ウォーホルの《マオ(毛沢東)》が50歳を迎える

  • 2022年5月17日
  • INTERNATIONAL

Text: Billy Anania

1982年、54歳のアンディ・ウォーホルは、生まれて初めて、そしてたった1度だけ、中国を訪れた。毛沢東の肖像画を描いた代表的な作品集を制作してから10年後、北京の街を歩き回った彼は、すぐに中国文化の画一性に好感を抱いた。「Interview(インタビュー)」誌の写真家クリストファー・マコスは、2008年に出版された『Andy Warhol in China(アンディ・ウォーホル・イン・チャイナ)』で、ウォーホルが中国に対して抱いた感慨について報告している。すべての男女が青い人民服を着ている群衆を見たウォーホルは、「もし私が服のデザイナーだったら、1着の服を繰り返しデザインするだろう」と言ったという。

天安門でのアンディ・ウォーホル(クリストファー・マコス撮影、北京、1982年) © Christopher Makos

ウォーホルのシルクスクリーンプリントの連作《マオ(毛沢東)》は、1950年から毎年、毛沢東のまったく変わらない肖像画を描き続けた中国の公式画家、張振仕(ジャン・ジェンシー)の制作スタイルと、「繰り返しの表現」という意味においてよく似ていた。天安門広場の入り口、天安門の上に掲げられたおよそ6×4.6メートルの巨大な毛主席の肖像は、張によるものであり、中華人民共和国が帝国主義の過去から文化的に脱皮したことを象徴している。ウォーホルは、当初は手元にあった『毛沢東語録』(英語では通称「ザ・リトル・レッド・ブック」)に掲載されていた写真を引用して《マオ(毛沢東)》を制作したのだが、天安門広場の肖像画を見た体験から、張の仕事に対する敬意を新たにした。しかし、ウォーホルが共産主義に向けた好奇心は、米国の資本主義への愛に比べれば、決して大きなものではなかった。反体制派アーティスト、艾未未(アイ・ウェイウェイ)がマコスの本に寄せた序文で書いているように、ウォーホルは「マクドナルドのない場所は、他に何があっても良い場所にはなり得ない」と主張したのである。

ウォーホルがカラフルなシルクスクリーンの《マオ(毛沢東)》を制作してから50年が経つ。その間に、米中関係の発展という文脈でその意味を再考した歴史家はほとんどいない。そもそもウォーホルはこの連作に称賛を込めていたのだろうか? それとも懐疑を表現したのだろうか。中国経済の自由化のわずか数年前にウォーホルが毛沢東のイメージを商品化したという事実に、私たちはどのような意味を見いだすべきなのだろうか。そして、外国の国民的な事柄に「芸術の自由」が干渉するとき、その自由には限界があるのだろうか。

アンディ・ウォーホル美術館(ピッツバーグ)は、展覧会「Andy Warhol: 15 Minutes Eternal(アンディ・ウォーホル展:永遠の15分)」が2013〜14年に中国に巡回した際には毛沢東の作品を除外することを求められ、同意した。しかし、米国では、そのように作品の展示が制限されることはない。たとえば、ホイットニー美術館(ニューヨーク)で開かれた18年のウォーホル回顧展では、巨大な《マオ(毛沢東)》が目立つところに置かれ、さらに、米国の製造業者チャンピオンの社名が刻まれた槌と鎌(*1)を描く風刺的な静物画プリント《槌と鎌(Hammer and Sickle)》(1976)も展示された。

*1 共産主義や共産党のシンボル。


2018年にドイツのアポルダ前衛美術館(Kunsthaus Apolda Avant Garde)で展示されたアンディ・ウォーホルのシルクスクリーンプリント連作《マオ(毛沢東)》(1972) AP PHOTO/JENS MAYER

ウォーホルのアプローチを理解するためには、毛沢東を知ったばかりの彼はたちまち心酔したという事実を知る必要がある。ただし、それは面白がる気持ちからだ。1971年のある日の日記には「中国について読みあさっている」と書いている。「まったく頭がどうにかしているやつらだ。創造性を信じていない。写真といえば、毛沢東の写真しか持っていないんだ」。ここでウォーホルは、文化大革命で行われた大衆向けプロパガンダに言及している。中国共産党は、革命を成し遂げた中国の理想の指導者として、毛沢東を掲げた。このプロパガンダは中国メディア全体に浸透し、北京周報によれば、1966年7月から67年5月までに文化大革命下の労働者によって8億4千万枚もの毛主席像が印刷された。さらに海外にもニュースが伝わり、ブラックパンサー党(*2)やアフリカ、アジア、ラテンアメリカの反帝国主義運動にインスピレーションを与えた。

*2 1960年代〜70年代米国の黒人公民権運動の組織。


毛沢東とリチャード・ニクソン、1972年2月21日、北京 AP PHOTO

その上、1949年の中華人民共和国成立以来、初めて中国と米国の国交回復の可能性が見えていた。1960年の中ソ分裂で、中国とソ連は北ベトナムに対する共同支援を除いて対立していた。71年、中国が米国の卓球チームを北京に招いたことを、ニクソン大統領はチャンスととらえた。いわゆる「ピンポン外交」によって、1年後にはニクソン大統領の北京、杭州、上海への訪問が実現し、米国では毛沢東のイメージがテレビや新聞などのマスメディアによって広まった。

