1兆ドルの「遺産」がアート市場を動かす──オークションハウスが繰り広げる名コレクション争奪戦

近年、故人となった大コレクターの収集した美術品がオークションで高額落札を記録するケースが相次いでいる。今年も著名人の重要コレクションがまとめて競売され、大手オークション会社の業績回復を支えた。こうした「遺産」がアート市場にもたらす変化についてレポートする。

サザビーズ・ニューヨークのオークションに出品されたグスタフ・クリムト《エリザベート・レーデラーの肖像》の落札の瞬間。Photo: Julian Cassady Photography/Courtesy Sotheby's

ポール・アレン、S・I・ニューハウス、ロバート・ムニューシン、マリアン・グッドマン、レナード・ローダー、バーバラ・グラッドストーン……。彼らは、過去2年間にオークションへ出品されたコレクションを所有していた著名人たちだ。こうして名前を挙げると、まるで一昔前の名士録のようでもある。

最近のアート市場は──少なくとも大手オークションハウスのビジネスは──回復傾向にある。その大きな要因の一つは、上に挙げた世代のコレクターたちの存在だ。主要オークションハウスは2026年上半期にここ数年で最高の業績を上げ、クリスティーズは5年ぶりに売上高45億ドル(最近の為替レートで約7100億円、以下同)を達成。サザビーズは、過去最高の44億ドル(約7000億円)を記録した。

しかし、アナリストたちが指摘するように、それは市場がコロナ禍後の活況を取り戻したからではなく、並外れたコレクションが売りに出された効果によるものだ。サザビーズの元幹部で、ウィザーズ・アート・アンド・アドバイザリーのパートナー兼責任者、マリ=クラウディア・ヒメネスはこう言った。

「現時点での市場の回復が、こうした重要コレクションに牽引されていることに疑いの余地はありません」

そう言い切れる理由は、アート市場が常に供給不足の問題を抱えていることにある。

「富の大移動」がアート市場の供給不足を緩和

傑作と評される美術品は市場から姿を消しがちだ。美術館に収蔵されて二度と売りに出ない作品や、富裕層のコレクションとして何十年も手放されない作品は少なくない。ヒメネスが「今、傑作が市場に出回ることは極めて稀です」と話すように、「非常に価値の高い傑出した作品群」が市場に姿を現すのは、故人となった大コレクターの遺産が売却されるときだけと言っていいだろう。

2023年から25年にかけてのアート市場の「調整」は、主に最高価格帯で起きていた。そのことについて、アート・バーゼルUBSによるグローバル・コレクティング調査(Survey of Global Collecting)の著者であるクレア・マッキャンドルーは、2024年にこう述べている。

「必ずしも、美術品に巨額の支出をする意思のある人が減ったわけではありません。ただ単に、そうした買い手に提示されるべき価値の高い作品が減っているのです」

供給不足の問題は、コレクターの死去によって解決されつつある。しかもこれは一過性の現象ではない。今はいわゆる「富の大移動」の初期段階にあり、今後、数十兆ドル(数千兆円)規模の資産が、大恐慌〜第2次世界大戦終結までに生まれたサイレントジェネレーションや戦後のベビーブーマー世代から、X世代、ミレニアル世代、そしてZ世代の相続人へと引き継がれることになる。

デロイト・プライベートとアートタクティックのアート&ファイナンス・レポートによると、総計1兆ドル(約160兆円)相当の美術品が今後10年間で継承される可能性があるという。相続人の中には作品の所有を望む人もいるだろうが、それを現金化したいと考えるケースも少なくないはずだ。

US版ARTnewsのアーカイブには、このことを裏付ける興味深い記事がある。それは、2020年10月の「Estates in Waiting: Which Collectors Are Being Courted by Auction Houses and Museums?(待機中の遺産:オークションハウスや美術館が熱い視線を注ぐコレクターは誰か?)」だ。

そこで名が挙げられた中には、ジョー・キャロル&ロナルド・ローダー夫妻やポール・アレンがいる。実際、アレンのコレクションは単一所有者によるオークションの落札総額として、史上初めて10億ドル(約1600億円)を突破した。また、レナード・ローダー(ロナルド・ローダーの兄)のコレクションも同等の好成績を収め、昨秋のサザビーズの売り上げを牽引した。

重要なのは遺産相続の動向だけではない。ヒメネスは、生前に主要なコレクションを売却したコレクターとして、ポーリン・カーピダスやジョー・ルイスを例に挙げ、「市場への新たな作品の供給は、2種類のコレクターの組み合わせによって起きる」と言った。つまり、「すでに他界した人」と「自身のコレクション活動を終えようとしている人」だ。

遺産相続に伴う義務によって生じる特殊なニーズ

さらに、あまりロマンティックとは言えない理由もある。それは税金だ。

遺産売却は通常の委託販売にはない金銭的義務や期限を伴うことが多く、そのために確実性が重視される。サザビーズの元幹部でアート・マーケット・アドバイザーズの共同創業者、ミッチェル・ザッカーマンは、遺言執行者や遺産受取人の多くが保証付きの出品を選択する傾向にあるとして、こう説明した。

「遺産の相続人や遺言執行者は、相続税を支払う必要がある場合が多いので、品物が売れないリスクを負いたくないのです。彼らは保証に伴う費用を支払うことを厭いませんし、遺されたコレクション全体を保証の対象とするケースも多々あります」

