訃報:キネティック・アートの先駆者、フリオ・レ・パルクが97歳で死去。大規模回顧展が6月に開幕
キネティック・アートの先駆者として知られ、観客を作品の参加者へと変えたフリオ・レ・パルクが97歳で逝去した。6月11日には、約70年にわたる活動を振り返る大規模回顧展がテートで開幕する。
光輝くモビールなどのインスタレーション、そして参加型の展示空間を通じて、アートと観客の関係を再定義したアルゼンチン出身のアーティスト、フリオ・レ・パルク(Julio Le Parc)が、5月30日にパリで逝去した。97歳だった。
アルゼンチンの日刊紙、ラ・ナシオンによれば、レ・パルクは体調悪化のためここ数日入院しており、パリのアメリカン・ホスピタルで息を引き取ったという。息子は同紙に、父が最期まで制作に深く打ち込み、6月11日からテート・モダンで開幕する大規模回顧展を心待ちにしていたと語っている。「Julio Le Parc: Light. Colour. Action.(フリオ・レ・パルク:ライト、カラー、アクション)」と題された同展は、現代アートにおいて「参加、動き、知覚」を中心的なテーマへと押し上げた、約70年にわたる歩みを振り返るものとなる。
参加型アートの先駆的存在
レ・パルクが長いキャリアを通じて追求したのは、アートを観客に一方的に提示されるものではなく、観客とともに成立する体験として捉え直すことだった。
鏡や光、動き、錯視効果を取り入れたレ・パルクは、キネティック・アートを牽引する作家となった。彼のインスタレーションには、展示を訪れた人々を単なる鑑賞者から参加者へと変えるものが多い。鏡張りの部屋を歩き回る、機械仕掛けの装置を作動させる、移ろいゆく光の空間に身を委ねる。現在の美術館が重視する没入型体験を先取りするように、レ・パルクは観客の存在によって初めて成立する空間を作り出していた。
1928年9月23日、アルゼンチンのメンドーサ州パルミラで生まれたレ・パルクは、鉄道員の父と仕立て屋の母のもとで育った。青年期にはアートを学ぶためブエノスアイレスへ移るが、伝統的で硬い美術教育に強い不満を抱き、一時は学校を離れている。その後、復学して学業を修めた。
世界で高く評価される実験的アーティストとなる以前、レ・パルクは夜間の美術学校に通いながら、ブエノスアイレスの名門コロン劇場でドアマンとして働いていた。のちに本人が語ったように、この時期は彼の人格形成に大きな意味をもったという。多様な芸術に触れる一方で、劇場内に存在するヒエラルキーを目の当たりにし、既存の権威に対する懐疑心を深めていった。
伝統と権威への反発
1958年、フランス政府の奨学金を得てパリへ移住したレ・パルクは、実験的な表現が活発に生まれていたこの都市に魅了された。やがて、伝統的な絵画や「孤高の天才」という神話に代わる新たな表現を模索する同世代の作家たちと交流を深める。2年後には、フランソワ・モルレ(François Morellet)、フランシスコ・ソブリノ(Francisco Sobrino)、オラシオ・ガルシア・ロッシ(Horacio García Rossi)、ウーゴ・デマルコ(Hugo Demarco)、ジョエル・スタイン(Joël Stein)らとともに、「Groupe de Recherche d’Art Visuel(GRAV)」を創設した。このコレクティブは、「天才芸術家」という概念を退け、動きや知覚、人々の参加を軸に、作品を集団的な実践として提示することを目指した。
光を用いた表現は、やがてレ・パルクの代名詞となる。プレキシガラスのパーツを滝のように吊るした《Mobile Transparent》(1960)や、鏡と投影された光で構築された没入型空間《Light in Movement》(1962)などは、観客の目の前で形を変え、脈打つような視覚体験を生み出す作品だった。レ・パルクは完成されたオブジェクトを提示するのではなく、鑑賞者がその内部に入り込み、自ら発見していく状況を作り出した。
