沈黙のかたち:ヴェネチアで見る3つの個展──李禹煥、安田侃、マリーナ・アブラモヴィッチ
「イン・マイナー・キーズ」を掲げながらも抗議の声が湧いた今年のヴェネチア・ビエンナーレ。その傍らで展開される李禹煥、安田侃、マリーナ・アブラモヴィッチの個展は、鑑賞者に歩みを止めさせ、微細な感覚へと注意を向けさせる。

第61回ヴェネチア・ビエンナーレは、静かな響きをもつ主題「イン・マイナー・キーズ(In Minor Keys)」を掲げた。故コヨ・クオが構想したこの言葉は、主旋律として鳴り響く大きな声よりも、歴史や社会の周縁で低く持続する音、聞き逃されがちな声や感覚に耳を澄ませることを促している。
とはいえ、その幕開けは静かなものではなかった。開幕前には、賞審査でのロシア館とイスラエル館の扱いをめぐり、国際審査員団が辞任した。さらにプレスプレビュー期間には、ロシア館への抗議やイスラエル館の参加をめぐる複数国別館の一時閉鎖や部分的ストライキが相次いだ。開幕後に公開された複数のレビューも、こうした状況を踏まえながら、「イン・マイナー・キーズ」が豊かな細部を含みつつも不均質さを抱え、静けさや癒やしという主題が政治的混乱と切り離せないことを指摘している。祝祭と抗議、制度と抵抗、芸術と政治の現実が、水の都で正面から交錯していた。
その喧騒のすぐ傍らで、同時期にヴェネチアで開催される展覧会は見ること、聞くこと、身体を置くことの条件を別の仕方で問い直していた。李禹煥、安田侃、マリーナ・アブラモヴィッチの個展に共通して現れるのは、「沈黙」である。ただし、それは単なる静寂や癒やしに回収できるものではない。ここでは沈黙を、声が消えた状態というより、すぐに反応し、意味を与え、次へ進もうとする動きをいったん留保する行為として捉える。このレビューでは、距離、接触、参加という異なる方法を通して、3つの展示が沈黙という経験をどうずらしていくのかを考えてみたい。
距離としての沈黙──李禹煥
李禹煥の個展は、サン・マルコ広場に面したアートセンター、SMAC Veniceで11月22日まで開催されている。ディア・アート財団が主催し、ジェシカ・モーガンがキュレーションを手がける公式コラテラル・イベントである。観光客の流れが絶えない広場のすぐそばにありながら、会場に入ると外部の喧騒は遠のく。ただし、そこで生まれる静けさは、外界を遮断することで成立しているというより、鑑賞者の注意を、石、鉄、キャンバス、壁、床、そして自分自身の身体のあいだへと向け直すことで立ち上がる。
展示は、《線より(From Line)》《風より(From Winds)》《風とともに(With Winds)》《照応(Correspondance)》《対話(Dialogue)》などの平面作品と、《関係項(Relatum)》を含むインスタレーションを横断する構成である。ひとつの筆触、ひとつの石、ひとつの鉄板が、空間全体の緊張を変える。壁面の一点や一線は、画面の内側だけで完結せず、余白と視線の運動を通じて周囲の空間を呼び込む。床に置かれた石や鉄板もまた、物体としての存在感を保ちながら、鑑賞者の歩行や距離感を組み替えていく。
《関係項—鏡の道(Mirror Road)》では、石の間を窓に向かって伸びる鏡面仕上げのステンレス板の上を歩くことで、身体は自然物と工業素材、反射と実体、内側と外側の関係のなかに置かれる。実際にその上を歩いてみると、視線だけで作品を捉えることが難しく、鏡面には自分の姿や窓から入る光、周囲の空間が映り込み、普段ならほとんど意識しない歩幅や足を置く位置まで意識せざるを得ない。作品を外側から眺めるというより、自分もまた石、鉄、光の配置のなかへ一時的に組み込まれていくように感じられる。
李自身が近年のインタビューで語る「作られたものと作られざるもの(made and unmade)」の結びつきは、ここで空間的な経験として現れている。この読解は、キュレーターのジェシカ・モーガンが同展の核として挙げる「ジェスチャー、間隔、均衡、空間的緊張」とも重なる。
接触としての沈黙──安田侃
同じく11月22日まで開催中の安田侃の「Isole del Silenzio(静寂の島)」は、建築家であり、ヴィルモット財団の創設者でもあるジャン=ミシェル・ヴィルモットがキュレーションを手がけ、カンナレージョ地区の同財団で開催されている公式コラテラル・イベントである。
展示タイトルが示す通り、会場には「静寂の島々」と呼ぶべき場がつくられていた。同財団の空間に置かれた大理石彫刻は、暗めの空間のなかで、ひとつひとつが小さな陸地のように立ち上がる。水路によって分断され、橋によって接続されるヴェネチアという都市において、安田の彫刻は、見る者が近づき、回り込み、時に身を預けることのできる「島」として現れる。
