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最高落札額を樹立も「男性作家より割安」。アグネス・マーティン作品に見る変化の兆し

カナダで生まれ、1931年にアメリカに移住したアグネス・マーティンは、鉛筆で描いた細かいグリッドに淡い色彩を重ねた抽象画で高く評価されている。その作品の1つが、今秋サザビーズオークションで予想を大きく上回る落札額を付けた背景を探る。

手数料込み1870万ドル(約28億円)という記録的な価格で落札されたアグネス・マーティンの大型絵画《Grey Stone II》(1961)。Photo: Courtesy, Sotheby's

激しい競り合いで高額落札となったアグネス・マーティン

このところアート市場の軟化や調整が取り沙汰されることが多かったが、ニューヨークの秋のオークションではセカンダリーマーケット(*1)が待ち望んでいた結果が生まれた。しかし、コロナ禍の最中にもてはやされた新進アーティストの勢いが戻ったというわけではない。着実に高まりつつあるのはトップクラスの一流作家に対する需要で、アグネス・マーティンの《Grey Stone II》(1961)は、そんな状況を象徴する作品となった。


*1 セカンダリーマーケットとは、プライマリーマーケット(作品が最初に世に出る市場で、通常はアートギャラリーや百貨店、アートフェアなどで作家が作品を発表し、売買される)で顧客が購入・所有していた作品を、オークションなどで再販(転売)する市場を指す。

サザビーズで行われた故エミリー・フィッシャー・ランドーの所蔵品オークションでは、パブロ・ピカソがマリー=テレーズ・ワルターをモデルに描いた《時計を持つ女》(1932)が目玉と言われていた。しかし、オークションの前も後も、シャンパンや白ワインのグラスを片手にした人々が話題にしていたのは、マーティンの作品のことばかりだった。

実際、《Grey Stone II》はその夜のセールで最も激しい競り合いになり、最終的に最低予想落札額の2倍を上回る1600万ドル(直近の為替レートで約24億円、以下同)で落札。手数料を加えた最終価格は1870万ドル(約28億円)で、オークションにおけるマーティン作品の最高記録を塗り替えた。それまでの最高額は、2022年秋にやはりサザビーズ行われたマックロー元夫妻の所蔵品セールで、1770万ドル(約26億円)で決着した《無題#44》だった。

マーティン作品の市場動向を注視している人にとっては、この価格は驚くに値しないかもしれない。マーティンは、ジョアン・ミッチェルやヘレン・フランケンサーラー同様、美術史上の重要作家だからだ。しかしこれらの作家には、全員が女性で、男性作家に比べ金銭的評価が低いという偶然の一致とは言いがたい共通点がある。ただ、このところのオークションでは、作品の来歴や希少性、歴史的価値が見直されている。《Grey Stone II》は、そうした市場の需要にぴったり合致した作品だったと言えるだろう。

サザビーズのシニア・バイス・プレジデントでコンテンポラリーアート部門責任者兼マーキーセールス部門共同責任者のデイヴィッド・ガルペリンは、「《Grey Stone II》は、市場が長い間待ち望んでいた素晴らしい作品です」と、US版ARTnewsに語った。ガルペリンによると、マーティン独特のミニマルなグリッド絵画を追求し始めた初期作品で、金箔が用いられた3つの大型作品のうちの1点だという。ちなみに、他の2点はニューヨーク近代美術館(MoMA)とサンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)が所蔵している。

破棄されてしまったグリッド絵画以前の作品

この作品の価格設定は巧みだったと、美術品所有権の分割販売を行う新興企業、マスターワークスの作品調達担当幹部であるマーシャ・ゴロヴィナは言う。

「サザビーズの専門家たちは、この作品に大きな関心が寄せられていることを認識していました。それに、市場の関心は予想落札額に左右されます。歴史的価値のある作品の落札額が600万ドル〜800万ドル(約9億〜12億円)になるだろうという見積もりは、入札を検討する可能性のある市場関係者に対し、非常に具体的なメッセージを送ることになるのです」