こうした事情が示唆するのは、オークションハウスにとって遺産の出品者が理想的な顧客であるということだ。遺言執行者には義務を果たすべき期限が課され、処分しなくてはならない遺品が数十点から数百点に及ぶこともある。力のあるギャラリーならリヒターの作品を売ることができるかもしれないが、オークションハウスの場合はリヒターだけでなく、家具、宝飾品、デザイン作品を含むありとあらゆる家財をまとめて競売の日程を組み、最低限の収益を保証できる。ザッカーマンの言葉を借りれば、「一括請負方式」だ。

だから、コレクターの遺品を巡ってクリスティーズとサザビーズが激しい競争を繰り広げるのも無理はない。

その競争は、実際にオークションが行われるずっと前から始まる。サザビーズのグローバル・ファインアート部門のエグゼクティブ・バイスプレジデント、マデリン・リスナーによると、数年先までの計画を立てる家族もあれば、売却の数カ月前に初めてコレクションの取り扱いが検討されるケースもある。それに対して各オークションハウスは、予想価格、保証額、マーケティング計画、そして個人の所有物の処分を一大イベントへと変えるために必要なグローバルな体制を提示して売り込みを行う。

その体制は、大コレクターたちの実際の収集物に合わせて次第に大きくなっている。主要なコレクションが、単一のオークションカテゴリーにすっきり収まることはめったにないからだ。たとえば、5000万ドル(約80億円)の絵画を所有する人物が、驚くほど安い家具やジュエリー、デザイン作品、時計、コインなどを所有していることもある。リスナーは、その幅広さが競争に勝つ上でのポイントになると話す。つまり、グローバルなオークションハウスならほぼ全てを一括して扱えるので、遺産管理者がカテゴリーごとに違う業者に依頼する必要はないというわけだ。

「私たちが接するコレクターの多くは、収集対象を特定のカテゴリーや価格帯に限定しているわけではありません。5000万ドルの絵画を所有する一方で、1万や2万ドル(約160万〜320万円)ほどの様々な品を所有しているコレクターも多いのです」

ストーリー性が遺されたコレクションの価値を高める

遺産全体を一括して売却することには、別の利点もある。それは、コレクターにまつわるストーリー性をセールスポイントにできる点だ。絵画、デザイン、ジュエリーやその他の収集品などの分野を横断して、単一の審美眼が生み出したコレクションとして売り出すことで、リスナーが言うところの全体的な「ハロー(後光)効果」が生み出せる。

また、遺産売却においては金銭的な条件が特に重要になる。遺言執行者は受取人に対して受託者としての義務を負っている。ゆえに、特定の専門業者が個人的に好きだという理由だけで、別の業者からの有利なオファーを断ることはできない。「価値を最大化しなければならないのです」とヒメネスは言う。

しかし、金額が全てというわけでもない。ザッカーマンは、金銭的な条件、マーケティング、そしてその案件に関係する人々という3つの要素で販売業者間の競争を捉えている。たとえ書類上の条件では他に劣っていても、人間的に相性が良いと判断された業者が委託契約を勝ち取ることもある。オークションハウスの担当者は、売却者に対するのと同じようなやり方で、潜在的な買い手に対して売り込みを行うことになるからだ。ヒメネスは単刀直入にこう言った。

「取引の成否は、委託された美術品を販売する担当者で決まります」

遺産売却では、もう一つの売り物がある。それは不朽の名声とでも言うべきものだ。

遺産売却は相続人にとって、いわば親や祖父母の最後の公的な記念碑になるものだ。カタログ、展覧会、動画、そして広報キャンペーンは、コレクターを「優れた審美眼、見識、そして先見の明を備えた」人物へと変貌させる。ヒメネスによれば、こうしたストーリーは遺族にとってとても重要だという。コレクションが散逸した後も長く検索可能な形で残る「レガシー」は、こうした物語を作ることによって生み出されるからだ。サザビーズ自体も、絵画からデザイン、その他の収集品に至るまで、カテゴリーを超えてコレクターの物語を展開することに利点を見出している。

とはいえ、そうした美化された物語が全てのコレクターにふさわしいかは、また別の問題だ。メディア王と言われたニューハウスやマイクロソフト共同創業者のアレンであれば、彼らが所有していたという来歴は作品に大きな付加価値を与えるかもしれない。しかし、コレクション以外ではさほど名の知られていない富豪の場合、その来歴に高い価値が付くことは望めないだろう。当然ながら、オークションハウスはこうした点に対処することでも報酬を得ている。

いずれにしても、根底にあるのは遺産となったコレクションが市場に出回っている現実だ。そして、差し当たってその状況が変わることはないだろう。

リスナーによると、10年前に40歳未満の買い手がサザビーズの顧客全体に占める割合は10%を下回っていたが、今日その割合は約20%に達している。現在の偉大なコレクター世代が今後、故人となっていくことについて、1970年代からオークション業界に携わってきたザッカーマンは、あくまでも実務的な見方をしている。

「美術品を所有するコレクターの遺産は、絶えることなく市場に供給されます」

むしろ問題は、売り出される作品を購入することに、次の世代が関心を持つかどうかだ。(翻訳:清水玲奈)

* US版ARTnews編集部注:本記事の内容は、最新のアート市場動向やその周辺情報をお届けするUS版ARTnewsのニュースレター、「On Balance」(毎週水曜配信)から転載したもの。登録はこちらから。

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