国際的に認知される大きなきっかけとなったのは、1966年のヴェネチア・ビエンナーレで絵画部門のグランプリを受賞したことだった。ただし、この受賞には皮肉な側面もあった。評価された作品の多くは、反射する光や動き、視覚的な揺らぎに支えられており、従来の意味での絵画とは大きく異なっていたからだ。それでもこの受賞は、レ・パルクを同世代で最も重要な作家のひとりとして国際的に印象づけた。
彼の政治的視点も、作品制作に大きな影響を与えた。権威主義的なペロン政権下のアルゼンチンで青春時代を過ごしたレ・パルクは、政治に限らず、文化の領域においても制度や権力への不信感を抱き続けた。芸術の意味は批評家やキュレーター、コレクター、美術館によって決められるものではなく、観客自身が直接的な体験を通じて見出すべきだという信条は、彼の作品制作と政治的活動の双方を支えるものとなった。
1968年にフランスで起こった五月革命に参加したレ・パルクは、一時的に同国から追放された。この経験は、実験的な表現と権威への挑戦を切り離さずに考える作家としての姿勢を、いっそう鮮明に示す出来事となった。
キネティック・アートを代表する作家のひとりとなったレ・パルクだが、表現の幅をそれだけにとどめることはなかった。1960年代以降は、数十年にわたって、色彩や幾何学的な形状のわずかな変化を利用して、平面上に動きの錯覚を生み出す「Modulation」や「Alchemy」といった代表的なシリーズを制作。複数のプロジェクトを同時進行させることも多く、90代に突入してからも精力的に新作を発表し続けた。かつて本人が語ったように、わずかな時間のインタビュー中でさえ、新しいアート作品のアイデアを構想していたという。
VRを活用した制作も
2010年代に入ると、パリのパレ・ド・トーキョー、マイアミのペレス美術館、ニューヨークのメット・ブロイヤーなど、主要機関で大規模な回顧展が開催され、彼の作品への関心は再び高まりを見せた。また、生涯の大半を海外で過ごしたにもかかわらず、アルゼンチンでも広く愛され続けた。90歳を記念した2019年の祝賀では、地元の美術館での展覧会やパブリック・インスタレーションに加え、ブエノスアイレスのオベリスクへの大規模な光のプロジェクションマッピングも行われた。
2024年には、アルゼンチン国立芸術基金から生涯功労を称えたグランプリを贈られた。また同年、ブエノスアイレスのエセイサ国際空港の出発ロビーには、《Sol》と題された巨大な黄金の球体作品が設置されている。直径約10メートルに及ぶこの作品は、レ・パルクが手がけたモビールのなかでも最大級のものだ。
近年は、最新のテクノロジーを取り入れた作品制作にも力を注いでいた。息子のフアン、ガブリエル、ヤミルと協力してVR作品を手がけ、バーチャル美術館を開設するなど、生涯を通じて追求してきた「参加と知覚」の概念をデジタル空間へと拡張していった。
妻でありアーティストでもあったマルタ・レ・パルク(Martha Le Parc)は、2025年3月にこの世を去っている。二人の間の3人の息子は、現在も父が遺した作品と思想を継承する活動に関わっている。
レ・パルクはキャリアを通じて、アートの体験において観客がより大きな役割を担うべきだと訴え続けた。彼にとって観客は、アーティストや批評家、コレクター、美術館のディレクターと同じく、作品を成立させる重要な存在だった。この信念は活動の初期から彼の制作を突き動かし、最後まで揺らぐことがなかった。
テート・モダンでの回顧展は、本人の不在のまま開幕する。しかし、観客を受動的な傍観者ではなく、作品を動かす能動的な参加者として捉え続けたレ・パルクにとって、この展覧会は単なる追悼の場にとどまらない。光、色彩、動き、そして知覚を通じて現代アートの体験を変えてきた彼の実践が、いまなお観客の身体を通して更新される場となるはずだ。(翻訳:編集部)
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