アートの未来を歪める米最高裁の誤断──ウォーホル作品に「著作権侵害」の判決

5月18日に米連邦最高裁判所は、ロックミュージシャンの故プリンスを描いたアンディ・ウォーホルの作品が、もとになった写真を撮影した写真家の著作権を侵害しているとの判断を下した。アート界を中心に大きな影響を及ぼすと考えられるこの議論の背景と懸念点をまとめた。

2023年2月、サザビーズ・ロンドンのメディアプレビューで披露されたアンディ・ウォーホル《Debbie Harry》(1980)。Photo: AP/Aflo

著作権裁判の論点を狭い範囲に押し込めた最高裁

これまで30年近く、アーティストは過去の作品から借用することができるかという問題について、裁判所は新しい作品が「素材を十分に変容した(トランスフォーマティブな)利用である」かどうか、つまり「新しい表現、意味、メッセージ」(1994年の最高裁判決より)を付加することによって、過去の作品を変容させているのかという点を中心に議論を行ってきた。

ジェフ・クーンズリチャード・プリンスといった大物アーティストの訴訟でも、下級裁判所が繰り返しこの問いを投げかけている。そして、これまで出された判決には、かなりばらつきがある。しかし、各方面から注目を集めたアンディ・ウォーホルの著作権侵害に関する判断で、最高裁は「変容的(トランスフォーマティブ)」であるかという従来の議論ついては、ほとんど触れていない。著作権法の適用について、新しい作品が芸術に貢献しているかどうかではなく、商業的な面に焦点を当てて判決を下したのだ。今回の判断は、アーティストが過去の作品から借用し、それを土台に新たな作品を制作できる可能性を大幅に制限するものだと言える。

この訴訟は、大物ミュージシャンのポートレートで知られる写真家、リン・ゴールドスミスがプリンスを撮影した1981年の写真をもとに、ウォーホルが16点の作品を制作したことをめぐって争われていた。ゴールドスミス側の問題提起は、ウォーホルが写真をもとに作品を制作する権利、そして美術館やコレクターがそうした作品を展示・販売する権利に関するものだ。しかし最高裁の判決は、もっと狭い範囲に絞ったものになった。

2016年にプリンスが亡くなったとき、アンディ・ウォーホル美術財団(ウォーホルの死後、作品管理等を行っている)は、コンデナスト社が出版するプリンス特集誌の表紙用に、ウォーホルのシルクスクリーン作品のライセンスを与えた。裁判所は、ウォーホルがそもそもゴールドスミスの写真を借用した作品を制作する権利があったかについては明確に意見を述べず、この特定のライセンスは著作権法上のフェアユース(公正使用)には該当しないとする判断を7対2で下している。

これは、ゴールドスミスが自分の写真をライセンスすることもできたことを考えると、必ずしも理解できない結果ではない。問題は、ウォーホルが作品を制作することが許されるかどうかの判断を最高裁が避けたことにある。その代わりに狭いライセンス問題に議論を限定しようとしたが、この司法判断はそれよりはるかに広範かつ厄介な問題をはらんでいるのだ。

著作権の本来の目的とその適用をめぐる複雑さ

何が問題なのかを考えるためには、フェアユースの概念を理解しなくてはならない。フェアユースは、クリエイターが自分の作品を管理する権利と、一般の人々や他のクリエイターが作品を利用し、それをもとに創作を行う権利とのバランスを取るためにある。

この議論において見失われがちなのが、著作権法の目的は(意外に思うかもしれないが)公共の利益であり、個々のアーティストにとっての利益は付随的なものにすぎないという点だ。

著作権法の背景にある理論は、豊かで活気のある文化を望むのであれば、アーティストの作品に著作権を与えて、創作に励むための経済的なインセンティブを確保する必要があるというものだ。しかし、同じ論理で、活力ある文化の創造のためには、たとえオリジナルの著作物の制作者が反対したとしても、他のアーティストがその著作物の複製や変容で新しい作品を作り出す余地を設けることも必要だとされる。そうでなければ、著作権法が創造性を促進することを意図していながら、「創造性そのものを抑圧する」(最高裁の判決文より)ことになる。

