鈴木操評:バイオアートは混迷の時代の新潮流となるか?

  • 2022年10月28日
  • JAPAN

Text: 鈴木操

動植物の生体組織、細胞などを素材や題材にした「バイオアート」。近年、日本では、2011年の東日本大震災・福島第一原発事故前後に活動を開始した、1980年代以降生まれのアーティストがバイオアートに注目しているという。それはどのような理由なのだろうか。彫刻家で文筆家の鈴木操が、世界でバイオアートが生まれ、発展した経緯をひもとき、日本の若手作家の取り組みについて紹介する。

渡辺志桜里「サンルーム」(2020) 個展「Dyadic Stem」The 5th Floor)での展示風景 

バイオアートの出発点

アメリカ合衆国の大統領ビル・クリントンは1997年、「21世紀前半は生物学の時代」と印象付ける宣言をした。米ソ冷戦終結(1989年)の約10年後に発せられたこの宣言は、未来志向的で楽観的な印象が強いと筆者は感じる。一方、政治イデオロギーに科学の方向性が左右されるという意味で、政治と科学の関係性もよく現れている。

だが、ソ連崩壊から30年ほど経った21世紀の世界は、シンプルに言って未来志向的な雰囲気からは程遠い。ロシアによるウクライナ侵攻、新型コロナウイルスの世界的蔓延、食糧危機など、世界秩序は現実的に混乱している。冷戦構造あるいはそれ以前から累積する歴史的な課題が影響しているのだろう。 

ヒトの持つ創造力は、危機的状況の中で絶えず発現されてきた。創造力は、現実から抵抗を受けたり、逆に力を得たりすることで生まれるものだ。この2つの源泉がもっともよく見られるのがアート領域であり、その発露として現代を象徴する1ジャンルとなっているのが「バイオアート」であろう。


近年のアートにおける「バイオ」と植民地主義の関係


《Estrofem! Lab(エストロフェム!ラボ)》プロジェクト(2021)で、モバイル・スーツケース・ラボを使用して尿からホルモンを抽出するメアリー・マジック Photo Anna Breit 画像引用元:https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/132

「バイオアート」と聞くと、ひと昔前までは、怪物フランケンシュタインに代表される、生命倫理を問うような作品のことをイメージしただろう。しかし近年の「バイオアート」は違う。ANJの記事「“シンビオティック・アート”:共生、環境、生態系を考えるアートの系譜」(2022年4月1日付け公開)が、批評家ジャック・バーナムの「システム美学」を起点に論じたように、「エコシステム(生態系)」や「人新世(*1)」などの考え方とも共鳴し、記事のタイトルでも挙げられているように人間社会と自然の「共生」をキーワードにして、新しいバイオアートの様相を呈しつつある。このように今現在の新しいバイオアートは、1960年代のプロセスアート(*2) 、70年代のエコロジーアートが、2000年代以降のバイオアートに収斂(しゅうれん)され、複雑な世界の有り様を紐解くカギとなるような重要な役割を担ってきている。


*1 作品そのものよりも、制作プロセスを重視する1960-70年代の現代美術の傾向。
*2 産業革命以後の約200年間に人類による戦争や森林破壊などで大きな変化が起こった時代区分のこと。2000年にパウル・クルッツェン博士らが提唱したことで始まる。

しかしここには常々、見落とされているものがある、と筆者は感じる。ジャック・バーナムが「システム美学」で参照した科学史家トーマス・クーンのパラダイム論的に言えば、上部構造=制度は、その認識構造において閉じて外部を認識することが出来ず、下部構造を抑圧する。この論を当てはめれば、21世紀の現在語られる環境破壊や気候変動、それに伴う食糧問題などはいわば下部構造である。これらを抑圧的に規定するのは上部構造たる社会の仕組み、つまり20世紀の帝国主義と植民地政策に起因する世界の枠組みだ。このことはもっと強く認識されるべきだと筆者は思う。

どういうことかというと、戦後の冷戦下、ソ連とともに戦後国際社会のヘゲモニー(覇権)を握ったのは米国だった。米国は、基軸通貨としてのドルの力を利用し、政治的・経済的・軍事的なヘゲモニーを西側社会で最大化しようとした。世界経済を活性化するため、国際的な階層(西側資本主義先進国と発展途上国間の貧富の差=南北問題)を巧みに利用し、新植民地主義を世界中で展開する。

その米国で隆盛したのが現在まで続くコンテンポラリーアートであり、この文脈で生まれたのがプロセスアート、エコロジーアート、バイオアートだった。だが、もともと19世紀のドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルが作った「エコロジー(生態学)」という概念は、西ヨーロッパの植民地支配による土地と環境の破壊、その後に生じた土地の保全=環境保護のための思想が発達する中で、学問領域として確立されてきた経緯がある。それゆえ、非欧米圏の国々に暮らす者には、本質的な理解が難しいアートであるかもしれない。


非欧米圏での発展


エドゥアルド・カック《GFP Bunny(GFPバニー)》(2000)緑色蛍光タンパク質で発光するウサギ Courtesy Eduardo Kac 画像引用元:https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/132

