欧米で浸透しつつある「クリエイティブ・ヘルス」とは? 広がるアーティストの活躍の場【医療とアートの最前線 Vol.3】
人の心を動かすアートを医療現場に採り入れることで、患者や医療従事者のウェルビーイングを向上させようという動きが世界で広まっている。その取り組みをロンドン在住のジャーナリスト、清水玲奈がレポートする連載「医療とアートの最前線」。第3回は、アーティストによるワークショップを通じて心身の健康を向上する「クリエイティブ・ヘルス」の取り組みについて。
近年、欧米やオーストラリアでは「クリエイティブ・ヘルス(創造的健康)」という考え方が広がりつつある。
クリエイティブ・ヘルスは、心身の健康やクオリテ・オブ・ライフ(生活の質)とクリエイティビティのつながりを指す言葉だ。例えば、精神の問題や慢性的な病気に苦しむ人のために専門的な訓練を受けたアーティストが講師となってワークショップを行い、病状の改善や薬の量を減らすなどの効果を上げている。
そのクリエイティブ・ヘルスの領域を専門に活動している慈善団体が、イギリスのグロスターシャー州を拠点とするArtliftだ。設立以来の約20年で多数の研究を通じてクリエイティブ・ヘルスの効果を実証し、この領域に公的な出資が行われるようになる道を切り拓いてきた。
「アートは世界を違う角度から見る手助けをしてくれます」と、Artliftのエグゼクティブ・ディレクターであるキャス・ウィルキンスは説明する。「作品制作に夢中になることで、精神的にも、そして人生のステップとしてもここではないどこかに行けます。普段使っているのとは異なる脳の領域を使い、コミュニティに参加することで凝り固まっていたものを解き放ち、自分の中の障壁を取り除くきっかけにもなります。自分の中に眠っていた創造性、そして社交性を発見して、自信が身につくのです」
過去にとらわれている精神疾患の患者にとっては、アートを通した自己表現は、過去と向き合いカタルシスを得るためのツールにもなる。慢性的な痛みや不治の病を抱える患者にとっては、アートに夢中になる時間が気晴らしとなり、苦痛が軽減する効果が実証されているという。
処方としてのアート
Artliftは、グロスターシャー州全体で医師からの社会的処方(薬ではなく、地域のつながりや患者の生活を支援するための社会資源を処方すること)に基づくアートコースを提供している。「精神的な問題を抱える人、慢性的な痛みを抱える人、集中治療を受けた人のための3つの社会的処方に基づくアート・プログラムのほか、がんサバイバーのためのプロジェクトにも取り組んでいます」と、ウィルキンスは語る。
アートを治療プロセスに活かす心理療法として実践されるアートセラピーと異なり、Artliftで重視されるのは患者の病状ではなく、創作の活動と社会的交流だ。コースでは講師が画材の使い方などを説明し、参加者たちは静かに制作に取り組む。
「アーティスト・ファシリテーター」や「クリエイティブ・ナビゲーター」と呼ばれるArtliftの講師は現在12人。それぞれがさまざまな領域での実績をもつアーティストであり、応急手当やメンタルヘルス、障がい者対応や平等と多様性についてのトレーニングを受けている。コースの参加者の顔ぶれによっては、LGBTQ+や自閉症、特定の障がいや疾患のある人々など、さまざまな状況や個別の支援内容に対応するための研修もおこなうという。
創作活動で薬の量が減る?
