互いの仕事を讃え合う。そして、その外にいる読者は、いつか自分もそこに参加したいと憧れのまなざしを送るのだ。この2つのメディアは、ABMBという場で起きた出来事を詳細に記録し、アート界全体が「マイアミ化」していく基盤を作ったと言えるだろう。
ABMBがブームに沸いていた06年、美術評論家のオシアン・ワードは『アートニュースペーパー』紙の記事の中で、当時流行していたアートを「ブリング(けばけばしい)・コンセプチュアリズム」という言葉で表現している。だが、その2年後にはブームは下火になっていた。その証拠に、『アートフォーラム』の記者デビッド・ベラスコ(現在は同誌の編集長)はシーン&ハードの記事の中で、知り合いのアートジャーナリストが「今年のUBS(*2)の夕食会に、キャビアは出なかった」と漏らしていたと書いている。そのジャーナリストとは、私のことだ。湿度の高いある晩、コリンズアベニューでデビッドに出くわして立ち話をしたことを、今でもはっきり記憶している。偉大な編集者ブライアン・ショリスによって立ち上げられた日記形式のシーン&ハードは、マイアミについて書くのなら一人称こそふさわしいとの確信から生まれた。私がここで一人称を使っているのは、それにならっているからだ。
*2 スイスに本拠を置く大手金融機関でアート・バーゼルのメインスポンサー。
これまで、ABMBの終了が噂されたことが何度かあった。たとえば13年10月の一時期、会場に使われているコンベンション・センターの改修に伴い、フェアはマイアミを離れてもっと洗練されたサンフランシスコに移るのではないかと囁かれた。だがABMBに関する予言で最も説得力があり、かつ最も不正確だったのは、美術評論家のピーター・シェルダールによるものだろう。06年に彼は米『ニューヨーカー』誌にこう書いた。「いつか近いうちに、こんなことが起きるのではないか。バーで楽しく話しているお金持ちグループの誰かが、『フェアから帰ってきたばかりだけど、すばらしかったよ!』と言うと、『まだそんなことやってるの?』と返される。それに続く気まずい静けさのなかで、バブルは弾けるのではなく、あとかたもなく消滅するのだ」
彼の予想は、11年に冗談のような形で実現する。その頃、私が編集を担当していた『ニューヨーク・オブザーバー』紙のコラムでアートコレクターのアダム・リンデマンは、このフェアをボイコットするよう読者に呼びかけていた。ところがその彼が、VIPプレビューに現れたのだ。しかし、問題のコラムは当時最もよく読まれた記事の1つだったので、彼を責める気にはなれなかった。ある意味でこの顛末は、マイアミビーチの気質をよく捉えていた。口で言っていることと全く違う行動を取り、悪びれずに肩をすくめてアートを買うという図太さだ。
こうしてABMBは消滅することなく、変化を遂げた。アートにとどまらず、ポップカルチャーやファッションの分野へとその裾野を広げ、どんどん規模を拡大していったのだ。変化の最初の兆候はアートコンテンツの増加で、NADA、アクア、パルス、スコープなど、ナイトクラブかストリートウェアブランドかと思うような名前のサテライトフェアがいくつも立ち上がった。次なるステップは、異なる表現分野を呼び込む以外にないだろう。19年にルベル美術館の向かいでディオールがランウェイショーを開催したとき、誰も驚きはしなかった。ファッションはその何年も前からABMBに進出していたからだ。
ごく初期からフェアとのつながりがあったのは音楽分野だ。大物ギャラリストたちは、興行主よろしくフェアでのライブをプロデュースしていたし、ジェフリー・ダイチは08年に、ミュージシャンとしても活動するアーティストのケンブラ・ファラーのライブを開催。また、一時期若手にディレクションを任せていたラリー・ガゴシアンも、06年に人気バンドのクラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤー(ABMBとは対照的に今や落ち目になってしまったが)をマイアミに呼んでいる。さらに、アートバーゼル自体も07年にイギー・ポップのビーチコンサートを開催した。以前のライブは展示に付随する余興のようだったが、近年のコンサートは公式の関連イベントとして、アート界とはあまり関係なく独立した形で開かれるようになっている。
「バーゼル」の名を冠し、12月初旬にマイアミ各地で開催されるこの超巨大イベントは、もはやコンベンションセンターに並ぶアート作品とは関係なく存在しているようだ。アートフェアが消えても、おそらくほかのイベントは存続し続けるだろう。最近は、フェア自体が余興の余興のようなものになってしまったため、「真面目な」コレクターやアドバイザーは、マイアミに来なくなったという話もよく耳にする。だが、リンデマンのように、彼らは結局姿を現すのだ。土壇場になって気が変わり、フロリダにやってくる。それでいいではないか。
一番良かった作品が思いつかない?
