MoMAのヴォルフガング・ティルマンス回顧展は今年のベスト展覧会候補。世界をまるごと捉えたイメージの奔流
ニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催中のヴォルフガング・ティルマンスの回顧展は、コロナ禍が始まって以来、ニューヨークで開催された展覧会の中でも最大規模のものだ(2023年1月1日まで)。400点もの写真作品に溢れた展示の内容をリポートする。
ヴォルフガング・ティルマンスの回顧展、「Wolfgang Tillmans: To look without fear(ヴォルフガング・ティルマンス:恐れずに見る)」の会場に入るやいなや、圧倒的な迫力が襲ってくる。来場者を出迎えるのは、床から天井まで大きく投影された映像の中で濡れた脚が上下するという意外性のある作品だ。被写体はありふれたものだが、ティルマンスは通常のアート作品のスケール感をはるかに超えるサイズでそれを見せている。この展覧会では、そしてティルマンスの世界では、注目に値しないほど小さなものは存在しないのだ。
《Einbein(脚)》(2017)と名付けられた映像作品に続くのは、イメージ、人、場所、アイデアの嵐だ。約400枚もの写真が展示されているが、これは2021年にホイットニー美術館(ニューヨーク)とフィラデルフィア美術館で同時開催されたジャスパー・ジョーンズの大規模展の作品点数を上回る。
ティルマンスは、世界のあらゆる側面を写真で表現しようとする途方もない試みを続けている。そんな彼にふさわしいこの大規模な展覧会は、過剰なまでのイメージの奔流で見るものを混乱させ、言葉を失わせる。そして見終わる頃にはすっかり圧倒され、今年の美術館の展覧会の中で1、2を争うかもしれないという気分にさせられた。
展示作品には、ラッパーのフランク・オーシャンのポートレートがあるかと思えば、ゴミ袋から顔を覗かせるかわいいネズミの写真もある。また、半裸だったり、裸だったりする友人たちにカメラを向けた雑駁(ざっぱく)な写真と、世界各地の抗議活動を撮影したプロらしい写真が同じ壁に並び、抽象的な作品と静物写真が隣り合っていたりする。さらに、散乱したゴミ、点滅する光、スピーカーに接続されているであろうケーブルなど、夜通し行われたパーティーの余韻を写したものや、高い所から撮影された風景写真が繰り返し登場する。展覧会全体に言えることだが、一見素人っぽく見せている写真にも思わず息をのむほどの力がある。
《Wake(夜が明けて)》(2001) Courtesy the artist; David Zwirner, New York and Hong Kong; Galerie Buchholz, Berlin and Cologne; and Maureen Paley, London
今回の展示で特徴的なのは、いわゆる回顧展らしさがないことだ。ケイトリン・ライアン、フィル・テイラーとともにこの展覧会のキュレーターを務めたロクサーナ・マルコーチは、ティルマンスが好む展示形式に従って、壁面に解説文やキャプションなどをいっさいつけないことに決めた(その代わり、全作品のタイトルと、ごく一部の作品の簡単な解説を掲載したパンフレットを会場で配布している)。写真は、非常口のドアから展示室と展示室の間に至るまであらゆる場所にあるが、普段MoMAで行われている整然とした展示のように、フレームに入った作品は1つもない。ティルマンスは写真を細い釘で壁に留めたり、小さなテープで貼ったりして、展示全体が一時的なもの、あるいは変更可能なものであるように演出している。
80年代の実験的な作品から最近の仕事まで、大まかな時間軸に沿ってティルマンスのキャリアを追う展示構成にも、ある意味同じような印象を受ける。そもそも、マルコーチとティルマンスは、アーティストとしての彼の進化をたどることには興味がないようだ。経歴の情報はカタログに掲載されているだけで、年代ごとのまとまりは展示が進むにつれて徐々に薄れていく。
つまり、ここにあるイメージの洪水の中にどんな意味を見出すかは、観客に委ねられているのだ。写真の多くはごく私的なもので、その背景を知っているのはティルマンス本人と彼の忠実なファンくらいだろう。
