6つの名画からたどるベルト・モリゾ──モネ、マネ、ルノワールらと活動した女性初の印象派画家
ベルト・マリー・ポーリーン・モリゾは、女性として初めて印象派に名を連ねた作家であり、おそらく最もコンスタントにこの運動に参加していた画家だった。女性が画壇の主流から排除されていた時代に彼女が描いた必見の名作を6点ピックアップした。
個人レッスンとルーブル美術館での模写で絵を学ぶ
1841年、ベルト・モリゾはフランス中部に位置するブールジュのブルジョワ家庭に生まれた。父エドメ・ティブルス・モリゾはフランス中部シェール県の高級官吏だった。母マリー=ジョゼフィーヌ=コルネリー・トマはジャン・オノレ・フラゴナール(ロココ時代の画家)の血を引いていたという説もあるが、現在は疑問視されている。
ベルトには兄と2人の姉がおり、そのうちの1人エドマと彼女は一緒に絵を学んでいた。当時、パリのエコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)は女性の入学を認めていなかったため、姉妹は個人レッスンを受けていた。最初はジェフロワ・アルフォンス・ショカルヌ、次にジョゼフ・ギシャール、アシーユ・ウディノ、そしてジャン=バティスト・カミーユ・コローに師事。2人は1849年のパリのサロンでデビューしている。エドマはやがて絵を描くことをやめてしまったが、ベルトは修業を継続した。
幼い頃に家族でパリに移り住んだモリゾは、ルーブル美術館に通って巨匠たちの作品の模写をするのが常だった。アンリ・ファンタン=ラトゥールやエドゥアール・マネと出会ったのもルーブル美術館でのことだ。モリゾは33歳でマネの弟ウジェーヌと結婚。彼は妻のキャリアに非常に協力的だった。
モリゾは多くの作品を手がけているが、その中には娘ジュリーの肖像が70点ほどある。1895年にベルトが亡くなると、ジュリーは母の業績を後世に残すことを生涯の使命とした。彼女は夫で画家のエルネスト・ルアールの協力を得ながら母の作品を収集したり、定期的に展覧会を開いたりした。1966年に亡くなったミシェル・モネ(クロード・モネの次男)の遺贈と1990年のジュリー・マネの子どもたちからの寄贈により、パリのマルモッタン・モネ美術館には、世界有数のモリゾ作品のコレクションがある。
以下、彼女の50年近いキャリアの中から、6点の名作を紹介しよう。なお、現在ロンドン南部のダリッジ・ピクチャー・ギャラリーで、モリゾ展が開催されている(9月10日まで)。
1. 《Deux sœurs sur un canapé(長椅子に座る2人の姉妹)》(1869年)
《Deux sœurs sur un canapé(長椅子に座る2人の姉妹)》の色白で焦茶色の髪の2人の女性は、モリゾの作品によく見られるように膝から上が描かれている。どちらもまっすぐな眉と繊細な鼻、滑らかな肌を持ち、薔薇色の唇を閉じている。2人とも首に黒いリボンを巻き、首周りと手首にフリルのついたハイネックの白いドレス姿で、右側の女性は膝の上で扇子を広げ、もう1人は暗い色の楕円形の石のついた金の指輪をしている。当時モリゾが描いた多くの女性像がそうであったように彼女たちは真顔で、静かに考えごとに耽っているように見える。
女性たちは非常によく似ているだけでなく、丁寧に描き込まれたお揃いの服装や髪型、さらに同じ姿勢が鏡像のような興味深い効果を生み、双子のような印象さえ与える。この作品が制作された1869年は姉のエドマ・モリゾが結婚した年であることから、この2人はモリゾとその姉なのではないかと解釈したくなるが、実際にはドラロッシュという名の姉妹がモデルだ。ベルトはこの作品の出来に満足せず、1870年のサロンには出品しなかった。
2. 《Le berceau(ゆりかご)》(1872年)
モリゾによる最も有名な絵画の1つが、この《Le berceau(ゆりかご)》だ。姉のエドマが娘のブランシュの寝顔を見守る様子を描いたこの絵は、彼女が母性というテーマに取り組んだ初めての作品だ。1878年に彼女自身が母親になったときに、再びこのテーマで絵を描いている。母子の目と左腕が2人の固い絆を表すかのように対角線上に描かれており、彼女たちを部分的に覆っているベールも親密さを感じさせる。
公式のサロンで発表することを勧めたマネの忠告に反し、モリゾはこの絵を1874年の第1回印象派展に初の女性会員として出品した。彼女はこれ以降、ジュリーを出産した翌年の1879年を除き、すべての印象派展に出品している。批評家からは好評を博したものの、モリゾはこの絵を売ることができず、1930年にルーブル美術館に収蔵されるまで、この作品は彼女の家族が所有していた。
3. 《Jeune femme de dos à sa toilette(化粧室で身支度をする若い女性)》(1875-80年)