「ライフ」誌が彼を世界で最も有名な人物に選んだとき、ウォーホルは新しい被写体として一連の《マオ(毛沢東)》を作り始めたのである。彼は懇意にしているディーラー、ブルーノ・ビショフベルガーに請われて、手始めに華やかな肖像のシルクスクリーンプリントを10点制作した。毛沢東に頬紅をつけ、唇を濃い赤に染め、あごのほくろを強調してチャームポイントのように見せ、女性的なイメージに変えてしまったのである。


劉韡(リュウ・ウェイ)《毛沢東ポスターのそばにいる良い父親》(制作年不詳)、紙、水彩、31.5×23.9cm COURTESY LIN & LIN GALLERY, TAIPEI

ウォーホルによる一連の作品は、西洋において中国の文化や政治を風刺する役割を担った。《マリリン》(マリリン・モンローの肖像)や《リズ》(エリザベス・テイラーの肖像)のシリーズのような機械的な精密さとは対照的に、《マオ(毛沢東)》はデフォルメされ、複数の作品を並べて展示すると、サイケデリックな効果が生まれる。パステルブルーの上に深紫を重ねたり、ライムグリーンと濃いオレンジ色を組み合わせたり、あるいは中国共産党の美学に忠実に、中国の国旗を連想させる赤と黄色の配色で「大舵手」と称えられた毛沢東を描いたものもある。ウォーホルは、ポートレート写真を次々と手早くカンバスにプリントし、シルクスクリーンの工程でゆがみを加えた。2年間で、さまざまな色調とサイズの《マオ(毛沢東)》199点と、スクリーンプリント10点(制作部数各250部)を制作した。

ウォーホルの芸術的実践が文化の商品化につながった一方で、《マオ(毛沢東)》の連作は、米国においてより大きなイデオロギーのような目的に貢献してきたといえる。何十年もの間、欧米のアーティスト、作家、キュレーターは、中国の政治や日常生活を直視することなく、冷戦時代の偏見を通して解釈してきた。トランプ政権とバイデン政権が中国との緊張を再び高めている今日、ウォーホルの作品が、たとえ意図しないことであっても、今もなお米国の虚勢と不安を反映しているのは明らかだ。

 
2015年11月、ニューヨークのサザビーズで、アンディ・ウォーホルの《マオ(毛沢東)》(1972)が4750万ドルで落札された CHRIS MELZER/PICTURE-ALLIANCE/DPA/AP IMAGES

毛沢東が書いた論文のうち最も広く研究されている「実践論」と「矛盾論」(ともに1937年)は、中華人民共和国の成立をより広範な哲学的議論にまで高め、中国内外において毛沢東思想の基礎を形成した。「梨の味を知りたければ、自分で食べて梨を変えなければならない」「真の知識はすべて、直接の体験に由来する」と彼は主張する。自分を学者や教条主義者と対比し、「矛盾」を人類史の生きた構成要素と位置づける。中国共産党はこのことを根拠に、「人間の本性は文明の夜明けから不変である」とする形而上学的な西洋思想に反論している。そして、「物事の発展過程には、最初から最後まで、相反する要素が存在する」と主張するのだ。

米国とは違って、中国では「プロパガンダ」という言葉に否定的な意味はなく、近代国家が成立する以前から、政治・芸術の教育が中国共産党の文化戦略の基礎となっていた。1942年、毛沢東は文化大革命における指導者としての自分の立場を確立するため、延安で2回講演を行い、芸術の政治的役割を明確にし、軍事行動は文化戦略と一体になるべきだと主張した。「我々の仲間の作家や芸術家は文学や芸術の仕事をしなければならないが、その主要な仕事は人々を理解し、よく知ることである」。このような考え方に基づいて、芸術は動機づけのための教育の一形態とみなされた。毛沢東と妻の江青は農民のための新しい文化機関を設立し、ソ連にならって絵画、バレエ、オペラ、交響曲などを中心とした社会事業を70年代にかけて推進した。


2007年、ドイツのフリーダー・ブルダ美術館(バーデンバーデン)でのアンディ・ウォーホル《マオ(毛沢東)》(1973)の展示風景 ULI DECK/PICTURE-ALLIANCE/DPA/AP IMAGES