《Smokin’ Jo(スモーキン・ジョー)》(1995) Courtesy the artist; David Zwirner, New York and Hong Kong; Galerie Buchholz, Berlin and Cologne; and Maureen Paley, London
よく知られた人物を撮った作品もある。たとえば、抱えたギターを今にもかき鳴らしそうな女優のクロエ・セヴィニー、公園でくつろぐ写真家のナン・ゴールディン、シャワーの水を滴らせたティルマンスなどだ。2人の男性が情熱的にキスを交わす写真は、2002年にロンドンのナイトクラブ「ザ・コック」で撮影され、その14年後にフロリダ州オーランドのゲイクラブ「パルス」で起きた銃乱射事件の後にソーシャルメディアで拡散され話題になった。
ヴォルフガング・ティルマンス《The Cock (kiss)(ザ・コック〈キス〉)》(2002) Courtesy the artist; David Zwirner, New York and Hong Kong; Galerie Buchholz, Berlin and Cologne; and Maureen Paley, London
だが、より興味深いのは、簡単には説明できない写真だ。《AA Breakfast(アメリカン航空の朝食)》(1995)には、フレンチトーストとオレンジジュースの機内食が置かれたテーブルと着席した人物が写っている。シートベルトの下からは勃起したペニスが伸びており、その場違いな感じが印象的だ。また、2002年に同じ場所を昼と夜に撮影した2枚の写真には、木の枝のリンゴと「PLEASE Leave this one(これは残しておいて)」と書かれた手書きのメモが写っている。周りの風景にそぐわないリンゴを、誰が、なぜ、どうやってそこに置いたのか、そもそも誰かがリンゴを持っていってしまうことを心配するのはなぜなのか、その理由ははっきりしない。
こうした写真は、その場の思いつきで気軽に撮られたように見える。ライティングはいいかげんだし、構図も微妙だ。ティルマンスは大嫌いな言葉だと言っていたが、まるでスナップ写真のようで、プロらしくない。しかしそれは、数十年かけて丹念に作り上げられてきた彼独特のスタイルなのだ。
ティルマンスが注目を集めるようになったきっかけは、90年代に英国のファッションカルチャー誌i-Dに写真が掲載されたことだった。その中には、友人のアレクサンドラ・ビルケンとルッツ・ヒューレがモデルとして登場したものもある。有名な《Lutz & Alex sitting in the trees(木の上に座るルッツとアレックス)》(1992)という作品では、流行のトレンチコートを羽織っただけで、ほかに何も身につけていない2人が木の枝に座っている。また、アレックスがルッツの弛緩したペニスを握っている印象的なショットもこの回顧展で見ることができる。だがそれらは、ファッション誌のために作り込まれた写真というよりは、気軽なスナップのように小さめのサイズにプリントされ、何気なく展示されている。
ヴォルフガング・ティルマンス《Lutz & Alex sitting in the trees(木の上に座るルッツとアレックス)》(1992) Courtesy the artist; David Zwirner, New York and Hong Kong; Galerie Buchholz, Berlin and Cologne; and Maureen Paley, London
アレックスとルッツをモデルにしたスタイリッシュでセクシーな写真は、ティルマンスの初期作品のエッジの効いた若々しさを象徴している。だが、90年代の半ばには、よりコンセプチュアルな方向性が明確になってくる。
