なぜ彼女たちは「悪魔とのダンス」を踊り続けるのか。プッシー・ライオットの個展が突きつける鋭すぎる問い

カナダモントリオール現代美術館で、プッシー・ライオットによる個展「Velvet Terrorism: Pussy Riot’s Russia(ヴェルヴェット・テロリズム:プッシー・ライオットのロシア)」が2024年3月10日まで開催されている。プッシー・ライオットが美術館で大規模な個展を開催するのはこれが初めてだ。本展に見る彼女たちの反体制活動の本質や課題について、美術評論家・美術史家のバリー・シュワブスキーが考察する。

モントリオール現代美術館で開催中の展覧会、「Velvet Terrorism: Pussy Riot’s Russia」の展示風景。Photo: Paul Litherland

彼女たちの活動はアクティビズムなのか?

「パンク・ロック・バンド」あるいは「パフォーマンス・アート集団」と紹介されることが多いプッシー・ライオット。しかし、モントリオール現代美術館の展覧会においては、パワフルな混沌を感じさせる見事な展示デザインを除いて、音楽性や洗練されたビジュアルはほとんど感じられなかった。そんなことは、彼女たちにとって大した問題ではないのだろう。

Velvet Terrorism: Pussy Riot’s Russia」展は、レイキャビクのクリング&バングを皮切りに、コペンハーゲン郊外のルイジアナ美術館やモントリオール現代美術館のほか、ミュンヘンのハウス・デア・クンスト、バンクーバーのポリゴン・ギャラリーを巡回する。

さまざまなメディアを使った彩り豊かな展示が並ぶ回顧展のような本展だが、重きが置かれているのは繊細な表現や曖昧な仄めかしではない。それがよく表れているのが、入り口付近に設置された映像だ。そこにはスキーマスクをかぶったプッシー・ライオットのメンバーたちがロシア大統領の肖像画に小便をかける様子が映し出されている。

彼女たちの主張がこれでも伝わらないと言うなら、初期の活動のひとつである『Fuck You, Fucking Sexists and Fucking Putinists(ファック・ユー、性差別主義者ども、プーチン支持者ども)』(2011)のタイトルを見ればさすがにわかるだろう。これは、「モスクワのブティック、ファッションショー、高級車、クレムリンと繋がりのあるバーの屋上など、裕福なプーチン支持者が集まる場所」といった「首都の華やかなスポットを占拠してライブをする」活動だった。

プッシー・ライオットの曲を純粋に音楽として、そのアクションや映像をアートとして楽しめるかどうかは人それぞれだ。だが、彼女たちを分類するための3つ目のカテゴリーがアクティビズムであることに異を唱えるのは難しい。

とはいえ、「Velvet Terrorism」展をじっくりと見た後には、それすらもよく分からなくなる。彼女たちの活動をアクティビズムと捉えるのは適切なのだろうか? 私の理解では、アクティビズムとは、それ自体を目的とした行為ではなく、何らかの明確な社会的・政治的目標を達成し、世界、あるいは少なくとも自分の国やコミュニティを変えるために行われるものだ。

プッシー・ライオット《Punk Prayer》(2012) Photo: Mitya Aleshkovsky

「悪魔とのダンス」を踊り続ける理由

プッシー・ライオットのやってきたことは、果たして社会を変えることなのだろうか? 展覧会の図録では、彼女たちのアクションを、「ロケーション」「コンテクスト」「リアクション」という3つの項目に分け、それぞれに詳細が記されている。そのうち、「リアクション」の項目で目立つのは、「重大なことは何も起こらなかった」という記述だ。

しかし、何か重大なことが起こったときには、たいていの場合、法的処罰を伴う。例えば、「全員が3回拘束される。殴打、嫌がらせ、監視、車のタイヤが切り裂かれる」とか、「拘留、警察署で1日を過ごす」という記録がある。また、そこにリストアップされているアクションには、プッシー・ライオットが企画・実行したものだけでなく、メンバーが当局から課せられたものも含まれている。例えば、「140時間の社会奉仕活動(2018-19)」、「ピョートルが毒を盛られる(2018)」(メンバーの1人、ピョートル・ベルジロフが中毒症状で倒れた事件)などだ。

