日本人であり、日本人ではない。二律背反するアイデンティティが生んだアート【アーティストは語る Vol. 6 松山智一】

いまを生きる日本のアーティストたちの声を届ける連載の第6回は、松山智一。スノーボードのプロとしての道に挑戦する中で、怪我により挫折した松山は、ニューヨークで現代美術作品に出合い、独学で学んだ異色の経歴を持つ。日本の美術館では初となる個展を開催するため一時帰国した松山に、代表作が生まれたきっかけ、そして近作について聞いた。

アメリカ人でも、日本人でもない自分の断片を寄せ集める

──松山さんの代表作、「Fictional Landscape」シリーズでは、欧米的なデザインの壁紙、日本画で表現されるような雪、中国の文様など、古今東西のデザインやモチーフが共存しています。

僕がニューヨークに渡ってからのおよそ20年が、このシリーズに反映されていると言えます。渡米したのは2002年1月、9.11テロの直後で、人種間の衝突が激しい時期でした。それぞれのコミュニティが持つ文化の色が濃厚な環境で暮らしていると、おのずと自分は何者かというのを考えるようになりました。アメリカの中で、アジア人、マイノリティとしての自分を認識したんです。

一方で、僕は20年という人生の半分以上をアメリカで暮らしてきたので、日本人という感覚が希薄になる場面も多くあります。日本人であることを強く意識させられながら、自分では日本人という感覚がない。そんな二律背反するアイデンティティと向き合い、自分が何者なのかを考える中で、「Fictional Landscape」が生まれました。

──松山さんという人物を物語る要素が、このシリーズには多数散りばめられているということですか?

最初は実験的に、アメリカのファッション誌の切り抜きや、日本の古画のモチーフなど、様々なものを引用しながら制作し始めました。そのうち、引用する要素が増えるほど、作品に対する周囲のリアクションが大きくなっていくことに気づいたんです。なぜだろうと考えると、僕の作品は僕自身を表現しているけれど、鑑賞者である「彼ら」自身もそこには投影されていて、皆、それに反応しているんだ、ということがわかりました。鑑賞者は、自分のパーソナルな物語を僕の作品に重ねるので、予想もしないような感想が返ってくる。自分の作品がその人の鏡になっているんです。これだ! と思いました。僕はニューヨークで、自分が何者なのかわからなくなったときに「他者を見ることで自分を知りたい」と感じた経験があるのですが、それは多くの人にとって共通言語だったのです。

「Fictional Landscape」シリーズより《Hello Open Arms》2023年

新しく生まれた情報と、残されてきた情報の接点

──おもにどのような方法でモチーフの情報を得ているのですか?

ニューススタンドにはよく行きます。デジタル化が加速する前の2000年代初頭からニューススタンドに通い始めたのですが、そこには何百冊という雑誌が並んでいて、まさに情報の宝庫でした。そこで買った雑誌から気になる情報をクリッピングすることが、モチーフの重要な素材になっています。

あとは、妻の実家がある京都に15代続く書店があって、そこにも機会があると足を運びます。例えば、日本の寺院で使われている文様や図柄の見本帳や、北斎漫画のような当時の生活が描かれたデッサンなど、アーカイブ化されていない、本だけに残された情報がたくさんあるんです。そうしたものと、ニューススタンドで見つけた新しく生まれては消えていく情報の中に、接点が見えてくる時がある。それを作品化していくのは面白い作業です。

──日本のブックオフにも注目されているそうですね。

ブックオフは確実に消えていく情報の最後の砦であり、1番面白い情報を見つけられる場所だと思っています。何十年も大事にしまわれていたような状態の良い図鑑が全巻揃っているのを見つけたときには、ニューヨークへの送料を顧みず、全部買ってしまいます(笑)。あるいは、アートの本の隣の棚に、まったく別のジャンルの本が並べられていたりする。例えばDJがアメリカの田舎町まで行って廃番になったレコードを探し出して再生させるのと一緒で、ブックオフは僕にとって、情報を再生させる源なんです。

──2019年のニューヨーク・バワリーミューラルの壁画を制作した時の映像を見ましたが、道行く人たちが松山さんの作品のディテールの細かさに驚いていました。伊藤若冲など、日本の細密画法の画家を意識されていますか?

日本人だから細部にこだわって職人的に作ろう、という意識はありません。ただ、単純に何事においても追求することが僕のDNAの中に組みこまれてると、ある時に気が付きました。と同時に、ニューヨークのポップアートや抽象絵画のスケール感、身体性にも非常に影響を受けていて、そういう細密さとスケール感を掛け合わた巨大壁画を描いたらどんな作品ができるだろうと挑戦したところ、アート界の人たちからは「クレイジー」と面白がってもらえた。制作過程でもちろん困難はありましたが、最終的に完成した作品を眺めていると、自分の求める作品の強度にたどり着けていると実感します。

2019年、バワリーミューラルに描かれた松山智一作品

パブリックアートは「今」をモニュメント化する

──日本では、2020年のJR新宿東口駅前広場が記憶に新しいですが、松山さんがパブリックアートの制作に注力している理由は?