したがって、フェアユースであると認められるには、あるクリエイターが他人の著作物を使用することで、創造性を促進するという著作権の目的そのものを達成していることを示さなければならない。

残念ながら、ウォーホル作品の著作権侵害問題に対する判断は、ただでさえ複雑なこの分野の法律をめぐる状況を、さらに複雑にしてしまった。下級裁判所や法学者は、その適用について何年も議論することになるだろう。しかし、1つだけはっきりしているのは、アーティストが過去の作品から借用することには、以前よりはるかに高いリスクがつきまとうようになったということだ。

最高裁は、新しい作品が変容的であるかどうか、つまり、(以前の判例での表現を借りれば)「何か新しく重要なものを加えているか」という点の重要性を引き下げただけではない。そこには、ウォーホルが取るに足らない芸術家であるかのような奇妙な構図がある。最高裁の判事たちは、ウォーホルが美術史の流れを変えた人物であることは知っているはずだ。しかし、多数意見では、ウォーホルは大したことのない作家として扱われ、制作されたプリンスのポートレートも、もとの写真とほとんど代わり映えのしない作品と捉えられている。

既存のイメージを利用した創作はあきらめないといけないのか

判事たちの表現によれば、ウォーホル作品は1つの「スタイル」で、もとの写真に「ささやかな変更」を加え、写真にすでに内在していた意味を引き出しただけのものであり、ゴールドスミスのイメージと「多少異なる」プリンスを描いているという。この判決に反対した少数派のエレナ・ケーガン判事は、多数派がウォーホルをインスタグラム上のエフェクトのように軽んじて扱っていると痛烈に批判した。

昔、あるカクテルパーティで、酔っ払ったウィレム・デ・クーニングがウォーホルに近づき「おまえはアートの殺人者、美の殺人者だ」と言ったというエピソードがある。しかし、最高裁判断の多数意見に、ウォーホルがかつて過激な芸術家だったという認識は、かけらも見られない。美術評論家で哲学者のアーサー・ダントーが「芸術の歴史が生んだ哲学的天才に最も近い存在」と呼んだウォーホルの実像は、完全に無視されている。

ウォーホルは、複製した作品に新たな「意味とメッセージ」をもたらすアーティストのパラダイムであり、まさに「もとの素材を十分に変容した利用である」という根拠によって守られるべきアーティストなのだ。しかし、こうした変容の考え方はすっかり弱められてしまった。

もちろん、この判決はウォーホルだけの問題ではない。そして、他のポップアーティストや、アプロプリエーション(*1)アーティストだけの問題でもない。


*1 「流用」「盗用」の意。過去の著名な作品、広く流通している写真や広告の画像などを作品の中に文脈を変えて取り込むこと。

既存のイメージを使って作品を制作するアーティストは、自分のアートについて考え直す必要に迫られている。弁護士を雇い、できればライセンス交渉を試み、断られたり提示された料金が高すぎて支払えなかったりしたら、制作をあきらめる覚悟をしなくてはならない。特に、若いアーティストや裕福でも有名でもないアーティストにとって、最も無難で安価な方法は、既存の作品を利用しないようにすることだろう。

これは、過去の作品を模倣したり、拠り所としたりするのは奨励されないということであり、アートが進むべき正しい方向性なのかもしれない。仮にそうだとしても、美術史において、引用、模倣、複製が担ってきた役割が小さくないことを考えると、これが望ましい状況だとは到底思えない。特に、現代のデジタル文化の中で、コピーする行為は創造性における重要性を増している。しかし、好むと好まざるとにかかわらず、この問題に答えを出す権限を持つのは、アーティストでも批評家でも、そしてアートを鑑賞する人たちでもない。最高裁の判断は、アートの未来を変えてしまったのだ。(翻訳:清水玲奈)

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