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  • 2022.08.26

《モナリザ》は、なぜこんなにも人気? 5つのワードで理由を検証!

世界一の入場者数を誇るルーブル美術館。その中でも抜群の集客力を誇るのが《モナリザ》だ。「世界でもっとも知られた、もっとも見られた、もっとも書かれた、もっとも歌われた、もっともパロディ作品が作られた」と言われるこの作品は、なぜこんなにも人の心を捉えて離さないのだろうか。

レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナリザ》(1503-19頃)、木板に油彩、79×53cm Louvre, Paris

伝説的ヒップホップグループ、フージーズのデビューアルバムで「モナリザ、金曜日にデートしてくれない?」とワイクリフ・ジョンが歌ったのは1994年のこと。その約半世紀前の1950年、アカデミー歌曲賞を受賞した「モナリザ」の中で、ナット・キング・コールは「モナリザ……神秘的な微笑みを浮かべた女性」と歌い上げた。そして2018年、ビヨンセとジェイ・Zのパワーカップルが、ルーブル美術館で「APESHIT」のミュージックビデオを撮影。ビデオは2人が《モナリザ》を振り返るところで終わる。

レオナルド・ダ・ヴィンチが、荒涼とした景色を背景にフィレンツェの女性を描いた肖像画《モナリザ》は、ルネサンス期から現代の音楽シーンまで、何世紀にもわたり人々を魅了してきた。有名になるため、あるいは自分の主張を広めるために、《モナリザ》を破壊しようとする行為もたびたび起きている。また、そのイメージは、マルセル・デュシャンから、ファッションデザイナーでルイ・ヴィトンのアーティスティックディレクターを務めたヴァージル・アブローまで、数えきれないほどのアーティストに流用されてきた。

《モナリザ》はなぜ特別なのだろう。私たちにとって、これほど気になる存在なのはどうしてだろうか。数年前にレオナルドの伝記を発表した米国人ジャーナリスト・伝記作家のウォルター・アイザックソンによれば、見る人の感情に訴えかけることが人気の理由だという。また、謎に包まれているからこそ常に注目されるという見方もある。

セピア色の女性像が世界中の人々惹きつける理由は何か、いくつかの視点から考えてみよう。


1.この女性は誰なのかという「謎」


レオナルド・レオナルド《ジネヴラ・デ・ベンチ》(1474-78頃)、板に油彩、38×37cm Photo: National Gallery of Art, Washington, D.C.

レオナルド・ダ・ヴィンチは、フィレンツェで暮らしていた1503年頃に《モナリザ》を描き始めたが、その後10年たっても完成に至らなかった。16世紀の美術史家ジョルジョ・ヴァザーリは、著書『美術家列伝』の中で、《モナリザ》のモデルはフィレンツェの絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リザ・ゲラルディーニだとしている。しかし、レオナルドはこの絵をゲラルディーニに渡すことはなく、フランス王フランシス1世に招かれ、イタリアを離れる時にも手放さずにいた。

この絵には女性の身元についての正式な記録がない。レオナルドは、自分が手がけた数人の女性の肖像画には作品中に手がかりを残しているが、《モナリザ》にはそれもない。たとえばレオナルドの《白貂を抱く貴婦人》(1489-91)では、古代ギリシャ語でイタチのような動物を意味する「ガレ」の言葉の響きによって、描かれているチェチリア・ガッレラーニの名字が暗示されている。同じように、《ジネヴラ・デ・ベンチ》(1474-78頃)は、イタリア語で「ジネープロ」と呼ばれるジュニパー(ビャクシン)の木の冠が顔を縁取るように描かれ、ジネヴラの名前との語呂合わせになっている。

ヴァザーリなどによると、レオナルドは結局ゲラルディーニの肖像画を完成させていないという。そして、《モナリザ》はゲラルディーニではなく、ガッレラーニのいとこで芸術家のパトロンだったイザベラ・デステ(イザベラ・グアランダ)の肖像画だとする説もある。


