訃報:現代アートを牽引したコンセプチュアル・アートの巨人、ダン・グラハムが死去
アーティストのダン・グラハムが79歳で死去した。その活動は、彫刻やパフォーマンス、コンセプチュアル・アートなどにまたがり、分類不能な作家として知られる。グラハムの作品には、鑑賞者が自分自身に対して、そして周囲の人々や環境に対して抱く認識を、大きく揺さぶる力がある。
グラハムの作品を扱う4つのギャラリー、Lisson Gallery(リッソン・ギャラリー)、Marian Goodman Gallery(マリアン・グッドマン・ギャラリー)、303 Gallery(303ギャラリー)、Regen Projects(レーゲン・プロジェクツ)は、彼が2月19日にニューヨークで亡くなったことを声明で発表。死因は明らかにされていない。
声明には、「作家、写真家、建築家、彫刻家、映像作家、パフォーマンス・アーティストとして、半世紀にわたり活躍した彼は、現代アートの世界に広く影響を与えた」と記されている。
グラハムは、1960年代から70年代にかけて発展を見せたミニマリズム、ポストミニマリズム、コンセプチュアリズム、そしてビデオアートの先駆者だ。だが彼自身は、どのムーブメントにも一切関わっていないと主張していた。グラハムは自分のことを建築家、そして作家だと考えており、ニューヨーク現代美術館(MoMA)のオーラル・ヒストリー・プログラム(*1)の一環として2011年に行われたインタビューでも次のように語っている。「アートに対して情熱を感じたことはない。自分の情熱の対象はずっと、建築ツーリズム、ロックンロール、そしてロックンロール批評だ」
グラハムの仕事は膨大で幅広い。巨大なガラス彫刻から小さなテキスト作品、監視をテーマにしたトリッキーなパフォーマンス、ロックンロールに関する鋭い批評を行ったビデオ作品など、多岐にわたっている。
自分はアーティストではないと言うグラハムだが、彼の自己言及的なテキスト作品、写真、ビデオ、彫刻などは何世代ものアーティストに影響を与えてきた。2009年に米国初のグラハムの回顧展が開かれた際、それを報じるニューヨーク・タイムズ紙の記事の中で、ホイットニー美術館のキュレーター、クリッシー・アイルズは、グラハムの影響はリクリット・ティラヴァーニャやトニー・アウスラー、ウェイド・ガイトンといったアーティストに見いだせると述べている。この作家たちは皆、グラハムより15歳以上も年下だ。
記事を執筆した批評家のランディ・ケネディは、この点について次のように書いている。「彼らの作品は、グラハムのものとも違うし、互いの類似点もほとんどないように見える。これが何を示しているかというと、知覚、そして芸術と大衆文化における“しきたり”というグラハムが深い関心を寄せてきたテーマが、いまや現代アートの一部として浸透しているということだ」
グラハムの仕事のなかでも特に印象的なのは、キャリアの最初期に作られた作品だ。60年代半ばの一時期、アートディーラーになろうとして挫折したグラハムは、生まれ育ったニュージャージーに戻ることにした。故郷に向かう電車に揺られながら、同じ形の家がずらりと並ぶ住宅団地を見た彼は、それがきっかけで最初の代表的作品《Homes for America(ホームズ・フォー・アメリカ)》(1966〜67)を制作することになる。住宅団地を撮影したアマチュア写真風のシリーズ作品は、影響力のある雑誌Arts(アーツ)の特集で取り上げられ、ウォーカー・エバンス(*2)の写真の近くに掲載された。しかし、グラハムはエバンスのようなプロの写真家ではなく(当時グラハムはエバンスを知らなかった)、その写真は決して洗練されたものとは言えない。
このほかにも、グラハムのコンセプチュアルな作品は、雑誌掲載という形で発表されている。彼は雑誌というメディアを、1956年のSF映画「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」(*3)に登場する宇宙からの侵略者に例えている。何食わぬ顔をして家庭生活の中に入り込み、やがてそれを侵食してしまう存在だと捉えているのだ。
1ページの雑誌記事として発表された《Detumescence(萎縮)》(1966)は、絶頂に達した後に男性のペニスがどうなるのかを解説する医学的な記述だけで構成された作品だ。同じくマスメディアに掲載されることを想定した《Schema(図解)》(1966)は、それぞれの掲載媒体のタイポグラフィーや仕様などを詳細に説明するテキストで構成されている。
こうした作品は、単なる挑発ではなく、メディアによる一方通行の情報伝達を破壊しようとするものだった(グラハムは、1960年代に同様のテーマで映画を制作していたヌーベルバーグのジャン=リュック・ゴダール監督から大きな影響を受けたと話している)。
グラハムはまた、コンセプチュアリズムと結びつけて語られることもある。この芸術運動の作家たちも、しばしばメタ・テキストを用いた作品を作り、芸術は視覚的に存在するだけでなく、観念としても存在するという考えを打ち出していたからだ。しかし、自分自身や、自分の仕事についてキュレーターや美術史家、批評家が語ることにはとりあえず異議を唱える癖があったへそ曲がりのグラハムは、コンセプチュアル・アートとの関係を断固として否定している。彼は、ミュージシャンのキム・ゴードンとの2008年のインタビューで、この運動のことを「アカデミックなたわごと」と切って捨てている。
