世界初「リラックス・ヴェニュー」の挑戦。観劇のマナーを取り払ってみたら、アートの間口が広がった【エンパワーするアート Vol.6】

これまでとは異なる物事の見方を教えてくれるアートの力を借り、社会をより良い方向に進めようとする取り組みが生まれている。ロンドン在住の清水玲奈が伝える連載「エンパワーするアート」の第六回は、公演中に声を出すのも体を動かすのも自由という世界初の「リラックス・ヴェニュー」、バタシー・アーツセンターを訪ねた。

Photo: Morley von Sternberg

パフォーミングアーツの鑑賞において、観客が上演者へのリスペクトを示し、周囲の観客に配慮することは当然のエチケットだと考える人は多いだろう。上演開始時に流れる「携帯電話のスイッチをお切りください。録音・録画は禁じられています」というアナウンスもおなじみだ。

ところが、南ロンドンにあるバタシー・アーツセンター(BAC)では、まったく逆のアナウンスが流れる。

「舞台への注目の仕方はひとつではありません。ここでは、移動したり、体を動かしたり、声を出したり、会場を自由に出入りする権利が認められています」

世界初の「リラックス・ヴェニュー」

BACは、1970年代の開館以来、地元コミュニティーのための場所として演劇やダンスといったパフォーミングアーツを上演してきた。2020年からは「世界初のリラックス・ヴェニュー(Relaxed Venue)」として運営されている。

「リラックス・ヴェニュー」は、バタシー・アーツセンターが世界に向けて打ち出した用語で、毎日の公演を「リラックス・パフォーマンス」として行うヴェニューという意味だ。「リラックス・パフォーマンス (Relaxed Performance)」という概念は、自らもトゥレット症をもち、長年にわたって障がい者による芸術を促進する活動に取り組んできたアーティスト、ジェス・トムが考案した。BACがリラックス・ヴェニューに変革を遂げるプロジェクトにも、トムが全面的にかかわった。

バタシー・アーツセンターの建物。19世紀末に建設された元市庁舎で、建築上および歴史上重要な建築物を指す「イギリス指定建造物」にも指定されている。Photo: Morley von Sternberg

リラックス・パフォーマンスは、劇場のルールを緩和した公演のこと。ニューロダイバージェント(自閉症や注意欠陥・多動症、学習障害などいわゆる発達障害を含め、脳の特性をもつ人たちを指す。これらを「脳の多様性」と捉えて尊重しようという考え方「ニューロダイバーシティ」に基づく用語)、そのほかでもリラックスした環境が必要な人に配慮している。客席の照明を真っ暗にしない、上演中に劇場から出て休憩できるスペースを設けるといった配慮を行うのが一般的だ。また、上演内容においても、音や音楽のボリュームを調整したり、特定の動きやセリフを変えたりすることがある。

BACではさらに、リラックス・ヴェニューとして、開場時間に遅れて行っても、音を出しても、声を上げても、客席で飲食をしても許される。上演中に席を立って動き回るのも自由だ。カメラやスマートフォンを使っても咎められることはない。だから、例えばトゥレット症候群に見られる運動チックや音声チック(意思に反して体が動いたり声が出たりする現象)をもつ人も、気後れすることなく自分らしく安心して鑑賞できる。演劇の伝統的なエチケットやルールに縛られることなく、幅広い人たちがパフォーミングアーツを楽しめる機会を広げること、それが、リラックス・ヴェニューの目的だ。

アナウンスが生む「合意」

だからこそ、BACでは、上演前のアナウンスを会場にいる全員に伝えることをとりわけ重視しているという。そうすることで、誰も互いの態度をジャッジし合うことなく、それぞれに楽しめばいいという合意が生まれるからだ。BACのプロデューサーを務めるメアリー・オズボーンは、こう説明する。

「従来の劇場では、上演中に席を立つのは作品が気に入らないという意思表明ととられます。しかし、ここではそうではありません。アーティストたちにとっても、会場と一体になるライブパフォーマンスならではの醍醐味を感じつつ、安心して創造に打ち込めるという大きな利点があります」

オズボーンいわく、観客から「どんなふうに見ても、会場を出入りしても自由だというアナウンスそのものが斬新で、まるで作品の一部のようだった」という感想をもらうことも珍しくないという。「パフォーミングアーツに対する既存の概念を覆すこと自体がクリエイティブです」

毎日実践することの重要性

トムの活動にインスピレーションを得て、イギリスでは劇団ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)、バービカンセンターをはじめ劇場や美術館、映画館で「リラックス鑑賞」の日を設けるところが増えている。しかしオズボーンは、1週間に1日、リラックス鑑賞の機会を提供するだけでは弊害が大きく、ニューロダイバージェントや障がい者がマイノリティであると逆に認めてしまうことになると語る。「だからこそ、毎日の実践でなくてはなりません。従来の劇場のエチケットは、誰が考えたものなのか、それが本当に正しいことなのかを問い直すべきです」

BACの2023年秋の目玉となった公演、ヒップホップのミュージカル「パイド・パイパー(Pied Piper)」のディレクターでメイン・キャストでもあるコンラッド・マレーは、「リラックス・ヴェニューで恩恵を受けるのは障がいをもつ観客だけではない」と語る。「南ロンドンに多く暮らしている労働者階級の人たちは勤務先が遠方であることが多く、7時きっかりに会場に来られない人も多い。ご飯を食べる時間がなければ、上演を見ながら飲食するしかありません。あるいは、介護や育児のためにスマートフォンをチェックしなくてはならない人もいるでしょう」

