「パリ発祥の地」論争が決着? ノートルダム大聖堂のそばで2000年前の壁を発見

フランスの首都パリの中心部にあるシテ島で、古代ローマのユリウス・カエサルによるガリア遠征と同時代の城壁が出土した。この発見は、パリ発祥の地をめぐる長年の議論に大きな進展をもたらすものと見られている。

パリのシテ島にある歴史的な病院、オテル・デューの敷地内で発掘された古代の壁を視察するパリのエマニュエル・グレゴワール市長(2026年9月23日撮影)。Photo: Simon Wohlfahrt/AFP

パリを流れるセーヌ川の中洲・シテ島で、長さ約20メートルの石と木でできた古代の壁が発見された。ニューヨーク・タイムズ紙の報道によると、今夏その壁が発掘されたのは、ノートルダム大聖堂に隣接する歴史ある病院、オテル・デューの改修工事が行われていた敷地内の地下だった。

放射性炭素年代測定を実施したところ、壁は紀元前200年から紀元前10年にまでさかのぼるものだということが分かった。これは古代ローマによるガリア征服の時期と重なるという。なお、壁の近くからは古代ガリアの槍の穂先も出土している。

ローマの将軍ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』には、ルテティア(ルーテシア)と呼ばれる地に関する記述がある。ルテティアの集落は後にパリと改名されたが、この名の由来となったのは集落を築いた古代ケルト人の一部族、パリシィ族だった。同戦記によると、セーヌ川の中州に位置する要塞都市ルテティアの住民は、ローマ軍が接近すると集落を焼き払い、橋を破壊したという。そして紀元前52年、この地はローマに征服された。

しかし、カエサルが記した地理情報の信頼性を疑問視する考古学研究者も少なくない。シテ島にはガリア人の大規模な集落があったことを示す物理的な証拠が乏しいのに対し、パリ西郊のナンテールで1990年代に行われた発掘調査ではいくつもの遺構が次々見つかったからだ。そのため、ルテティアの場所に関しては、「シテ島説」と「ナンテール説」の間で長年議論が交わされてきた。

シテ島で発見された壁は、そうした状況を一変させるに十分なものだ。従来、シテ島説に懐疑的だったリュミエール・リヨン第2大学の考古学者マチュー・プー教授は、新たな発見を受けて考えを改めたとし、ルテティアがシテ島にあったことに「疑いの余地はない」とニューヨーク・タイムズに語った。

また、今回の調査結果で特に興味深いのは、壁に焼かれた痕跡があることだ。近辺で見つかった焦げた種子や焼け落ちた木造建築物の残骸は、2000年以上前にカエサルが記述した住民による破壊行為の物理的な証拠である可能性を示唆している。だが、断定するには時期尚早で、フランス文化省は壁の建設時期や目的などの特定にさらなる調査が必要だとしている。

とはいえ、新たな発見はパリの歴史における大きな空白を埋めるものと言えるだろう。パリは世界で最も遺跡調査が進んでいる都市の1つで、現在のカルチェ・ラタンやリュクサンブール公園の地下から見つかった集落など、古代ローマの時代についてはかなりのことが明らかになっている。一方、ガリア時代のパリについては、まだまだ分からないことが多い。これについてプー教授は、壁の発見でこの時代の研究に有用な資料が「10倍」になったと話す。

なお、病院周辺ではさらなる発掘調査が計画されており、壁は最終的に調査・展示のため移動される予定だという。(翻訳:石井佳子)

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