モントリオール現代美術館館長のジョン・ゼペテリが書いているように、プッシー・ライオットは「警察国家の抑圧と権威主義の装置を創造的なパートナーとして利用し、危うい『悪魔とのダンス』を踊っている」と言える。しかし、これは非常に危険な行為だ。実際、メンバーたちは罰金を課せられたり超法規的暴力に晒されたりするだけでなく、何度も禁錮刑に服している。良心のかけらもない残忍な政権の怒りを買い続けるには、信じられないほどの勇気が必要だ。

彼女たちのアクションは、図録に書かれているように「必死で、突発的、そして祝祭的」かもしれないが、その祝祭は希望からは非常に遠いものに思える。プッシー・ライオットはロシアを変えられると本気で思っているのだろうか? 少なくとも一部の人々の考えなら変えられると思っているのだろうか? そうは見えない。彼女たちは自分たちのためにやっているのだ。政府、教会、オリガルヒなどの神経を逆撫することそれ自体が、彼女たちにとっての報酬と言えるのではないだろうか。

モントリオール現代美術館で開催中の展覧会「Velvet Terrorism: Pussy Riot’s Russia」の展示風景。Photo: Paul Litherland

反骨精神の美学を貫けるか

殴打や投獄の憂き目に遭い、国を追われる身に陥るほど、ロシアの支配者たちを苛立たせる行為は価値あることなのだろうか? 答えは「イエス」なのだろう。彼女たちにとって、それは内面の自由を確保する方法なのだ。だからこそ、プッシー・ライオットの作品は美術館にふさわしい。

それはアクティビズムとしてのパフォーマンス・アートではない。むしろ、真のアクティビスト的介入が不可能な状況における、アクティビズムのパフォーマンスのようなものだ。ロシア社会に目に見える変化をもたらせるという現実的な見通しが一切立たないにもかかわらず、このグループのメンバーたちは10年以上にわたって活動を続けてきた。そのこと自体が、変化を求める彼女たちの抑えがたい欲求をはっきりと表している。

そして、その欲求を満たす手段がないにもかかわらず、彼女たちは変化を諦めていない。これがプッシー・ライオットの芸術的核心だ。彼女たちは反骨精神それ自体を美学とする。その美学は、私たちの心を揺さぶるだけでなく、重大な結果をもたらす可能性を秘めている。

プッシー・ライオットのメンバーの多くがロシア国外に移住した今、この反骨精神が今後どのように表現されるのか気になるところだ。移住先の国でも体制批判をするだろうか? ぜひそうしてほしいものだ。

展覧会ではその一例として、ニューヨークで行われたアクションが紹介されている。それは、2014年のロシアによるクリミア侵攻時に逮捕されたウクライナ人映画監督オレフ・センツォフを支持する横断幕を、トランプタワーに掲げた2017年の記録だ。このアクションは確かに波紋を呼んだ。しかし、プッシー・ライオットの親ウクライナ/反プーチンの訴えは、西側に住む大半の人間の耳には心地よく響く。それは、ノーリスクで消費できるメッセージなのだ。

放っておくとエンタテインメントに変質しがちな反骨精神を、そのまま保ち続けるのは難しい。この問題はおそらく、対決姿勢を面白おかしくハイテンションに演出するというプッシー・ライオットの戦略に以前から内在していたものだ。ある意味その戦略は、混乱したプーチンのロシアに似ているとも言える。プーチンは、法や選挙、さらには(反ウクライナのプロパガンダで使われた)反ファシズムという「パフォーマンス」を利用して支配を続けているからだ。

プッシー・ライオットの今後の課題は、内面の自由をより深く掘り下げていくことにあるだろう。それなしにはプーチンへの反対運動は起こりえなかったし、ますます独裁政治へと傾斜している今の西側諸国でも、より切実に必要とされているからだ。(翻訳:野澤朋代)

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