こうしたコースの結果や知見の一部は、ケーススタディとして公開されている。
「慢性の痛みと上手に付き合う(Living Well with Chronic Pain)」と題された10週間のコースに参加したクレアのケースもそのひとつだ。クレアは2021年にパンデミックの影響で失業。夫の介護の疲れもあって慢性疼痛に苦しみ、薬の副作用による疲労感に悩まされていた。しかしArtliftに参加して「アートには副作用がなく、活力と熱意を与えてくれる」ことに気づいたという。「アートのおかげで痛みを忘れ、自信と強さを取り戻すことができた」と語るクレアは、元受講生で作られるフェイスブックのコミュニティ「ムーブ・オン・グループ」に参加してモチベーションを保ちながら、今も抽象画の制作に取り組んでいる。
精神的な問題を抱える人向けのコース「クリエイト・ウェル・メンタルヘルス(Create Well Mental Health)」に参加したエイドリアンの例もある。退役軍人のエイドリアンは不安やうつ病、広場恐怖症、PTSDを抱え、6年にわたり家からほとんど出られなかったという。
そうしたなかで精神科医からArtliftを紹介され、気が進まないながらも最初の1回に参加するために家から出たことで気分が改善したという。また、コースに参加するうち、クリエイティブな活動が強迫性障害をコントロールする助けになることにも気づいた。学校では美術は不得意で、社会人になってからは30年以上にわたり創作活動と無縁だったエイドリアンだが、講師にさまざまなテクニックを教えてもらって自由に創作に取り組むうちに「クリエイティブな火花が弾けた」と語る。薬の量も減り、精神科医のセラピーも必要なくなったそうだ。
エイドリアンが参加した「クリエイト・ウェル・メンタルヘルス」コースの場合、2022年の参加者の82%が「精神的なウェルビーイングが大幅に改善された」と回答し、100%が「ウェルビーイングを維持するためにクリエイティブな活動を続ける」と答えた。また、グロスターシャー大学の報告書では、自己評価のアンケートに回答した1297人の参加者について、ウェルビーイングの向上や抑うつや不安の減少に有意な効果が見られたという。
Artliftの公式サイトでは「ウォーウィック・エジンバラ・ウェルビーイング・スケール」をはじめとする定量的な評定基準で評価したエビデンスや統計データ、研究論文も多数掲載している。
きっかけは、ある医師の気づき
Artliftの活動の始まりは、2004年にさかのぼる。グロースター州ダーズリーのかかりつけ医(GP)であるサイモン・オファーが、多くの患者が社会的・感情的問題を抱えて診察に訪れていることに気づいたたことがきっかけだった。
そこでオファーは、代替的な治療を提供することで不要な診察の数を減らせないかと考える。「アーツ・フォー・ヘルス・プロジェクト」と銘打ち、アーティストを雇ってアーティスト・イン・レジデンスをおこない、不安やストレスに関連した症状を持つ患者たちにアート制作のワークショップに参加してもらったのだ。すると参加者の手術の回数が減り、メンタルヘルスが著しく改善するなどの効果が上がったという。
このプロジェクトを前身として、2007年にArtliftが誕生。アーツ・カウンシルとグロスターシャー州カウンシルからの資金提供を受けて、GPや病院、精神医療の施設にアーティストを派遣するようになった。さらに、現在はイギリスの国営医療事業である国民保健サービス(NHS)の投資も受けている。
社会的処方に公的投資を
NHSによるArtliftへの投資を皮切りに、イギリスでは政府レベルでアートが医療にもたらす貢献が認識されるようになった。2017年には国による「アート、健康、ウェルビーイングに関する全政党議会グループ」が2年間の調査とエビデンス収集を経て、報告書「クリエイティブ・ヘルス-健康とウェルビーイングのためのアート」を発表した。そこでは3つの結果が出されている。
・アートは私たちの健康を維持し、回復を助け、よりよく生きる長寿をサポートすることができる
・アートは高齢化、長期疾患、孤独、メンタルヘルスなど、医療と社会的ケアが直面する大きな課題を解決するのに役立つ
・アートは医療サービスや社会的ケアの経費節減に役立つ
また、Artliftは企業や組織の職場におけるウェルビーイング・パッケージの提供も行ってきた。これまでNHSの関連施設のほか、ロンドンの文化芸術施設サウスバンク・センターなどが利用してきた。職場生活の幸福度を上げるとともに、レジリエンスの向上、体調不良による労働日数の減少、ひいては生産性の向上につながることが明らかになっている。
ウィルキンスは、「既存のデータやエビデンスをさらに国の内外で共有し、さまざまなコミュニティでクリエイティブ・ヘルスやアートの社会的処方のための公的投資を増やす根拠にしてもらいたい」と、今後への抱負を語る。
子どものころは多くの人が絵を描くが、大人になると創造性を発揮するチャンスなどないという人がほとんどだ。病気をきっかけにアートに取り組み、心身の苦痛を和らげてポジティブに生きる目的を見出す人が増え、健康な人もクリエイティブ・ヘルスの活動に参加できる場が広がれば、社会全体のウェルビーイングが底上げされるだろう。