迎英里子は「アプローチ」と呼ばれるシリーズにおいて、屠畜(とちく)、石油の精製、金利政策、放射性崩壊、婚姻制度といった、実社会や自然界において見えづらい、あるいは全体を把握しづらいような「体系」に肉薄(アプローチ)する。「体系」は、それぞれ固有の人、もの、制度が絡まり合っているのだが、迎はそれらを剥身(むきみ)の唯物論として——触ることができ、重さを持ち、目に見えるものたちの集まりとして——造形化している。ここで興味深いのは、迎の実践が解剖的フェティッシュや「図解」による教育的効果に留まっていない点である。見る者が「鑑賞(アプローチ)」するのは、作品が体現している「体系」それ自体だけではなく、むしろまったく独立した別の体系たちでもあるからだ。作品に動員された素材自体が持つ物理的な性質があり、手順に基づいて行為する黒子(たち)の身体があり、迎自身による原理の解釈がある。肯定されている鑑賞(アプローチ)は思ったより広い。それは細部への注目、目移り、誤解、今起こった出来事の部分的な脳内再生だ。