訃報:草間彌生が97歳で死去。「無限」を追い続けた前衛芸術家

水玉や網目の反復から「無限」を表現し、世界の現代美術に大きな足跡を残した草間彌生が8月14日、多臓器不全のため東京都内の病院で死去した。97歳だった。

草間彌生。2012年撮影。Photo: Steve Eichner/WWD/Penske Media via Getty Images

カラフルな水玉や網目模様、カボチャのオブジェなどで世界的に知られる前衛芸術家の草間彌生が8月14日、多臓器不全のため東京都内の病院で死去した。97歳だった。8月27日、共同通信などが報じた。

幼少期から経験した幻視を出発点に、水玉や網目を反復する独自の表現を確立した草間。1950年代末からニューヨークの前衛美術シーンで頭角を現し、絵画から彫刻、インスタレーションパフォーマンス、文学、ファッションまでジャンルを横断しながら70年以上にわたり制作を続けた。世界各地の主要美術館で大規模展が開催され、「前衛の女王」「水玉の女王」と称されたその97年の生涯を振り返る。

幻視を絵に──松本からアメリカへ

1929年3月22日、長野県松本市で種苗業を営む家族の末娘として生まれ育った草間は、家の周りに咲くスミレなどの花々をスケッチするのが日課だった。幼い頃から、水玉や網目で視界が覆われたり、動植物の声が聞こえたりする幻覚を経験し、それらのイメージを絵に描くようになった。幻覚によって感じた驚きや恐怖を、絵を描くことで鎮めようとしたことが創作の原点となった。

10歳頃に描いた母親の肖像画には、人物の周囲に無数の水玉が広がっている。後に草間の代名詞となり、世界中を覆い尽くすことになるモチーフは、すでにこの頃からその作品に現れていた。

1948年、19歳で京都市立美術工芸学校に入学。日本画を学び、1952年には松本市で初の個展を開催する。その後も作品発表を重ねたが、草間が強く意識するようになったのは、当時の日本社会の閉塞感だった。自身の芸術にはもっと自由で広大な世界が必要だと考え、渡米を決意する。

その背中を押した一人が、アメリカを代表する画家ジョージア・オキーフだった。草間はオキーフの住所を調べて作品の水彩画とともに手紙を送り、助言を求めた。オキーフから返信を受け取った草間は、1957年、28歳で単身アメリカへ渡った。

ニューヨークで生まれた「無限の網」

2012年、アドミラルティのJWマリオット・ホテルで公開された草間彌生《Infinity Nets》。Photo: K. Y. Cheng/South China Morning Post via Getty Images

シアトルを経てニューヨークに移った草間は、マンハッタンで制作活動を始めた。生活は決して楽ではなかったが、猛烈な勢いで作品を制作した。

この時期に生まれたのが、草間の最初の代表的シリーズ「無限の網(Infinity Nets)」だ。巨大なキャンバスの全面を細かな網目で埋め尽くす絵画は、1959年にニューヨークのブラタ・ギャラリーで発表されると注目を集め、ニューヨーク・タイムズやUS版ARTnewsなどでも取り上げられた。

無数の網目を反復する行為は、やがて自分自身と周囲の世界との境界を消し去っていく「自己消滅(Self-Obliteration)」という草間独自の思想へと発展していく。

当時まだ若手だったドナルド・ジャッドは草間の展覧会を高く評価し、作品も購入した。フランク・ステラをはじめ同時代のアーティストたちも草間の作品に注目し、日本から渡ってきた一人の女性作家は、男性中心だったニューヨークの前衛美術界で次第に存在感を強めていった。

ハプニング、《ナルシスの庭》、そして「前衛の女王」へ

マサチューセッツ州プロビンスタウンで開催された「ボディ・フェスティバル」で、フィラデルフィア出身のヒッピー、マーサ・メルニクにボディペインティングを施す草間彌生。Photo: Getty images