では、非欧米圏であるアジアのバイオアートはどうなっているだろう。2022年3月16日付けで公開された記事「国立台湾美術館『The World Began without the Human Race and It Will End without It』展をキュレーションした山峰潤也が自らリポート」は、日本と台湾のバイオアートやエコロジーアートを扱った展覧会を紹介した。同展は、「近代的搾取から共生への転換」というテーマの下、アジアにある日本という非欧米中心的な視点を導入したものだった。

「近代的搾取」とは、近代化の過程で起きた、中心による周縁からの収奪・搾取を指す。非欧米圏であろうと、産業化された先進国に暮らす以上、このことは構造的問題として、芸術家も常に意識し、分析する必要があるだろう。

そのうえで、改めて冒頭で紹介したクリントンの宣言に戻ろう。クリントン宣言後の米国の方針転換は、日本の産業界にもパラダイム転換をもたらした。産業社会の発展を前提とし、それに規定されながら展開してきた現代アートのダイナミズムを鑑みると、このパラダイム転換を抜きには、いま日本で語られるバイオアートやエコロジーアートは存在しえなかっただろう。

クリントン政権が物理学から生物学へと重要政策を転換できたのは、もちろん冷戦の終結による。直前のジョージ・H・W・ブッシュ政権までは、ソ連と対抗する軍事技術を下支えするための物理科学が必要だった。一方、世界的にゲノム解析競争が起きていた。巨大な利権や利潤を生むと予測された生命科学分野でのヘゲモニー争いも、クリントンの宣言を後押ししたに相違ない。宣言後、米国では、次世代の産業を支えるものとしての生命科学が戦略的な学問分野となった。

米国のこの大胆な政策転換は、日本の科学技術政策にも強い影響を与えた。日本は理化学研究所の再生を柱に、米国と同様の重点領域の変換をすることとなった。具体的には、1998年にゲノム科学総合研究センターを発足させ(2008年に解体)、これを中心とするミレニアムセンター群という複数の生命科学の研究組織を2000年から翌01年にかけて次々と設立した。

クリントンが科学技術政策の転換を推進しなかったら、日本での生命科学研究も著しく遅れを取っていただろうと筆者は思う。一連の科学技術政策の転換が国際的に進んだことを踏まえると、エコロジーやバイオロジー(生物学)など生命科学全般がアートに与える影響を把握することは、各国で「いまここにある」重要な問題だろう。


多彩な日本の若手バイオアート作家たち

ところでこの数年、前述のようなアートの抱える構造的な課題に対して、意識的にしろ無意識的にしろ、様々な態度を示す若手アーティストが増えてきている。特に2010年代頃から国内で活動を始めた1980年代以降生まれのアーティストに顕著だ。彼ら彼女らは、11年の東日本大震災および福島第一原発事故の影響も相まって、日本での自然、環境、政治、科学技術、芸術の関係性を、生物地理学的に問い直している。彼ら彼女らにとって、それは所与の条件となっているようだ。

地理的な条件など環境による心理的抑圧はもちろんのこと、私たちを取り巻く環境は千差万別で、ゆえに、個々のアートは一見、とりとめがないほど多彩になっている。日本でのバイオアートの状況をより具体的に見るために、ここで、筆者が注目している1980年代以降生まれの5人のアーティストを紹介したい。日本のアートの新しい潮流の一端が切り取れると思う。


遠藤薫(えんどう・かおり、1989年生まれ)


遠藤薫《Thanks, Jim Thompson》Bangkok Biennale 2018 出展作品

遠藤は、歴史的な時間に物質が曝(さら)される中で、時代的な生活環境が生み出す物質の流れに注視している。例えば、2019年の個展「重力と虹霓Gravity and Rainbow」や、《Thanks, Jim Thompson》という作品は、糸を紡ぎ布を織ることから、人間と自然それぞれの時間のズレと接点を見せ、あるいは人類史的な過程を特有の詩的方法で描き出した、パフォーマンスやインスタレーションといった流動的な形式の作品だ。自然と人間を対置するのではなく、自然の中での人類の営みとして、現実の労働で生じる社会的な非対称性をユーモラスに可視化する。


大和田俊(おおわだ・しゅん、1985年生まれ)     


大和田俊「unearth」 「裏声で歌へ」(小山市立車屋美術館、2017年)での展示風景 Photo:冨田了平

代表的な「unearth」シリーズは、地質学的に生物と無生物の循環を示す石灰岩を化学的に溶かし、生じる二酸化炭素の発砲音を使ったサウンドインスタレーションである。音の知覚を通して、私たち人間の存在を決定的に規定する大気や重力を前提とした地球規模の循環現象にアプローチしている。人類史をも超え、人間の知覚可能な閾(いき)値を外れることも厭(いと)わない形の作品だ。


高橋銑(たかはし・せん、1992年生まれ)     


《Cast and Rot No.1》(2019) ニンジン、Hi-mic1080、リグロイン、石灰硫黄合剤、木、ステンレス H25×W14.5×D9cm  ©︎Sen TAKAHASHI, Photo by Keizo KIOKU, Courtesy of LEESAYA