2.レオナルドならではの数々の「独自性」


ドメニコ・ギルランダイオ《ジョヴァンナ・トルナブオーニの肖像》(1489-90)、木板にミクストメディア、77×49 cm Photo: Museo Nacional Thyssen- Bornemis

ルネサンス期に多方面で活躍したレオナルドは、さまざまな実験と発明でも知られる。《モナリザ》も、そんな彼ならではの新しい試みが詰まった作品と言えるだろう。当時のイタリアでは、肖像画といえば横顔を描くものと決まっていた(たとえば、上図のドメニコ・ギルランダイオ作《ジョヴァンナ・トルナブオーニの肖像》など)。しかし、レオナルドは《モナリザ》を正面から捉え、組んだ手も描くことで肖像画に親しみやすさを与えている。

また、この絵はレオナルドに特徴的なスフマート技法(*1)で描かれ、硬い線や縁取りではなく、蒸気に包まれたようなソフトフォーカスで、つやのある肌を表現している。さらに、科学者でもあったレオナルドは、《モナリザ》の制作中にサンタ・マリア・ヌオーヴァ病院の死体安置所で解剖学を学んでいた。光を放つような肌の下には、顔の筋肉構造に関する新しい知見が生かされているのだ。こうしてレオナルドは、美術史上で知られる限り、最も早く解剖学に基づく微笑の絵を実現させている。


*1 物体の輪郭を線ではっきり描かず、周囲の空間との境をぼかして描く絵画技法。レオナルドが考案したものとされる。

美術史家のヴァザーリは《モナリザ》について、「レオナルドのこの作品には、見る者を心地よくさせる微笑がある。それは人間のものというより、神のものに近い」と評し、「まさに生きているとしか言いようがない」と絶賛した。


3.《モナリザ》を有名にした「事件」


盗難後、1913年にイタリアで発見された《モナリザ》。右端は、ルーブル美術館への返却を前に作品を検分するウフィツィ美術館のジョバンニ・ポッジ館長(撮影者不詳) Photo: Wikimedia Commons

ヴァザーリの賛辞にもかかわらず、1804年にルーブル美術館に収蔵された《モナリザ》は、見学者にほとんど注目されず、評論家がルネサンスの傑作として賞賛し始めたのは1860年代に入ってからのことだった。ところが、1911年に起きたある事件で、知名度が一気に高まることになった。同年8月、ルーブル美術館で働いていたイタリア人、ビンセンツォ・ペルージャが、《モナリザ》を上着の下に隠して盗み去ったのだ。この由々しき事件を受けてフランス政府では閣議が開かれ、ルーブル美術館の絵画部長は辞任に追い込まれている。

事件後、ルーブル美術館には、多くの見学者が《モナリザ》が展示されていた場所を見に詰めかけた。絵はがきが印刷され、モナリザ人形が作られ、モナリザの名前をつけたコルセットのブランドまで登場している(現在、モナリザがありとあらゆる商品に使われていることの予兆のようだ)。2年後、《モナリザ》が戻ってくると、ルーブル美術館にはさらに多くの人々が訪れた。来場者は最初の2日間だけで10万人以上を記録している。


4.無数のオマージュやパロディを生んだ「象徴性」


フェルナンド・ボテロ《モナリザ》(1978)、カンバスに油彩、183×166 cm Photo: Museo Botero del Banco de la República, Bogotá, Colombia