アート界には様々な立場やルールがあって、一筋縄では行かない部分があります。一方で、パブリックアートの制作は、より多くの人々が共有する歴史の1ページに自分を残せる仕事だと思っています。僕たちアーティストは、過去、現在、未来をつなげる仕事であるとも言えると思いますが、僕は特に「今」という感覚が強い。パブリックアートも、人々がそこを偶然通りかかって作品を見る、今この時でないと機能しませんし、今という時代を結晶のようにモニュメント化しているように思えます。そういった意味でも、僕にとってとてもかけがえのない機会ですし、そもそも僕のキャリアは、ギャラリーで発表することができず、仕方なく、建物の持ち主に頼んで壁に絵を描かせてもらったところから始まりました。パブリックアートは原点とも言えるんです。

新宿駅東口に設置された《花尾》(2020)

──ニューヨークでは、どんなふうにパブリックアートが受け入れられていますか? 都市の中で、どんな役割を担っているのでしょうか。

ニューヨークでは建物のオーナーが頻繁に変わるため、恒久的にパブリックアートを設置できる場所は限られています。その代わり、数カ月や1年という限られた期間で作品を展示するスポットが多いんです。例えばロックフェラーセンターは毎年選ばれたアーティストが10メートル単位の巨大な作品を展示しますし、タイムズスクエアでは、毎晩23時57分から24時までの3分間、92以上のモニターが全部アート作品になる「Midnight Moment」が行われています。歌舞伎町ではなかなか考えられないですよね。ニューヨークはパブリックアートにおいて、非常にエネルギッシュで、強い言語があるところが僕は好きです。

──松山さんはニューヨークにスタジオ「MATSUYAMA STUDIO」を構えていらっしゃいます。スタッフは日本からの若者がほとんどだそうですが、そこには教育的な意図もあるのでしょうか?

スタジオは、アシスタントチームを作って会社化するという形式を取っていて、スタッフのビザ所得のサポートもします。現在スタッフは30人いて、うち制作は12人。美大卒もいますが、経歴にこだわりなく受け入れているので、本当に多様な人たちが集まっています。僕自身は、100年残る作品を生み出せるか、歴史のふるいにかけられても残る作品を制作できるか、ということを考えて作品制作をしているので、そのために何をすれば良いか、どうすればスタジオ全体のモチベーションが上がって良いチームになるかを何よりも重要視しています。

悩み、自分と向き合ったコロナ禍の数年間を振り返る

──弘前れんが倉庫美術館で開催中の展覧会「松山智一展:雪月花のとき」は、日本の美術館では初となる松山さんの個展です。

ニューヨークでは、常に自分の肌の色について考えさせられますし、闘わないといけない場面が多くあります。ですが、僕は日本人であることに誇りを持っていますし、日本の美術の要素を作品の言語の中にも組み入れています。

「松山智一展:雪月花のとき」(弘前れんが倉庫美術館での会場風景) Photo: Osamu Sakamoto

いつかは母国である日本の美術館でも作品を発表したいとも考えていた中で、弘前れんが倉庫美術館での個展が決まり、嬉しかったのはもちろんのこと、ようやく日本で大規模な展覧会ができるという安堵感もありました。青森には青森5館と言われている5つの美術館とアートセンターがあり、海外の方からも青森の美術館の話をよく聞きます。美術館が元シードル工場という個性がある歴史にも惹かれました。ローカルカルチャーの強い美術館だからこそ、グローバルな発信をすることで、ここにしかない引力を生み出せるのではないかと思っています。

──どのような作品が展示されますか。

僕にとって創作の転換点となったコロナ禍を前後した4年間に制作した作品を中心に、30点ほど展示しています。コロナ禍のリアリティをどう作品にするのか、日常的なものをどう作品として昇華するのか。そんなことを考えていたら、結果的に、芸術の重要性を問うというよりも、私たち自身を問うような作品作りにモチベーションが向かうようになりました。

「松山智一展:雪月花のとき」(弘前れんが倉庫美術館での会場風景)奥の作品が《Cluster 2020》(2020)。 Photo: Osamu Sakamoto

《Cluster 2020》(2020)は、まさにロックダウン中の終わりの見えない絶望的な状況で生まれた作品です。僕自身、作品を制作できないという状況に苦しみを感じていましたし、同時に、スタッフのメンタルも心配でした。そこで、病気の治癒を願って作られる日本の千羽鶴を自分の表現として、当時の制約のある状況下でどのように具現化できるかを考えました。スタッフが自宅で制作できるサイズのカンバスを送り、それぞれに描いてもらった33点を組み合わせています。

「松山智一展:雪月花のとき」(弘前れんが倉庫美術館での会場風景) Photo: Osamu Sakamoto

一方、《Broken Train Pick Me》(2020)は、原点に立ち返ってすべて1人で描き上げた作品です。多様な文化から引用されたモチーフが同居していますが、世界の文化や価値観はグラデーションでつながっていることを表現しています。ほかにも6メートルの大きな彫刻も展示しますので、日本ではなかなか見られない大スケールの展示になったと思います。明日への希望を、と言うと楽観的に聞こえるかもしれませんが、それでもやはり、僕の作品を通して前向きな気持ちを持ってもらえたら嬉しいですね。

Photo: TOHRU YUASA


松山智一展:雪月花のとき
会期:10月27日(金)~ 2024年3月17日(日)
会場:弘前れんが倉庫美術館(青森県弘前市吉野町2-1)
時間:9:00 ~ 17:00(入場は30分前まで)


松山智一(まつやま・ともかず)
1976年岐阜県生まれ、ブルックリン在住。アジアとヨーロッパ、古代と現代、具象と抽象といった異なる要素を有機的に結びつけて再構築し、異文化間での自身の経験や情報化の中で移ろう現代社会の姿を反映した作品を制作。パブリックプロジェクトに、バワリーミューラルでの壁画制作(ニューヨーク/米国、2019年)や、《花尾》(新宿東口駅前広場、東京、2020年)、《Wheels of Fortune》(「神宮の社芸術祝祭」明治神宮、東京、2020年)など。近年の主な個展に、「Accountable Nature」龍美術館(上海/中国、2020年|重慶/中国、2021年)などがある。

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