映画評:ヴィム・ヴェンダースの新作『アンゼルム』は、誇大な神話の再生産なのか

ヴィム・ヴェンダースがメガホンを取った話題作『アンゼルム』は、戦後ドイツを代表するアーティスト、アンゼルム・キーファーの過去と現在を追うドキュメンタリー映画だ。今年、東京国際映画祭でも上映された本作を、US版ARTnewsの記者がレビューする。

映画『Anselm』より。Photo: Courtesy Janus Film

アーティストの人生を描いた「質の悪い」ドキュメンタリー映画は世界に数多いが、それらに共通しているのは、まるで神話のようにアーティストを扱っているということだ。つまり、偉大なるアーティストとは、スタジオアシスタントの助けを借りることなくひとり制作に没頭し、傑作を生み出す孤高の天才である、というように。そして残念なことに、ヴィム・ヴェンダースがメガホンを取ったドイツの画家兼彫刻家、アンゼルム・キーファーの新作ドキュメンタリー映画『アンゼルム』もそうした「神話」の一つだ。しかし、キーファーをそんなふうに扱う必要が本当にあるだろうか。

部分的に3Dカメラを使用して撮影されたこのドキュメンタリーは、キーファーのまるで宮殿のような二つのスタジオが主な舞台。一つは、キーファーがフランス南部の町バルジャック近くに構える、それ自体がアートインスタレーションとして機能する広大な敷地とそこに建つスタジオ複合施設。もう一つが、パリから10キロほど離れたクロワシー=ボーブールにある大規模な作品制作が可能なスタジオ。『アンゼルム』を観る限り、ヴェンダースはこれらの場所を訪れたことのある他の多くの人々と同様、キーファーが二つの拠点で成し遂げた功績に畏敬の念を抱いているようだ。

狂気じみたソリスト?

『アンゼルム』の中で、ヴェンダースは何度もキーファー作品の周囲をカメラでぐるりと追ってみせる。夜明けには、キーファーによる着用者のいない鉄製のドレスをロマンチックに切り取り、霧の中、空高くそびえ立つ塔の中を歩くキーファーの姿を映し出したかと思うと、ある晴れた日には、まるで神の視点のように栄光に満ちたスタジオとそれが建つ広大な敷地を上空から映し出す。

バルジャックはルネサンス時代にまで遡る歴史ある街ではあるが、決して観光地というわけではなく、マルセイユから車で2時間かかる辺鄙な場所だ。そこに2022年5月に一般公開されたキーファーのスタジオ複合施設は「ラ・リボーテ(La Ribaute)」と名付けられ、70を超えるキーファーの記念碑的作品が、広大な敷地を埋め尽くしている。

クロワシー=ボーブールのスタジオで巨大な絵の制作に取り組むキーファーを切り取るなど、ヴェンダースは多くのシーンで、広大な空間でたった一人、絵の具を垂らすキーファーを孤独で狂気じみたソリストとして描いている。

映画『Anselm』より。Photo: Courtesy Janus Film

しかし映画の半ばに差し掛かると、観客たちは、キーファーが実際にはアシスタントたちの大いなるサポートを受けて制作していることを知ることになる。彼らがキーファーのために鉛を溶かしたり藁を集めたりするシーンがようやく登場するのだ。ヴェンダースは、巨大な作品を制作するアーティストの引き締まった身体に明らかに魅了されており、キーファーが火炎放射器を振り回して絵画を焦がす姿を捉えることはあっても、その傍らで必死に消火活動に勤しむアシスタントたちに注意を払うことはないのだ。

客観的視点の欠如

キーファーはドイツのアート業界、あるいは時にはそれを超えて、いつも物議を醸してきた。彼のキャリアが絶頂期にあった80年代、キーファーは、ナチスドイツが掲げた思想やテーマ(マルティン・ハイデガーの哲学やドイツの風景画)を蘇らせたとして批判された。あるいは60年代、ヨーロッパ各地で自身の父親のドイツ軍服を着てナチス式敬礼をするセルフポートレートを制作していたことも裏目に出た。美術史家のベンジャミン・HD・ブクローが1975年に、キーファーは反ファシストだと思い込んでいたファシストである、と皮肉ったのは有名だ。

ヴェンダースの映画は、こうした非難を受け流すことはない。例えば彼は劇中、キーファーが1980年のヴェネツィア・ビエンナーレの西ドイツ館で、個展「燃焼、殴打、埋没、砂の沈積」を開催した頃の古いインタビューを紹介している。この個展で発表したドイツの風景の偉大さを強調した作品は、ナチスのテーマに紐づくものか? ドイツ人ジャーナリストにそう問われたキーファーは、「私は1945年生まれだから、このテーマに再び取り組むチャンスがある」と答えている。しかしヴェンダースがこれについて、それ以上追及することはない。

映画『Anselm』より。Photo: Courtesy Janus Film

ヴェンダースは本作の制作プロセスの中で、キーファーにプレッシャーをかけることを極力避けたように感じられる。本編に、キーファーとヴェンダースが会話する様子はほとんど登場せず、キーファーの声を聞くだけでも開始から20分も待たなければならない。彼の芸術についての考察の多くは、主に本人による息の詰まるような濃密なナレーションで語られる。ヴェンダースは観察者に徹し、キーファーが暗い空間でキャンバス上に投影されたイメージをなぞるのと同じようなメランコリーをスクリーン上に創出するのだ。

過大な重々しさが支配する

本作は、ほかにも芸術的な華やかさで彩られている。『アンゼルム』は、同じくヴェンダースによるピナ・バウシュのドキュメンタリー『ピナ』(2011年)同様、3Dで公開されるが、『ピナ』が彼女のダンスをよりイマーシブに追体験できる作品であったのに対し、『アンゼルム』が3Dである必要はあまり感じられない(なぜなら、どんなにクローズアップしたところでキーファーの絵画はフラットだからだ)。

また本作では、俳優たちがキーファーの人生の様々な局面を再現するシーンが登場する。あるシーンでは、雪原を横切りながら写真を撮る若き日のキーファーが登場する。そしてその写真は、西ドイツの精神の冷たさ、雪の下に隠された手の施しようのない過去、そしてナチスが使った「血と土」など、多くの隠喩としての絵画となる。ヴェンダースは、キーファーの苦悩に満ちた心理を描くため、こうした手法を取ったのだろう。しかしこのシーンがあることで本作は、多くの人がキーファーの作品に対してそう感じるように、必要以上に過大で重々しいものになってしまっている。

映画『Anselm』より。Photo: Courtesy Janus Film

おそらくヴェンダースは、キーファーが歴史から逃れることは不可能であると言いたいのかもしれない。そしてヴェンダースは、私たちも鑑賞者であるべきではない、と示唆しているようだ。なぜなら、過去はいつだって私たちの周りにあるからだ。

劇中、キーファーを演じる俳優たちは、2022年にキーファーが壮大な展示を行ったヴェネツィアのストロッツィ宮殿でキーファー本人と対話する。しかし、これまでも散々語られてきた過去について、新しい発見などあるだろうか。繰り返しになるが、おそらくそれこそがポイントなのだ。ヴェンダースは本作に、ベルリンの新国立美術館で1991年に開催されたキーファーの展覧会の記録映像を挿入している。その中でインタビュアーはキーファーに、彼の作品はドイツの歴史についての欺瞞なのではないかと尋ねる。すると彼はこう答えるのだ。「神話の中に逃げ込むつもりはありません。なぜなら、神話は実際に存在するからです」

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