こうした事実を考えると、ウォーホルが毛沢東をカルト的存在として描いたことは、政治家と広告の双方に対する西洋の両義的な態度を反映している。ウォーホルは、広告業界出身の「ビジネス・アーティスト」として、両者の関係を巧みに利用した。毛沢東の思想は『毛沢東語録』によって広がり、その顔はウォーホルによって浸透したのだ。マス・マーケティング、政治的地位、スターダムを統合させたウォーホルのアートは、コカコーラをはじめとするブランドが個人の自由の象徴として宣伝され、ロナルド・レーガンという名の俳優がカリフォルニア州知事になった1960年代〜70年代米国の大衆文化を反映していた。それでも、半世紀にわたる冷戦に基づく偏見を、1人のアーティストだけに押し付けるのは無責任だろう。実際、ウォーホルの作品がこれほどまでに反響を呼んだのは、中国が何十年にもわたって外国人に対して閉鎖されていて、その実情が世界からほとんど知られていなかったからである。《マオ(毛沢東)》は、中国をほとんど知らない欧米の鑑賞者の間に、毛沢東と中国に対する批判を、あるいは少なくともウォーホル的な風刺を招いた。

米国の主要メディアは日常的に、毛沢東を極めて狡猾(こうかつ)でカリスマがある世界的な指導者として、ときには怪物的な存在として描いてきた。よく知られていることだが、中国では毛沢東の後継者である鄧小平(トン・シャオピン)が、特に「大躍進」政策の致命的な失敗を受けて、毛沢東のリーダーシップは「70%が正しく」、そして「30%が間違っていた」とする中国共産党の決議を画策した。

それから半世紀後、ウォーホルの版画や絵画は皮肉なことに、1976年に毛沢東が死去した後の中国の世界経済への統合を予見していたかのように、国際的な市場価値を高める一方だ。クリスティーズで2006年に1740万ドル、サザビーズで15年に4750万ドル、17年に3240万ドルと、オークションでの落札価格は高値を記録され続けている。一方で、ブライアン・ドネリー(KAWS)ら米国人アーティストが、毛沢東を滑稽に描写した作品を発表し、論争を巻き起こしている。斜に構えたオマージュであるウォーホル作品の存在を抜きにしては、こうした事態は起こらなかっただろう。


1989年3月23日、北京の天安門広場で行われたデモでペンキをかけられた毛沢東の肖像画 AP PHOTO/MARK AVERY

中国の現代アーティストの間では、毛沢東のモチーフが至るところに見られ、ウォーホル作品への反応の連鎖が終わることなく続いている。毛沢東の死後、中国共産党お抱えのプロパガンダ・アーティストが、公然と彼を批判するようになった。1970年代後半から80年代初頭にかけて、スターズ・アート・グループは、創作の自由を推進する公募展を開催し、中国を支配していた社会主義リアリズムの美学に反旗を翻した。89年の天安門事件では、反体制派のアーティストである喩東岳(ユー・ドンユエ)、余志堅(ユー・ジージャン)、魯徳成(ルー・デチェン)が毛沢東の公式肖像画にペンキをかけたが、これはウォーホルにならった行為だったかもしれない。80年代後半から現在に至るまで、王広義(ワン・グァンイー)、劉韡(リュウ・ウェイ)、李山(リー・シャン)らコンセプチュアル・アーティストは、ウォーホルからの影響を絶やすことなく引き継ぎながら、ポリティカル・ポップ、シニカル・リアリズムなど、毛沢東の死後に中国で発展したスタイルを実践している。


李山(リー・シャン)《マオ(毛沢東)》(1995)、カンバスにアクリル絵具と紙のコラージュ、57 × 34センチ  COURTESY OF THE ARTIST AND SHANGHART GALLERY © LI SHAN

ウォーホルが晩年(北京を訪れたわずか5年後に死去した)、中国共産党に対する両義的な態度を見せたのは、反共主義が米国文化に深く根付いていたにもかかわらず、中国での直接の体験に大きく影響されたからだと考えるべきだろう。2022年の北京冬季オリンピックの報道を振り返ってみよう。米国の現職国会議員が中国共産党をナチスになぞらえる冷戦時代の論法を繰り返し、主要な新聞が1936年のベルリン・オリンピックと比較していた。さらに、中国のゼロコロナ政策に基づく厳格なロックダウンを「ディストピア」と揶揄(やゆ)する論調は、西洋が自らの文化的覇権に対する全ての脅威に過敏に反応することを示すものだ。一方で米国の新型コロナウイルスによる死者は、すでに100万人を超えている。

50年という時を経て、ウォーホルが《マオ(毛沢東)》に込めた矛盾をはらむ意図は、この作品が今日のアート界にとって象徴するもの、つまりアートと資本の密接な関係に比べれば、色あせて見える。ウォーホルは金銭を好みながらも、毛沢東の言葉に惹かれ、『毛沢東語録』を手元に置いていた。また、中国で出会った美術の数々も高く評価していた。マコスによれば「アンディは、毛沢東の肖像画は自作よりも本物のほうがいいと考えていて、本当に愛していた」。マコスが北京で撮影した写真のウォーホルは、天安門の前で、張の後継者の一人である葛小光(グー・シャオグァン)が描いた毛沢東の肖像画を背にして立っている。同じ人民服を着た中国人たちが堂々と行き交う中、ポップアートのスーパースターは超然とした個人主義者に見える。(翻訳:清水玲奈)

※本記事は、Art in Americaに2022年4月28日に掲載されました。元記事はこちら

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