ABMBの思い出話なら、いくつもある。だが、どれも派手すぎるか、地味すぎるかで、きっと読者をがっかりさせるだろう。虎がいたという船上での夕食会には行かなかった。ひょっとしたら出席していたのかもしれないが、少なくとも虎は見ていない。デラノからザ・ローリーまでのたった1ブロックを友人たちと移動するために、リムジンを借りたアートディーラーもいた。午前4時にハンバーガーを食べながら、真剣に芸術談義をしたこともあった。03年には、ヴェルサーチの邸宅で開かれたパーティに忍び込むため壁をよじ登ったという男性に会ったが、話を盛っていただけという可能性もある。彼からその話を聞いたのは、ジェフ・クーンズの彫刻に付いてくるタッシェンの画集(あるいはタッシェンの画集に付いてくる、ジェフ・クーンズの彫刻だったかもしれない)のために開かれたコンサートの会場だった。
05年に、私の師匠だった故ブルース・ウォルマー(既に廃刊になってしまった『アート+オークション』誌の編集長)と一緒にホテルのバーでマティーニを飲みながら、「ここに来ていることを誰にも知られたくないと言っていたあの人、覚えてます? さっき上にいましたよ!」と話したことも覚えている。07年には、美術評論家のデイブ・ヒッキーに、こんな電話をかけたものだった。「デイブ、絶対に信じないだろうけど、今やギャラリーは売れた作品のプレスリリースを出している。しかも販売価格付きで!」
コリンズアベニューが大雨で冠水した年には、みんなが高級ブランドの靴を台無しにしないよう裸足で歩き、ウーバーの運賃は9倍に跳ね上がった。ウォッカに浸した巨大な氷の野外彫刻を展示したパーティが開かれた年もあった。13年に、私はアートフェアと全ての関連イベントのスポンサーをリストアップしてみた。リストは膨大なものとなり、アルコール関連だけでなく、実に幅広い業種の企業が協賛していることに感心したものだ。09年のある夜、ディーラーやアーティストたちと海へ泳ぎに行くために、NADAの会場になっていたドービル・ビーチ・リゾートのプールサイドを通った時、今や有名になった当時の若手アーティストが、ジャグジーの中で1人神妙な面持ちで座っているのを見かけたことも、記憶に残っている。
今までABMBで見た作品の中で何が一番良かったかと聞かれたら、どう答えればいいのだろう。もしかしたら「奈良美智の犬の彫刻がたくさんあって、みんながルベル効果(*3)について話していた年」と言うかもしれない。マウリツィオ・カテランの有名なバナナについて話すことはない。誰もが知っていることだし、私自身は見ていないからだ。わざわざブースまで見に行かなかった。何が言いたいのかというと、一番良かった作品が何なのか思いつかないのだ。記憶の中で全てが混じり合ってぼやけてしまっている。マイアミは、アート作品について深く考えるのにふさわしい場所ではない。
*3 世界的な現代アートのコレクター、ドン・ルベル。その所蔵作品を展示するルベル美術館が2019年にマイアミにオープンした。
マイアミはいつだって未来志向
私は何も、お高くとまっているわけではない。この20年間でアート界が全般的に「マイアミ化」したと表現しているのは、衰退したという意味ではない。いろいろな含みがあるが、一番大きな変化は、かつて閉鎖的だったアート界が、より多くの人に開放されていったことかもしれない。人でごった返すABMB名物のDJパーティは、やがてスイスのバーゼルで17世紀からの歴史を誇る老舗ホテル、レ・トロワ・ロワのナイトクラブ化につながった。そして今年、アート界のゴシップを紹介するポッドキャスト番組「ノータ・ベネ」(司会は『ヴァニティ・フェア』誌のネイト・フリーマンとアートアドバイザーのベンジャミン・ゴッドシル)のマイアミからのレポートで、このホテルが話題にされていた。
ABMBの歴史など、おそらく誰も気にしないだろう。かつてのABMBについて語ろうものなら、ミュージシャンで音楽プロデューサーのジェームス・マーフィーが、昔のキレがなくなったとグチっているように聞こえてしまう。でも、私は20年間の出来事をこの目で見てきたのだ。だからつい昔話をしてしまうこともある。19年にマイアミで行われたディナーパーティでは、私の隣にアートディーラーのギャビン・ブラウンがいて、向かいの席には若い人たちが座っていた。私は彼らにこう尋ねてみた。「天井の電動モーターの仕掛けから潰れたタバコの箱が釣り糸でぶら下がって、ブース全体をぐるぐる回っているだけの展示があったらすごいと思わない?」(*4)。それはすごいかもしれないですね、と彼らは同意してくれた。
*4 ギャビン・ブラウンのギャラリーが06年に展示したウルス・フィッシャーの作品のこと。
以前、ABMBに行く前に、この街のウルフソニアン美術館の名前の由来となったコレクター、ミッキー・ウルフソンを取材したことがある。彼は1950年代から2000年代まで、あらゆる時代のマイアミについていろいろと教えてくれたが、その話を聞いて私のマイアミに対するイメージが大きく変わることはなかった。ノーマン・メイラーのノンフィクション、『マイアミとシカゴの包囲』を読んだときも同じだった。でも、これはすばらしい本なので、一読をお薦めする。
マイアミにいる人は過ぎ去った日々を振り返らない。ここでは、過去は海へと流れていく。ドービル・ビーチ・リゾートは2週間前に取り壊された。NADAは、かつてパルスの会場だったアイスパレス・スタジオで開催されている。マイアミはいつも未来を向いているのだ。もはや長くない未来かもしれないが。
「マイアミ」や「バーゼル」など、どんな略称で呼んでもいいが、かつて私のスタッフだった編集者が某ディーラーを形容した言葉を借りれば、このフェアは底なしに薄っぺらい。でも、マイアミに向かう飛行機の中でこの記事を書いている私は、今から着陸が待ち遠しくてならない。(翻訳:野澤朋代)
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