1960年代に入ると、草間の表現はキャンバスから立体、さらにはギャラリーや美術館の外へと飛び出していく。

家具や日用品を無数の布製の突起物で覆う「集積」シリーズを制作し、1965年には鏡張りの空間に赤い水玉模様の突起物を敷き詰めた《無限の鏡の間―ファリーズ・フィールド》を発表した。鏡によって自身や作品が際限なく反射・増殖する「無限の鏡の間」は、後に世界各地で観客を魅了する草間の代表的な作品形式となる。

同時期、ベトナム戦争への反戦運動やカウンターカルチャーが広がるアメリカ社会を背景に、草間は裸体に水玉を描くボディ・ペインティングや「ハプニング」と呼ばれるパフォーマンスも相次いで実施した。

1966年には第33回ヴェネチア・ビエンナーレの会場で、1500個の銀色の鏡面球を芝生に敷き詰めた《ナルシスの庭》をゲリラ的に発表。草間自身が「YOUR NARCISSISM FOR SALE(あなたのナルシシズムを売ります)」と掲げ、球体を1個2ドルで販売しようとしたが、ビエンナーレ側によって販売を止められた。

美術作品と商品、美術制度と市場の関係を挑発するこの活動について、草間は後に著書『水玉の履歴書』(2013、集英社新書)でこう述べている。

「社会のなかで自分の置かれた立場を振り返り、新しい歴史を作っていく。それが前衛ということだと思います」

こうしたゲリラ的な活動は、ヌード・デモ、ラブ・ハプニング、水玉のボディ・ペインティングへと広がり、ベトナム反戦運動などの歴史的背景とも結びつきながら、より政治的、社会的な色彩を強めていった。

さらにミュージカル、映画、ファッションなど多様な領域へ活動を拡張し、新しい表現を追求し続けた草間は、やがて「前衛の女王」と呼ばれるようになった。

日本への帰国、そして世界的な再評価

2021年4月29日、ドイツ・ベルリンのマルティン・グロピウス・バウで開催された展覧会「草間彌生:回顧展 ― 宇宙に見た愛の花束 I」で展示された「カボチャ」の作品。Photo: Adam Berry/Getty Images

1973年、草間はニューヨークでの約16年間の活動を終え、日本に帰国する。しかし当時の日本では、ニューヨーク時代のスキャンダラスな活動ばかりが取り沙汰され、今日のような美術史的評価をすぐに得られたわけではなかった。

そんな中で草間が新たに向き合ったのが、日本語による文学だった。小説や詩を書くことは、絵画とは異なる方法で自己の内面を見つめ直す手段となった。処女小説『マンハッタン自殺未遂常習犯』をはじめ、小説、短編集、詩集などを次々と発表する一方、作品制作も続けた。

1980年代にはフジテレビギャラリーなどで定期的に作品を発表。現在では草間の代名詞の一つとなったカボチャのモチーフも、この時期から作品の重要な主題として存在感を増していった。

国際的な再評価を大きく進めたのが、1989年にニューヨークの国際現代美術センター(CICA)で開催された回顧展だった。ニューヨーク時代の仕事が改めて検証され、草間が戦後美術において果たした先駆的な役割に再び光が当てられた。

そして1993年、大きな転機が訪れる。美術評論家の建畠哲をコミッショナーに迎えた第45回ヴェネチア・ビエンナーレで、草間は日本館代表として個展を開催した。《ナルシスの庭》をゲリラ的に発表した1966年から27年。今度は正式な日本代表としてヴェネチアの地へ戻ったのだ。

建畠は、抽象表現主義からミニマル・アートポップ・アートへと戦後美術が大きく転換したニューヨークにおいて草間が果たした先駆的役割に焦点を当てると同時に、新作も紹介した。この日本館での展示は、国内外で草間の評価を決定的に高める契機となった。