この展示で印象的なのは、抽象彫刻が観客との距離を保つだけの存在に留まらない点である。訪問時には、作品によって実際に座り、身体を預けることもできた。屋内に置かれた大理石の表面はすべすべとして、ひんやりしている。その冷たさは拒絶よりも、身体の熱をゆっくりと受け止め、鑑賞者の速度を落としていく感覚をもたらす。曲面や空洞は視線を内部へと誘い、触れること、座ることによって、視覚的な印象は身体的な経験へと変わる。本展の公式紹介では、この展示は「禅」「間」「静けさ」といった語彙で語られがちだが、そこで起きているのは、彫刻を前にした内省だけではない。石の重さと人間の軽さ、硬さと呼吸、永続性と一時的な滞在の差が、接触を通じて具体的に意識されるのである。
参加としての沈黙──マリーナ・アブラモヴィッチ
10月18日まで開催されているマリーナ・アブラモヴィッチの「変容するエネルギー(Transforming Energy)」展では、沈黙はさらに異なる相貌を帯びる。会場はヴェネチアのルネサンス絵画を収蔵するアカデミア美術館(Gallerie dell’Accademia)。同館は、アブラモヴィッチを大規模展で紹介する初の存命女性アーティストとして迎えている。展示には、石やクリスタルを用いた参加型の「トランジトリー・オブジェクツ(Transitory Objects)」シリーズのほか、過去のパフォーマンスを参照する作品群が含まれる。
このトランジトリー・オブジェクツは、展示された時点で完結した彫刻というより、人間の存在によって満たされる余地を残した作品である。座る、立つ、横になるといった基本的な姿勢を通じて、見ることは身体の使用へと移し替えられる。実際に作品へ近づき、指示された姿勢で体験してみると、次第に鑑賞者としての振る舞い、「見る」という意識が薄れ始め、周囲の気配や自身の呼吸だけが意識され、展示室の中にいることすら忘れてしまう瞬間が訪れる。
ここでは、作品の前で沈黙することが、作品の内部で瞑想する行為へと変わる。観客は、石やクリスタルに触れ、立ち止まり、目を閉じ、一定の時間を過ごすことを促される。アブラモヴィッチ自身も、観客は「沈黙の目撃者(silent witness)」にとどまらず、「実際の参加者(actual participator)」でなければならないと語っている。また開幕後の報道でも、同展は、観客が作品を完成させる参加型の構造として受け止められた。

白衣のスタッフ、クリスタルを用いた参加型オブジェ、テクノロジーからのデトックスといった演出は、この展覧会を強く特徴づけている。それらは観客の集中を助ける一方で、容易にウェルネス的な文脈へと滑り込む。さらに、それが最初から「エネルギーの変容」と名づけられていることにも、わずかな引っかかりが残る。そこで生じた感覚は、本当に観客自身のものなのか。それとも、あらかじめ用意された「変容」という言葉へと導かれているのか。展示の面白さと危うさは、その境界が最後まで曖昧なところにある。展示が観客に速度を落とさせるときにこそ機能するという既存レビューの指摘も、この両義性を突いている。
沈黙は注意の形式である
3つの個展をめぐったあとに残るのは、同じ「沈黙」と呼ばれるものの手触りが、驚くほど異なっていたという感覚だ。李の作品では、石と鉄、描かれた部分と余白、そのあいだに残された距離を測るように歩いた。安田の彫刻には実際に触れ、石の冷たさが体温によってゆっくりと変わっていく時間を経験した。アブラモヴィッチの作品では、見る側だった自分がいつの間にか作品の条件の一部となり、周囲の気配や自身の呼吸へと感覚がひらかれていった。
共通していたのは、静けさそのものというより、普段は背景へ退いているものが、ふいに前景化する瞬間だったのではないか。 李では物と物のあいだに残された隔たりが、安田では石と身体の接触が、アブラモヴィッチでは鑑賞者自身の行為が浮かび上がる。沈黙は何かを一つの意味へ閉じるのではなく、意味が定まる前の時間を引き延ばす。
開幕時の抗議や制度的な緊張を思い返せば、沈黙を意志の不在とみなすこともできない。むしろ、それ自体がひとつの表明になりうる。声を上げることと、聞くために一度言葉を止めることは、異なる仕方で世界に応答する行為である。「イン・マイナー・キーズ」が示唆するのも、主旋律の陰に隠れていた声や残響、感覚を、別の仕方で受け取ることではないだろうか。
かつてジョン・ケージは、1961年に刊行した『Silence』のなかで、「空っぽの空間や時間というものはない」と書いた。 その先でケージは、そこにはつねに見るもの、聞くものがあると続ける。 李、安田、アブラモヴィッチの作品を前にしたときに浮かび上がる距離、重さ、呼吸も、そのひとつの現れだろう。沈黙とは、世界から退くための空白ではなく、まだ十分には聞き取られていないものに触れ、世界をもう一度聴き直すための時間なのかもしれない。