「Cast and Rot」シリーズは、ブロンズ彫刻に施される西洋美術由来の修復技術・保存処置を、世界で広範に栽培され、農学的にもなじみの深い食物であるニンジンに施し、異化する。美術史と自然史のそれぞれ異なる時間性を重ね合わせた、特殊な時限装置的オブジェクトだ。異化されたニンジンはもはや農学的な意味での食物ではなく、むしろ逆説的に、完全に自然化されたニンジンであると言える。


齋藤帆奈(さいとう・はんな、1988年生まれ)     


齋藤帆奈《Eaten colors》(2020) アクリルボックス、寒天培地、真正粘菌(イタモジホコリ、シロモジホコリ、種不明)、食用色素、メチレンブルー

独自に構築したシステムの中で、色素に染められた食物を真正粘菌が食べて増殖し、色面として現れる作品《Eaten Colors》が、近年注目されている。この作品の粘菌が生み出す色面は、システムを作った齋藤自身にも制御できない。粘菌はシステムをすり抜け、作品それ自体を破壊する可能性を内包している。同時に、色を観(み)るという絵画鑑賞の「制度」が生む時間を、粘菌の生体活動の時間に置き換えることで、絵画の歴史を生命維持というラディカルな位相でエントロピー的に解体している。


渡辺志桜里(わたなべ・しおり、1984年生まれ)     


渡辺志桜里「サンルーム」(2020) 個展「Dyadic Stem」The 5th Floor)での展示風景

代表的な「サンルーム」シリーズは植物、魚、溶岩、バクテリアなどが入った水槽(=システム)を複数構築し、ホースでつないで水を循環させ、池や湖のようなビオトープ様の閉鎖構造とし、それらを入れ子状にして作品にしている。一方で、システムの外に存在する作家や観客、また様々な環境や状況を受け入れることで閉鎖構造が解体される可能性をメタ認知として開放。逆照射的に、インスタレーション作品を含めた私たちの暮らし全体を流動的な生態系として一時的に示す。


時間や人間の制度に縛られない表現

こうして並べてみると、彼ら彼女らの作品に共通するものが見えてくる。それらは、欧米文化を中心とした時に語られてきた自然と対立する人間という考えや社会の在り方が、静的で疑う必要がないという私たちの思い込みにメスを入れている。

つまりは、人間の存在を無条件に前提とするのではなく、むしろ不確定性に依拠し、人間が成立する条件をあぶり出し問い直すような作品となっている。彼ら彼女らは、社会や文化が成立する過程やその条件を描き出す。そのために、自然物に限らず様々に動的なものを作品構造に導入し、ある状況や対象が持つ時間性をぎりぎりまで壊したり、壊れる可能性を示唆する形で提示したりする。彼ら彼女らは、アートが持ちうる超越性を、世界に対してではなく人間に対するものとして理解しているようだ。人間を絶対的な存在とみなさない、これらの表現手法は、欧米中心的な現代アートが構造的にはらむ、欧米と非欧米との非対称性に対する抵抗から生まれているのだろう。

他方、明治以降、日本もまた、国策によって海運会社が様々な航路を切り開き発展してきた帝国主義的な貿易国であったし、欧米の植民地政策が生んだ経済生態系にも歴史的に深く関わってきた。そのことは、国際的なポスト・コロニアル(植民地後)状況にいる私たちも知っている。日本の多くの若手アーティストが断片的な作品を作り、空間を支配するような全体性を作品構造として構築することに抵抗を示すのは、それゆえだと筆者は見る。欧米中心主義へのこうした二重の抵抗は、彼ら彼女らの作品では、主に時間へのアプローチとして現れる。歴史推移的な時間であったり、私たちの意識の流れを超える時間であったり、ある特定の時代区分として取り出されたアートのタームだったり。非同時代的で非対称的な時間を、幾重にも束ねてぶつけて分析し、積極的に扱っている。

こうした時間表現から推察するに、日本で独自のバイオアートを形作っているアーティストたちは、欧米由来のバイオアートのパラダイム(構造)を非欧米圏側から読み直しながら、新しい方向性を作り出そうとしているのだろう。現在世界中で、かつてのアヴァンギャルド(前衛)を再演することで過去のものとして静的に扱い、単なるレガシー(遺産)として矮小化する動きが起きている。日本でバイオアートに取り組むアーティストたちは、そうした現代アートの外側を、冷静に見定めていると言えるだろう。

ここで紹介したアーティストたち、また紹介できなかった来たるべきアーティストたちも、今回私が述べてきた文脈のみに収まる作家ではない。もちろん、彼ら彼女らが、現代的な時代性を担っていることは間違いない。彼ら彼女らに共通するのは、大きな社会的集団に自らの行動が吸収されない領域を、作品を通して独自に作り出すという態度である。これはかつてのアヴァンギャルドの作家たちと重なるところで、支配的な従来の構造をすり抜けた場所でも芸術が可能である証左でもあるだろう。引き続き、注目していきたい。

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