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インスタグラムのアート作品に対する検閲問題

2021年10月4日、インスタグラムが親会社であるフェイスブック(現・メタ)の他のサービスとともに使えなくなった。誰もアクセスできない状態が長く続くなか、私のツイッターのタイムラインにはインスタグラムなしの生活がいかに自由かを語るアーティストたちの声があふれていた。2012年のリリース以来、インスタグラムはアート界の主要プラットフォームとなっている。

2021年10月4日(米国時間)、フェイスブック(現・メタ)が運営するインスタグラム、フェイスブック、ワッツアップに世界的な大規模障害が発生し、数時間にわたりアクセス不能となった 写真:ロイター/アフロ
2021年10月4日(米国時間)、フェイスブック(現・メタ)が運営するインスタグラム、フェイスブック、ワッツアップに世界的な大規模障害が発生し、数時間にわたりアクセス不能となった 写真:ロイター/アフロ

今回の騒動に関して真っ先に思ったのは、これはキュレーターで作家でもあるレガシー・ラッセルのいう「グリッチ(欠陥・不具合)」のようなものではないかということ。そして、この出来事が建設的な結果を生むとよいのだが、とも思った。ラッセルは著書『Glitch Feminism: A Manifesto(グリッチフェミニズム宣言)』のなかで「システムが作動しないときには、私たちは軌道修正する」と述べている。

ラッセルのいう「グリッチ」とは、コンピューターウイルスや停電などの技術的な障がいだけでなく、白人至上主義や家父長制、異性愛的な価値観に基づく規範から外れた容姿、考え方、振る舞いなどを体現する「グリッチ的身体」のことも指している。

ラッセルは著書のなかで、男女二元論に挑戦する有色人種のアーティストの作品を紹介している。これらの作家の多くはトランスジェンダーやクィアで、デジタルと「リアル」が互いに切り離せない関係にあることを理解しつつ、それぞれの世界における権力構造に異議を申し立てている。「グリッチ的身体は社会秩序への脅威となる。それらは多種多様かつ広大で、計画的にできるものではない」とラッセルは言う。

私はクィアフェミニストのアーティストだ。インスタグラムをよく利用するが、そこで検閲と闘うことにうんざりしている。仲間の多くは生活のためにこのアプリを使っているし、そこでコミュニティーを作って収入につなげている人も多い。クィア、フェミニスト、トランス、非白人、太った人、障がいのある人、セックスワーカーなどの属性を持つ多くのアーティストと同様、私もインスタグラムを積極的に使っているが、自分の作品に対するプラットフォーム側からの絶え間ない検閲に悩まされてもいる。

私が描く身体は、アプリのアルゴリズムや特定コンテンツ検出の観点からは「不適切」とされてしまう。つまり、ポルノとしてしか認識されないのだ。これらの身体は、「女性」の身体を消費可能なものとする資本主義の歯車にはなり得ない。

この人たちはクィアであったり、トランスであったり、年老いていたり、太っていたり、障がいがあったり、多人種であったりする。多くの場合、性自認は女性だ。垂れ下がった乳房、過去を物語る乳首、非対称の部位、しわだらけの腕、手術や肉体改造の跡があったり、合成ホルモン剤の効果などで男と女の二択という固定観念では捉えられない姿形をしていたりする。

上記の説明では分かりにくいかもしれないので、具体例を挙げてみよう。私は最近、2018年に亡くなったアーティスト、ローラ・アギラールの写真作品をインスタグラムに投稿した。長らく待たれていた彼女の巡回回顧展が、ニューヨークのLeslie-Lohman Museum(レスリー・ローマン美術館)で始まるのを記念してのことだった。

その写真は、砂漠の風景のなかでアギラールがもう一人の女性を持ち上げている様子が引きで撮影されているもの。投稿が削除されたので再投稿したのだが、これがなんと11回も繰り返されたのだ。

筆者が何度もインスタグラムに上げては消去された投稿のうちの一つ Courtesy Clarity Haynes
筆者が何度もインスタグラムに上げては消去された投稿のうちの一つ Courtesy Clarity Haynes

この画像は、インスタグラムの「コミュニティガイドライン」から、ほんのわずかしか外れていない。ガイドラインには次のように書かれている。

「Instagramではさまざまな理由からヌード画像を許可していません。これには、性行為や性器、衣服を着けていない臀部(でんぶ)のアップの写真、動画、デジタル処理で作製されたコンテンツなどが含まれます。女性の乳首の写真も対象となりますが、授乳、出産時や出産後、医療関連の状況(乳房切除手術後、乳がんの啓発運動、性別適合手術など)、または抗議活動に関する写真は許可されます」

アギラールの写真では、女性たちの性器はよく見えず、乳首は風景に溶け込んでいる。そこには生々しさも、あからさまな性的表現もない。ただ砂漠の風景のなかに、アギラールの美しく豊満なラテン系レズビアンの体があるだけだ。