ダン・グラハムは、1942年3月31日にイリノイ州アーバナに生まれ、ニュージャージー州ウィンフィールドで育った(星座は牡羊座で、インタビューではよくそのことを口にしている)。母親が教育心理学者だったことから、早くから人間の空間認識に興味を持つようになったという。高校卒業後は正規の教育を受けることはなかったが、若い頃にクロード・レヴィ=ストロース、マーガレット・ミード、ジャン=ポール・サルトル、ヴァルター・ベンヤミンを読み、文字通りスポンジのように知識を吸収している。もともとは作家を志していた。
1964年、グラハムはニューヨークにJohn Daniels Gallery(ジョン・ダニエルズ・ギャラリー)を設立する。当時はあまり知られていなかったが、このギャラリーは、ソル・ルウィットの初個展の会場として、また後に有名になる多くのミニマリストが駆け出しの頃に展覧会を開いた場所として、今では伝説的な存在だ。だが作品はまったく売れず、開廊からわずか1年でギャラリーを閉めることになった。
コンセプチュアルなテキスト作品の後、グラハムはより広範な作品制作を行うようになる。その作品は、パフォーマンス、ビデオ、インスタレーションという形をとりつつ、観客がメディアとなることが多い。これについて彼は、MoMAのオーラル・ヒストリー・プロジェクトのインタビューで、「観客を作品に巻き込みたかった」と説明している。
60年代後半から70年代初頭にかけて制作された作品では、時間と空間はまるで自由に形を変えられるもののように見え、奇妙な感覚を生む。当時は比較的新しい技術だったビデオ機材を思う存分使いたかったグラハムは、このメディアで活動するアーティストが多く集まっていたノバスコシア美術大学の教員になった。そこで彼は、ブルース・ナウマンのジャンルを超えた作品を思わせる、2画面の映像作品《Roll(転がる)》(1970)を制作している。一方の画面は、グラハムがカメラを持って坂を転がり落ちる様子を、もう一方の画面には、彼が持っていたカメラの映像が映される。別の作品では、映像にディレイ効果や立体感を加えて、直線的な時間の流れに混乱を起こしている。これに関してグラハムは、ミニマリズムが試みたが実現できなかったことだと語っている。
70年代半ばには、鏡を多用するようになった。パフォーマンスの際には観客を映し出す道具として、彫刻では鑑賞者を包み込む環境を歪ませるものとして用いている。サルトルの著作『存在と無』(1943)や70年代の企業建築と結びつけながら、グラハムは長年にわたって鏡にさまざまな意味付けをしてきた。《Performer/Audience/Mirror(パフォーマー/観客/鏡)》(1972)では、グラハムはまず鏡の前に観客たちを座らせ、自分は鏡を背にして、観客の動作とその動きが意味するものを説明する。次にグラハムは鏡のほうを向いて、自分と観客がその空間の中でどう動いているかを説明する。「観客はまず、自身を“客観的に”(“主観的に”)自分が認識するを見る。次に、パフォーマーの認識という観点から自分自身が“客観的に”(“主観的に”)説明されるのを聞く」と彼は書いている。
グラハムの最も有名な作品であるガラスパビリオンは透明な建築空間のように見えるが、実際はマジックミラーで作られている。グラハムはその効果ついて、2014年のArtspace(アートスペース)のインタビューで次のように語っている。「それは、空を映し出す一方で監視にもなる。中から外は見えるが、外から中は見えないから」
1991年にはディア美術財団が運営していたアートスペースの屋上に「都市公園」を意図したガラスパビリオンが作られ、2004年の閉館まで公開されていた。2014年にはメトロポリタン美術館の屋上に、パビリオンと似たコンセプトの曲線的な彫刻が登場した。また、ノルウェーの北極圏付近など、アートスペースとは言い難い場所にも数多く設置された。
ガラスパビリオン以外にも、グラハムがカルト的な人気を得た作品がある。それは、シェイカー教徒(*4)などの宗教音楽の系譜にロックンロールを位置付けた、モンタージュを多用した55分の映像作品《Rock My Religion(ロック・マイ・リリジョン)》(1984)だ。キム・ゴードンとサーストン・ムーア(*5)がサウンドトラックを提供したこのビデオ作品は、グラハムが影響を受けたロックミュージックに捧げたオマージュだと言える。
グラハムの輝かしいキャリアは、世界中のアート関係者から高く評価されている。ドクメンタには4回、ヴェネチア・ビエンナーレは3回(ビジュアルアーティストとしては珍しく建築部門にも出品しているが、それを除く)、ホイットニー・ビエンナーレは3回、ドイツのミュンスター彫刻プロジェクトには2回出品。2009年の回顧展「Beyond(ビヨンド)」は、ニューヨークのホイットニー美術館、ロサンゼルス現代美術館、ミネアポリスのウォーカー・アート・センターを巡回した。
長くニューヨークを拠点としていたグラハムだが、2009年のArt in America(アート・イン・アメリカ)誌のインタビューでは、自分の作品はニューヨークでなかなか認められなかったと語っている。とはいえ、数多くの現代アーティストたちが、彼の話を聞くためにローワー・イーストサイドにある家賃450ドルの安アパートに足を運んでいた。グラハムは、70年代のアートシーンがいかに自己陶酔的だったかという話から、近所のシネコンで上映されている最新のコメディーのことまでを皮肉まじりに語り、訪問者を楽しませた。彼は、セス・ローゲン主演のおバカなコメディーからも、ギー・ドゥボール(*6)のシリアスな著作からも、同じくらい喜びを得ているようだった。
2015年に開催された自作の上映会で、彼は観客にこう話していた。「全てのアートは楽しむためにあるべきだ」 (翻訳:野澤朋代)
※本記事は、米国版ARTnewsに2022年2月19日に掲載されました。元記事はこちら。