1999年に制作が始まった《Soldiers(兵士たち)》で、ティルマンスはそのエロティックな世界観をグローバルなスケールへと広げている。彼は、戦場にいる筋骨たくましい若者が写った新聞写真を、彼らの英雄的行為を伝える見出しとともに撮影している。キュレーターのソフィー・ハケットが展覧会の図録で指摘しているように、《Soldiers》の写真はヨーロッパ、アジア、中東などの紛争に関するものだが、同時にティルマンスにとって、ある意味で個人的なものでもある。米国、英国、ドイツ、イタリアなど、この作品を作っていた時に彼が訪れていたか、住んでいた場所の新聞や雑誌から集めた写真が基になっているからだ。
今の世界が写真で埋め尽くされていることは、ティルマンスに限らず、多くの人が指摘するところだ。だが彼は、絶え間ないイメージの奔流を冷徹に分析するのではなく、雪崩のように押し寄せる多量の写真をやさしく受け入れる。実際、今回の回顧展では画像を生み出すことに関する写真がたくさん展示されている。たとえば、スキャン中のコピー機や、彼の展覧会の設営をしている人たちを撮影した写真などだ。特に後者では、人間は人間が日々生み出す写真の洪水と共存できると、ティルマンスが考えていることが示されている。
《Lüneberg(self)(リューネベルク〈セルフ〉)》(2020) Courtesy the artist; David Zwirner, New York and Hong Kong; Galerie Buchholz, Berlin and Cologne; and Maureen Paley, London
そうした考えをさらに推し進めたのが、2020年のロックダウン中に撮影された《Lüneberg(self)(リューネブルク〈セルフ〉)》だ。この作品では、トレイに乗ったペットボトルにビデオ通話中のiPhoneがそっと立てかけられ、画面の左上には病院のベッドの上にいるとおぼしきティルマンスがiPhoneにカメラを向けているのが映っている。コロナ禍でさえも、常に新しい意味のあるイメージを創り出そうとするティルマンスを止められないのだ。
写真に価値を与えるためのティルマンスの旅は、香港の街角からイタリアのランペドゥーサ島の透明な海まで、地球上のあらゆる場所に彼をいざなった。その旅は、さらに地球の外にも向かい、星空や天体の美しい写真も生み出している。だが、彼のカメラが何光年もの旅をしているように見えたとしても、ティルマンスはすべての被写体を自分との関係で捉えている。宇宙の果てまでもが彼の世界の一部なのだ。
MoMAで開催されているヴォルフガング・ティルマンスの回顧展風景。写真は額装されておらず、その多くが壁にピンやテープでとめてある Photo Emile Askey
また、ティルマンスの中心的な主題であり続けてきたのは人間、特にその身体だ。2000年にロンドンの地下鉄にカメラを持ち込んだ彼は、乗客の顔ではなく、シャツの袖からのぞく脇の下や手すりを握る手を撮影した。2014年にニューヨークで行われたブラック・ライブズ・マターのデモでは、参加者の顔ではなく手をアップにして、掌の細部を切ないまでの美しさで切り取っている。
画面に直接写っていなくても、人間の身体がすぐ近くにあることを想像できるものもある。MoMAの回顧展に展示された数少ないビデオ作品の1つ《Lights (Body)(光〈身体〉)》(2002)は、暗いクラブ内に明滅する照明を映している。その下で身をくねらせて踊る人々の姿は見えないが、汗に光る彼らの肉体が目に浮かんでくる。2014年に撮った《17 Years' Supply(17年分の薬)》に写っているのは、HIVの治療に使われるジダノシンなどの薬の処方箋が詰まった箱だ。この写真は(HIV陽性のティルマンス自身も含め)、身体というものの壊れやすさを痛感させる。だからこそ、壊れる前に記念に残しておきたくなるのだ——それができるうちに。
最後にもう一度、脚の話に戻ろう。1986年の《Lacanau(Self)(ラカノー〈セルフ〉)》は、斜め上から自分の脚を写した極端なアングルの写真だ。砂浜のような場所に立ち、アディダスのショートパンツから1本の脚が出ている。身体の形がよく分からず、顔も見えないこの奇妙なセルフポートレートは、周りの全てと融合し、完全に一体となったティルマンスを表しているようだ。(翻訳:野澤朋代)
※本記事は、米国版ARTnewsに2022年9月9日に掲載されました。元記事はこちら。