観劇料の設定にも、BACのインクルーシブな思想が反映されている。推奨価格は12ポンドだが、低収入や無収入の人、家族が多い人など、幅広い人たちが観劇という楽しみにアクセスしやすくなるよう、最低6ポンドの好きな金額を払えばオンラインでチケットが購入できる仕組みだ。付き添う介護者は無料となり、当日に空きがある限りは日付の変更も無料で応じてくれる。

2023年秋の目玉となった公演「パイド・パイパー(Pied Piper)」に出演するコンラッド・マレー。Photo: BAC/Ali Wright

ライブならではの一体感

さて、「パイド・パイパー(Pied Piper)」は、リラックス・ヴェニューとリラックス・パフォーマンスを同時に実現するBACの急進性を凝縮したような作品だ。

書き下ろしの脚本は「ハーメルンの笛吹き男」をベースにしたストーリー。舞台となるパイ工場の貪欲な経営者が、労働者たちの楽しみである音楽を禁止するという決定を下すのだが、その結果、工場にはネズミが大量に出現するように。そこで労働者たちは団結し、力強い音楽に乗せてネズミだけではなく経営者も追い出すことに成功する、というハッピーエンドだ。

マレーは、「労働者たちは、音楽の創造性に助けられて、権力を覆します。経済合理性が何よりも優先される現代社会への批判であると同時に、力と声を奪われがちな子どもたちに希望を与えるエンパワーメントの物語です」と熱を込める。

この演目でひときわ会場を盛り上げるのが、物語の半ばで登場する「ビートミックス・アカデミー」の生徒たちだ。BACは地元バタシー周辺の若者たちを対象に、創造性や社会参加を促すワークショップを定期的に開催しているが、「ビートミックス・アカデミー」もその一つ。そこに参加している自閉症スペクトラムなど、ニューロダイバージェントを含む子どもや若者が、工場労働者の役で登場し、エネルギッシュなヒップホップを披露してくれるのだ。

また、会場の観客が参加できるシーンも設けられていて、ヒップホップの基本となる声の出し方をキャストがその場で指導してくれる。演者と観客が一緒に劇を盛り上げる、楽しい連帯感を味わうことができるのだ。筆者が観劇した日は、動き回ったり会場の外に出たりする観客は見かけなかったが、誰もが文字通りリラックスして、ライブならではの一体感と熱気を味わっているのが伝わってきた。

「パイド・パイパー(Pied Piper)」に工場労働者の役で登場した子どもたち。Photo: BAC/Ali Wright

「ヒップホップは、楽器がなくても、楽譜が読めなくても、言葉さえ話せなくても、マイクと声さえあれば誰でも実践できます。集まって、即興で面白い音を出すうちに、みんなが一つになる感覚が味わえ、文字通り、子どもや若者に力と声を与えることができるところが魅力です。白人であろうとなかろうと、ニューロダイバージェントであろうとなかろうと、ヒップホップという土壌にあっては、誰もえらぶったり、見下されたりすることはないのです」

そう語るマレー自身、インド系イギリス人であることから白人主導の舞台芸術の保守的な業界で「見下されるような」体験をし、排他的な体質に大きな疑問を感じてきた。そもそもヒップホップというアートフォームを選んだ理由も、そこから来ている。

通常のロンドンの劇場とは違い、キャストも観客も、白人以外の比率が圧倒的に高いのも印象的だった。アカデミーの生徒の友だちや家族をはじめ、地元の人たちが気軽に観に来られる環境ということもあるのだろうか、南ロンドンの人口構成をそのまま反映しているように感じられた。

「パイド・パイパー(Pied Piper)」より。Photo: BAC/Ali Wright

既存のルールを壊すこと

マレーは、「どんな形式の芸術であっても、これからはコミュニティにフォーカスすることが大切だと思います。いまはスクリーンをひとりで見て消極的に楽しむ娯楽が一般化していますが、文字通り立ち上がること、そして、集団でひとつのことを成し遂げる楽しさ、尊さを、多くの人に知ってもらいたい。これからは、リラックス・パフォーマンスが標準であるべきで、音を立てたり動いたりしてはいけない公演を『パッシブ・パフォーマンス(消極的鑑賞の回)』と呼ぶべきなんです」と語る。

とはいえ、伝統的な舞台芸術のしきたりをすべて取り払うには課題も多い。

例えば、通常の劇場では、自由に観客が出入りしたり寝転がって鑑賞できたりするような座席の配置にはなっていない。それはBACも同じだ。「こうした問題の解決に向けて、建築家たちの創意工夫に期待したい」と、オズボーンは語る。

また、アーティストたちのリラックス・パフォーマンス、リラックス・ヴェニューに対する認知を広げていくことも重要だ。イギリス国外のアーティストのなかにはこの概念に驚く人も多い。また、長時間にわたるセリフの多い演劇や静かな音楽の流れるダンス作品は、リラックス・パフォーマンスには不向きかもしれない。しかし、そうした懸念点をアーティストや関係者らと議論し、工夫して乗り越えることから、障がい者文化・芸術とその新しい楽しみ方の認識を少しずつ世界に広げていけるとオズボーンは語る。

「既存のルールを壊し、新しいルールを作り出していくこと。それによって、多くの人に、別のやり方が可能だと気づいてもらうこと。それこそが、わたしたちの目指していることです」

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