盗難事件をきっかけに《モナリザ》が有名になると、アプロープリエーション(*2)が盛んに行われるようになる。


*2  「流用」「盗用」の意。過去の著名な作品、広く流通している写真や広告の画像などを作品の中に文脈を変えて取り込むこと。

作品がルーブル美術館に帰還した翌年、シュプレマティズム(*3)を提唱したロシア(現ウクライナ)の画家カジミール・マレーヴィチは、《モナリザ》のカラー複製画を用いたミクストメディアのコラージュ作品《Composition With the Mona Lisa(モナリザのいるコンポジション)》(1914)を制作。その数年後には、マルセル・デュシャンが《L.H.O.O.Q》(1919)を発表している。これは《モナリザ》のモノクロの絵はがきをレディメイド(*4)の素材として用い、鉛筆で口ひげ、あごひげ、「L.H.O.O.Q」という文字を落書きしたものだ。この文字をフランス語で音読すると「Elle a chaud au cul」、つまり「彼女はお尻が熱い」という意味になる。


*3  「至高主義」「絶対主義」の意。現実との対応関係を排除した絶対的な抽象を志向する、幾何学的な抽象絵画。
*4  大量生産された既製品をオブジェとして展示するもの(マルセル・デュシャンが考案した概念)。

その後も有名アーティストの作品が続く。フェルナン・レジェの絵画《La Joconde aux Clés(モナリザと鍵束)》(1930)、フィリップ・ハルスマンのポートレート写真《Dalí as a Mona Lisa(モナリザとしてのダリ)》(1954)、そしてフェルナンド・ボテロは1959年に丸顔のふっくらした《モナリザ》を描き、78年に再び同じ題材に取り組んでいる。

1963年にはアンディ・ウォーホルが、ニューヨークのメトロポリタン美術館のパンフレットに掲載された図版をもとに、《モナリザ》を増殖させたシルクスクリーン作品を制作した。また、60年代の好景気による広告ブーム(特に米国におけるブーム)以降、《モナリザ》は頻繁にマーケティングの素材として用いられるようになる。70年代には年間平均23回、80年代には年間平均53回も広告に使われ、美的・歴史的な価値を商品に与えるとともに、《モナリザ》自体の人気も高まっていった。


5.パリでしか見られない「希少性」


1963年にナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)で開催された「モナリザ展」のオープニングに出席したジャクリーン・ケネディ大統領夫人。アビー・ロウ撮影 Photo: White House Photographs, John F. Kennedy Presidential Library and Museum, Boston

1960年代の好景気で盛んになった広告キャンペーンに加え、マスツーリズムの時代も始まった。そこで世界一の観光地となったのがパリだ。《モナリザ》は、16世紀前半にレオナルドがフランシス1世の宮廷に持ち込んで以来、フランスの地を離れたことは数えるほどしかなく、パリの不動の観光スポットとなっている。

数少ない海外展示の中で華やかな脚光を浴びたのは、1963年にジャクリーン・ケネディが借用を仲介し、ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーとメトロポリタン美術館で展示された時のことだ。ケネディ夫妻は《モナリザ》を賓客のように迎え、晩餐会を催している。デザートには、洋ナシとチョコレートを使った「ポワール・モナリザ」を用意するという念の入れようだった。米国には《モナリザ》ブームが巻き起こり、6週間にわたる展示期間中の来場者数は175万1521人に上った。10年後、日本で展示された時にも同じような熱狂的ブームが起きている。《モナリザ》はこうして国際的なメディアの注目を浴び、誰もが一度は見てみたいと思う憧れの絵画となった。

作品の脆弱性を考えると、今後《モナリザ》がルーブル美術館を離れることはないだろう。この絵に詣でるためにルーブルを訪れる人は、「サル・デ・ゼタ」(かつてナポレオン3世が議事に使用した部屋)という一番大きな展示室で作品に出会うことになる。そこでは、防弾ガラスで出来たケースと専用の展示壁が、この作品の特権的地位を示している。数々の傑作を常設展示しているルーブル美術館だが、2018年に流出したフランス文化省の報告書によると、入館者の10人中9人までもが《モナリザ》を見るために来たと回答しているという。(翻訳:清水玲奈)

※本記事は、米国版ARTnewsに2022年8月17日に掲載されました。元記事はこちら

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