ニューヨーク近代美術館(MoMA)に展示されたアグネス・マーティン作品。2011年撮影。Photo: Wikimedia Commons

近年オークションに出品され、記録的な金額で落札されたマーティンの作品は、どれもほぼ同じ予想落札額が設定されていた。2016年5月にクリスティーズで行われた戦後美術・現代アートのイブニングセールで、手数料込み1070万ドル(約16億円)の値が付いた《Orange Grove 》(1965)の予想額は650万〜850万ドル(約9億7000万〜12億7000万円)で、それ以来、同じ水準で推移している。前述した2021年のマックロー元夫妻のコレクションや、今年11月のフィッシャー・ランドーのコレクションのセールでは、結果的にマーティンの持つ記録が更新されたものの、予想落札額は約7年前のイブニングセールを下回るものだった。

ペース・ギャラリーCEOのマーク・グリムシャーは、US版ARTnewsに対し、「今の状況を見ると、マーティンやミッチェル、リー・クラスナーのような作家の価格帯が、なぜ男性アーティストより著しく低いのか、アート界が自問していることが見て取れます」とコメント。ペースはマーティンを扱ってきた唯一のギャラリーで、マークの父でギャラリー創設者のアーネ・グリムシャーは、マーティンが92歳で亡くなってから8年後の2012年に、その生涯と作品に関する代表的な書籍、『Agnes Martin: Paintings, Writings, Remembrances』を出版している。

グリムシャーはこう続けた。

「アグネスは生涯に約450点の絵を制作しました。というより、約450点の絵画が残っていると言うべきでしょう。1960年にグリッドというモチーフを見いだすと、それ以前に制作した作品をすべて破棄してしまったからです。1930年代から活動を始めていたのに」

グリムシャーによれば、グリッドの作品で現存するものはわずか60点ほどで、そのうち今後10年間に市場に出回る可能性があるのは5点に過ぎないという。

最高落札額を樹立してもまだ「男性作家より割安」

マーティンの作品の魅力は、希少性と美しさだけではない。彼女は、コレクターのみならず、美術史家や現代の作家にとっても特別な位置を占めるアーティストなのだ。マーク・ロスコのように芸術的使命の純粋さを象徴し、商業的・経済的な思惑に捕らわれることを避けた彼女は、多くの人々にインスピレーションを与えている。

グリムシャーは、マーティンの市場評価が急上昇し始めたことについて、「しばらく前から予見されていた瞬間が、とうとう訪れたと言えるでしょう」と述べ、1980年代初頭のロスコ作品の状況に似ていると指摘。1990年代にオークションで100万〜300万ドル(約1億5000万〜4億5000万円)だったロスコの作品は、その後5年ほど上昇を続け、価格は300万〜600万ドル(4億5000万〜9億円)に達した。

「そんな中で行われたのが、青と黄色の絵のオークションです」。こうグリムシャーが語るのは、ロスコの《No. 6 (Yellow, White, Blue over Yellow on Gray)》(1954)のことだ。この作品は、2004年にサザビーズで1736万ドル(約26億円)で落札され、現在はコレクターのトム・ヒルが所有している。

「予想落札額は600万〜800万ドル(約9億〜12億円)だったのに、1700万ドル(25億ドル)を超える値で売れたのです。オークション会場にいる誰もが、これは正気の沙汰じゃないと唖然としていました。そして今では、紙を支持体とした作品であってもロスコを1700万ドルで手に入れることはできません」

ロスコ同様、マーティン作品の市場価値も今後着実に上昇するとグリムシャーは見ている。彼の推定では、マーティン作品のおよそ半数は美術館に所蔵されており、死去したときに遺された作品は皆無だった。つまり、マーティン作品は数が非常に限られているため、オークションでの落札価格が年々上昇していく可能性が高い。

サンフランシスコを拠点とするアートディーラーで、アメリカ美術商協会(ADAA)の会長であるアンソニー・マイヤーはこう語る。

「現実的な問題は、作品の数に限りがあるということです。これまでもマーティンの作品を評価する人たちはいましたが、価格がそれほど高くなかったため、取引の対象にならなかったのです。サザビーズで樹立した史上最高額も、2016年のクリスティーズでの記録も、同世代の男性アーティストの作品と比較すると絶対に安いと言えます」

マイヤーは、フィッシャー・ランドーのコレクションのオークションでは、ただ純粋に作品の美しさと質が結果に結びついたと主張する。「確かに、アート市場は低迷していますし、世界が不安定な状況にあるのも事実です。そんな中にあって、《Grey Stone II》は、もう二度と出てこないであろう逸品でした。それに、歴史に名を残す偉大なアーティストの作品としてはお買い得だったのです。そんなチャンスの再来を狙っている人がいるとしても、幸運を祈るとしか言えません」(翻訳:清水玲奈)

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