フリーダ・カーロからレオノーラ・キャリントンまで──シュルレアリストは「動物」に何を託したのか
シュルレアリストたちは、なぜこれほど多くの動物を描いたのか。動物行動学者であり画家でもあったデズモンド・モリスが、750点以上の作品を「動物」という視点から読み解いた遺作が刊行される。本書で取り上げられている作家を紹介する。
ヒトデ、サソリ、ツバメ、そしてヒツジなど、シュルレアリストの絵画には、あちこちに動物が登場する。これらの生き物に焦点を当てたのが、動物行動学者デズモンド・モリスの新著『The Surrealist Menagerie: Strange Beasts & Fantastic Visions(シュルレアリストの動物園:奇妙な獣たちと幻想的なビジョン)』だ。
オックスフォード大学で博士号を取得したモリスは、長年にわたる動物学者としての研究と、シュルレアリスム運動に参加した画家としての経験をこの著作の中で融合させている。そして、今年4月に98歳で死去した後に出版される本書に、こんな問いを残した。
「人間の精神の深淵を探ろうとしたシュルレアリストたちが、絶えず動物に目を向けたのはなぜだろう?」
動物に着目して作品を比較するかつてない論考
モリスがこの本で取り上げているのは、シュルレアリスム作品に登場する動物のうち実在する種に限られる。神話上の生き物や複数の獣を合体させたものまで網羅しようとしたら、もう1冊必要になるだろう。「無脊椎動物」などの大まかな分類から「象」などの具体的な種類まで、いくつかのセクションで構成される本書は、シュルレアリスム作品内の動物の事例を750件以上紹介し、そのうち168件の図版を掲載している。
人間は自らが考える以上にほかの動物たちと多くの共通点を持っている──モリスはキャリアを通じてそう主張し続けた。1967年に出版され、ベストセラーとなった一般向けのサイエンス本『裸のサル(原題:The Naked Ape)』で彼は、人間がいかに類人猿と似通っているかを論じた。それに続く著作でも、人間という種が本質的には動物に過ぎないと繰り返し述べて物議を醸している(それに加え、性に関しては明らかに時代遅れの人間臭い価値観に固執しているという批判もある)。

遺作となった『The Surrealist Menagerie: Strange Beasts & Fantastic Vision』でモリスは、シュルレアリスム作品の表現が持つ曖昧さをそのまま受け入れ、何らかの結論を導き出そうとはしていない。彼は別のところで「シュルレアリストたちは自らの作品が分析されるのを嫌う」と書いているが、本書では分析の代わりに、絵の中に見られる魅惑的かつ不気味な生き物たちを取り上げながら、動物というこれまでにない視点で意外な作品同士を対比する。
たとえば、母子を描いたマックス・エルンストの《Marlene(マルレーネ)》(1941)で女性の足元にうずくまるフクロウと、モリス・グレイヴスの《Little-Known Bird of the Inner Eye(内なる眼の、あまり知られていない鳥)》(1941)に登場する鳥にモリスは類似性を見出している。この2点の作品は同年に制作されたものの、普通なら並べて論じられることはなかっただろう。モリスが指摘するように、第2次世界大戦中にこれらの作品を制作したエルンストとグレイヴスは、巣穴に身を隠すだけでなく飛び立つこともできるフクロウに、戦時中の閉塞感や逃避願望を投影したのかもしれない。
このほか、シュルレアリスム関連の書籍で多くのページが割かれることの多いサルバドール・ダリは、本書でも33点もの作品が取り上げられている。しかし彼ほどの知名度がない作家や、レオノーラ・キャリントンをはじめとする女性作家の作品も、モリスは幅広く紹介している。
女性作家に特徴的な自己と動物との同一化
シュルレアリストが描く動物に意味を見出すことに対して、美術史家たちはモリスほど慎重ではない。たとえばキルステン・ストロームは、これらの動物の絵にはすべてダーウィンの影響が潜んでいると指摘する。ダーウィンの進化論は人間と動物の間にあると信じられていた境界を消失させ、それがきっかけでフロイトは心理性的発達理論を発展させた。
また、原始的な生き方への回帰を夢見たシュルレアリストたちにとって、動物は小市民的な常識を振り払って自由に生きるためのモデルになり得るものだった。自分は「母が鷲の巣に産んだ卵から生まれた」と主張していたエルンストは、鳥を守り神的な生物と捉え、《Loplop Introduces Loplop(ロプロプを紹介するロプロプ)》(1930)などの作品で鳥を自らの分身として描いている。
一方では、動物の姿を借りることで、他者(概して女性)の身体を利用する免罪符を得ようとしているように見えるケースもある。たとえばクロヴィス・トルイユの《Justine(ジュスティーヌ)》(1937)に、縛られて囚われの身となった裸の女性と、がんじがらめになったライオンが描かれているように。

シュルレアリスムは、単一の主張や表現方法を推し進めようとする運動ではなかった。その中で注目すべきは、女性アーティストに動物と自己とのハイブリッド的な同一化を描く傾向が強かったことだ。たとえば、フリーダ・カーロは猿に囲まれた自画像や、傷ついた鹿としての自画像を描いた。また、レオノール・フィニは猫と寄り添う女性像を、キャリントンはフェレットやキツネたちとの集会を描いた作品を残している。
キャリントンの作品には特に、「エコフェミニスト的」と呼ばれるアプローチが見られる。自身の内面を表すために動物をモチーフとするのではなく、種を超えた絆を描こうとするこの傾向は、《Self-Portrait(自画像)》(1937-38年頃)にも表れている。「夜明けの馬の宿」とも呼ばれるこの絵がキャリントンのハイエナに対する親近感や、馬との強い結びつきを表していることはしばしば論じられてきた。だが、彼女が個人的な志向を超えた壮大なスケールで動物との絆を捉えていたことが、その著作に明示されている。
1974年に出版された彼女の小説『耳ラッパ 幻の聖杯物語(原題:The Hearing Trumpet)』では、マリアンという名の90代の菜食主義者の主人公が家父長制的な老人ホームの経営者に立ち向かい、気候変動の中で聖杯を求める旅を続け、種を超えた同盟関係を築いていく。最終的に彼女が思い描くのは猫や狼男、ミツバチ、ヤギが暮らす世界で、そこには「人間性の進化」への期待が込められている。キャリントンの作品において、より人間味のある世界への可能性を切り開くのは、女性と動物たちの連帯なのだ。(翻訳:野澤朋代)
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