1998年にはロサンゼルス・カウンティ美術館を皮切りに、ニューヨーク近代美術館(MoMA)、ウォーカー・アート・センター、東京都現代美術館を巡回する「Love Forever: Yayoi Kusama, 1958–1968」が開催され、ニューヨーク時代の革新的な仕事が本格的に再検証された。

70代からさらに加速した世界的な活躍

2023年6月29日、イングランドのマンチェスターにあるアビバ・スタジオで開催された草間彌生の展覧会「You, Me and the Balloons」の展示風景。Photo: Christopher Furlong/Getty Images

70歳を迎えた2000年代以降も、草間の制作は勢いを失うどころか、さらに拡大していった。2004年からはモノクロームのドローイングによる「愛はとこしえ」シリーズ、2009年からは鮮烈な色彩と顔や目、生物を思わせるモチーフが画面いっぱいに広がる大型絵画「わが永遠の魂」シリーズを制作。後者は2021年までの12年間に約900点に達した。

その後も制作は止まらず、2021年には新たな絵画シリーズ「毎日愛について祈っている」を開始。「無限」「愛」「生と死」といった生涯にわたるテーマを晩年まで追究し続けた。

世界各地の美術館では大規模展が相次いだ。2012年にはロンドンテート・モダンで大規模な回顧展を開催。2017年にワシントンD.C.のハーシュホーン美術館から始まった「Yayoi Kusama: Infinity Mirrors」は北米各都市を巡回し、鑑賞者自身が作品内部へ入る「無限の鏡の間」が長蛇の列を生む社会現象となった。

2022年には香港のM+で、1945年から当時までの活動を約200点の作品で振り返る大規模回顧展「Yayoi Kusama: 1945 to Now」が開催されるなど、90代になっても世界各地でその作品が紹介され続けた。

美術館の外にも草間のイメージは増殖した。2012年にはルイ・ヴィトンと初めて大規模なコラボレーションを実施。2023年には再び同ブランドとタッグを組み、ニューヨーク、パリ、東京など世界各都市の店舗を巨大な水玉や草間自身を模したフィギュアが覆い、SNSでも大きな話題となった。

日本では、香川県・直島に設置された黄色い《南瓜》が島を象徴する存在となったほか、故郷の松本市美術館をはじめ、各地に作品が恒久展示されている。2017年には東京・新宿に草間彌生美術館が開館。自身の作品を未来へ継承するための拠点も生み出した。

2006年には高松宮殿下記念世界文化賞を受賞し、2009年に文化功労者、2016年には文化勲章を受章した。

「私の死んだ後までも」

2021年4月29日、ドイツ・ベルリンのマルティン・グロピウス・バウで開催された展覧会「草間彌生:回顧展 ― 宇宙で見た愛の花束 I」で展示された、草間彌生の彫刻作品《Self-Obliteration》。Photo: Adam Berry/Getty Images

草間は最晩年まで、美術の歴史に自らの名を刻むという強烈な意志を失わず、制作を続けた。幼い頃、幻視や死への恐怖に苦しんだ少女は、その体験を水玉や網目へと変換した。それらはやがてキャンバスから立体、身体、部屋、建築、都市へと広がり、世界中の人々を包み込むまでになった。極めて個人的な内面から始まった表現を、見る者自身が「無限」の中へ入り込む普遍的な体験へと変えたことこそ、草間が戦後美術にもたらした大きな革新の一つだった。

草間は生前、『水玉の履歴書』でこう記している。

「水玉はこれからも増殖し続け、世間の人々に私のメッセージを訴えかけていくでしょう。そして、私の死んだ後までも、私の足跡を遠大にそして深淵に伸ばし、絶ゆることなく後の世代の人々に伝えることができたら、これ以上の幸せはありません。今日から明日、明日から明後日と、努力を積み重ねて、人々の感動に訴えていきたいと思います」水玉、網目、カボチャ、そして無限に反射する鏡の部屋。草間が生涯をかけて増殖させてきたイメージは、本人が望んだ通り、その死後も世界各地で生き続けることになる。

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