オルセー美術館に次ぐ世界第2位の印象派コレクションを誇るのがシカゴ美術館だ。その目玉の1つ、《Jeune femme de dos à sa toilette(化粧室で身支度をする若い女性)》は、1876年にポール・デュラン=リュエルのギャラリーで開催された第2回印象派展で展示された。1870年代、モリゾは外出前に身支度をする若い女性の肖像にとりわけ熱心に取り組んでいた。メアリー・カサットやピエール=オーギュスト・ルノワールとは異なり、彼女は舞踏会や劇場ではなく、家庭内のくつろいだ雰囲気の中で女性たちを描いている。この絵の中に描かれているモデルが髪を結んでいるのかほどいているのかはよく分からないが、どこか神経質な筆捌きは若い女性の優雅さと対照的な印象を与える。
この構図は、同じく若い女性が髪を結っている姿を後ろから描いた、マネの《Devant la glace(鏡の前で)》を思い起こさせるが、マネの作品が描かれたのは《Jeune femme de dos à sa toilette》が制作された1年後の1876年だった。このことから、モリゾの師とされるマネも、彼女からインスピレーションを得ていたことがうかがえる。この作品は話題を呼び、身支度をする女性を描いた一連の絵画はモリゾを一躍有名にした。このうちの1つ、1879年の《Jeune femme en toilette de bal(夜会服の若い女性)》は、後に美術館に収蔵された最初のモリゾ作品となった。1894年にフランスが購入し、現在はオルセー美術館に収蔵されている。
4. 《Jeune femme assise devant la fenêtre, dit l'Eté(窓のそばに座る女性・夏)》(1879年)
《Jeune femme assise devant la fenêtre, dit l'Eté(窓のそばに座る女性・夏)》に描かれた優雅な若い女性がいるのは屋内なのか、それとも屋外なのか。そう思わせることこそまさにモリゾが狙っていた効果だった。全体的に非常にゆるやかなタッチで描かれ、屋内と屋外の世界が交差しているようにも見える。若い女性が着ているフリルのついたブラウスや背後の花にきらきらとした光が反射して、まるで人物と自然が渾然一体となっているようだ。
この絵では、玄関先の階段やバルコニー、ベランダといった中間的な空間へのモリゾの関心がよく現れている。モリゾにとってこうした空間は、ブルジョア家庭の部屋の延長にあった。彼女はこのような空間で、屋外の自然光のもとで描かれた絵と室内画を融合させた新しいジャンルを生み出した。大人の入り口に立つこの若い女性は、芸術家として名を成そうとしていたモリゾの隠喩と見ることができる。
5. 《Paule Gobillard(ポール・ゴビヤール)》(1887年)
娘や姪たちに絵を教えていたモリゾの最も熱心で才能ある生徒は、姉イヴ・ゴビヤールの長女ポール・ゴビヤール(1867-1946)だった。叔母に伴われてルーブル美術館に通い、巨匠たちの絵を模写していたポールは、20歳の時に自身の模写証を手に入れた。モリゾはこれを祝して、イーゼルに向かう彼女を描いた《Paule Gobillard(ポール・ゴビヤール)》を制作したのだろう。
ポールは一方の手にパレットを、もう片方の手に筆を持って、横向きに描かれている。この若き画家が舞踏会用のドレスでない服を着て描かれているのはこの作品だけだ。妹のジャニーや従姉妹のジュリーとは異なり、画家としてのキャリアを築いたポールは、モリゾの正式な後継者だと考えられている。この絵は1961年までモリゾ=ルアール家が所蔵し、現在はパリのマルモッタン・モネ美術館に飾られている。
6. 《Autoportrait(自画像)》(1885年)
モリゾが描いた現存する5枚の自画像のうち、4枚は娘と共に描かれたものだ。唯一彼女が1人で描かれている《Autoportrait(自画像)》はマルモッタン・モネ美術館で見ることができ、そこには44歳のモリゾがパレットと筆を手に立っている。
背景はごく簡単にしか描かれていない。モリゾはキャリアを重ねるにつれて速筆になり、ノン・フィニート(*1)の達人となっていた。無地に近い背景の中で際立って見える彼女は、横を向いて立ちつつ、頭は鑑賞者の方を向いている。私たちを観察しているのだろうか?
*1 完璧に仕上げるのではなく、敢えて粗削りのままで完成とした作品
女性がアカデミー・デ・ボザールに入ることができなかった時代に制作されたこの作品は、ある種のマニフェストとも言える。モリゾは自分自身を、男性の同業者で親しい友人だったピエール=オーギュスト・ルノワールやクロード・モネと同列の、優れた芸術家として表現したのだ。(翻訳:野澤朋代)
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