インスタグラムは、絵画や彫刻のヌードは例外として許可している。つまり写真は真の芸術ではないというわけだ。私が11回目の投稿を試みると、アカウントを削除すると警告された。

このような検閲はデジタルの世界でのみ起きているのではない。アギラールの仕事が認められるまでに何十年もかかっており、今なお過小評価されている。おそらくそれは、ソーシャルメディアが普及するずっと前からある偏見からきている。それは、あからさまでなくても根強く残る人種差別、同性愛嫌悪、肥満嫌悪、女性嫌悪といったものだ。

クラリティ・ヘインズ《Davi(ダヴィ)》(2019) Collection of Linda Lee Alter
クラリティ・ヘインズ《Davi(ダヴィ)》(2019) Collection of Linda Lee Alter

デジタルの世界は「現実の世界」と切り離して考えることはできないとラッセルは指摘する。それは結局同じものなのだ。白人至上主義者による暴力、異性愛の規範や家父長制的な美的基準、疎外された身体や声をないものとする態度など、どちらの世界でも同じことが起きている。

10月4日に起きたフェイスブックの大規模障がいと奇妙なほど同じタイミングで、同社の元従業員で内部告発者のフランシス・ハウゲンが身元を明かし、フェイスブックがいかに憎しみを増幅させ、誤情報の拡散を助長しているかを明かした。それ以降、さまざまな団体がフェイスブックの責任を追及するための運動を展開し始めている。

テクノロジーの領域で人種差別と闘う団体Kairos(カイロス)は、フェイスブックに対する全米でのボイコットを11月10日に実施しようと呼びかけている。その要求事項には、マーク・ザッカーバーグCEOの解任と、特定コンテンツの検出ポリシーの全面的見直しが含まれている。また、メディアとテクノロジーに関する改善運動を支援する団体のFree Press(フリープレス)は、ヘイトスピーチや誤情報の横行や差別的なアルゴリズムの使用を抑えるため、議会に対しフェイスブックを規制する法案を可決するよう求めている。

アート業界に身を置く私たちも、フェイスブックに対して声を上げていかなければいけない。このプラットフォームの改善を目指す動きのなかで、アート作品への検閲の問題がうやむやにされないようにするために。

アギラールに限らず、ロバート・アンディ・クームスの写真、レナ・チェンのパフォーマンス、アランナ・ファレルの絵画など、ある種の作品が削除されてしまうことは、結果的にそうした作品の制作や展示の抑圧につながる。こうした仕組みは、物議を醸す作品や主流から外れた視点を消し去る一方で、装飾的で分かりやすい作品、スクロールしながら眺める分には目を引くが、時間をかけて鑑賞されることがない作品を後押しする。

ローラ・アギラールの作品画像が削除された際に表示された警告のスクリーンショット Courtesy Clarity Haynes
ローラ・アギラールの作品画像が削除された際に表示された警告のスクリーンショット Courtesy Clarity Haynes

アート界がインスタグラムに依存するようになった今、アートや文化の現在や未来を左右する力を、このプラットフォームが必要以上に持つようになったことを私たちは認識しなければならない。私たちの多くは、アートの世界でインスタグラムに代わるものがあれば、それを使うだろうと言ってきた。だが、実際にはそのようなアプリは存在せず、IT大手が競合となりそうな新興企業をすぐに買収するような現状では、今後も登場する可能性はほとんどなさそうだ。

ラッセルは、グリッチ(欠陥・不具合)をある種の「喜びに満ちた失敗」と捉えている。先日の大規模障がいをきっかけに、私たちがこれらの問題をもっと意識するようになり、行動に移したならば、それは建設的な出来事だったといえるだろう。

私たちは記念碑を撤去し、美術館は女性や有色人種による作品を多く収集するようになっている。こうした一連の動きのなかで、デジタル領域をどう再構築すべきなのかを考え、そこで特定の(特にLGBTQIA+の)アーティストたちが疎外されている状況に目を向けることも必要だ。文化はバーチャルの世界と切り離せなくなっている。私たちの文化の未来も同様だ。インスタグラムにおける自由と平等に無頓着でいては、他の場所でもそれを実現できないだろう。

ソーシャルメディアは避難場所であり、創造的なコミュニティであり、自己定義の場でもある。アーティストが生計を立てるための手段にもなる。そのために闘う価値があるものなのだ。私たちは巨大企業による権力の乱用を問いたださなければならない。そして模索し続けなければならない。自分自身のための、正直で勇敢な仕事のための、祝福のための、生き延びるための場所を確保する方法を。(野澤朋代)

※本記事は、米国版ARTnewsに2021年10月8日に掲載されました。元記事はこちら

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