「世界で最も有名なAIアート」から考える、データと人間性、そしてアート

ニューヨーク近代美術館(MoMA)でエド・ルシェの大回顧展が話題となっているが、もうひとつ注目を集めている作品がある。レフィク・アナドルが制作したデジタル・アート《Unsupervised》だ。MoMAのコレクションデータを解析し、リアルタイムで展開する本作を起点に、いま新たな局面を迎えた「データ」と「アート」の関係について考察する。

ニューヨーク近代美術館ガンド・ロビーに展示中のレフィク・アナドル《Unsupervised》(2023年10月29日まで)。Photo: The Museum of Modern Art, New York. Robert Gerhardt

産業の発展を芸術的に探求したアーティストたち

石炭の時代が頂点に達した19世紀、芸術家たちは石炭がもたらした新世界のさまざまな側面を探求し始め、この資源が持つ多くの可能性とリスクについて表現しようとした。ウィリアム・ターナーのようなロマン派の画家たちは、《Keelmen Heaving in Coals by Moonlight》(1835年)のような作品でぞっとするような詩情を視覚化し、モネなどの印象派は、石炭によって生み出される、渦巻く蒸気と煙の美しさを綿密に研究した。今から振り返れば、こうした芸術的な探究は、近代の黎明期における急速な工業化への不安と希望を反映していたことが分かる。

今日、私たちはデータの時代という新たな局面を迎えている。データは石炭と同じく、産業を駆動し、経済力と軍事力の基盤となる。それは採掘(マイニング)され、合成され、時には盗まれることもある資源だ。そのように大きな重要性を持つ一方で、データは非常にあいまいな存在でもある。それは目に見えないが、リアルでもある。世界を表象するものであると同時に、世界を捉えようとする行為そのものによって世界を形成するものでもある。それを人間の創造力の極みだと考える者がいる一方で、単なる監視と搾取のメカニズムだと見なす者もいる。

私たちを取りまきつつあるサイバネティックス的(*1)現実に向き合っている現代アーティストにとってデータが魅力的な題材になっている理由は、まさにこのあいまいさにある。彼らの探究の成果を見るのにニューヨーク近代美術館(MoMA)ほど適した場所はない。そこで開催されている一連の展覧会では、彼らがどのようにデータにアプローチし、その偏在性や複雑な力学、そして緊張関係を理解しているかを確認できる。


*1 アメリカの数学者ノーバート・ウィーナーが1948年の著書の中で提唱した概念。生体と機械における通信と制御の問題を統一的に扱うため、システム工学、機械工学、生理学などを横断する学際的な研究。

レフィク・アナドルの「世界で最も有名なAIアート」

最近、10月29日まで展示期間が延長されたレフィク・アナドルの《Unsupervised》は、1年近く同美術館のガンド・ロビーで威容を誇っている。ニューヨーカー誌が「極めて一般受けがいい」と評したアナドルの作品は、アート作品としては前例がないほどインターネット上で拡散され、おそらく世界で最も有名なAIアートの1つとなった。MoMAの膨大なコレクションの公開データを使って訓練され、天候や光、音といった場所特有の変数に反応して刻々と姿を変える《Unsupervised》は、マシンインテリジェンス(*2)の「心」を視覚的・音響的な形で表そうとする試みだ。

「MoMAのコレクションを見た機械は、どんな夢を見るのか」

同館のウェブサイトの作品紹介ページには、そう書かれている。アナドルの作品はドラマチックな色彩と音でその問いかけに応え、鑑賞者の前で絶えずうごめき、うねっている。イメージは、あたかも止まることのない機械の意識の流れのように刻々と変化する。


*2 機械学習によって作られた知能

この作品が人気を博すのは、さまざまな意味で当然だといえる。《Unsupervised》は、現在私たちを取り囲むテクノロジー環境にオーダーメイドのようにぴったりとはまっているからだ。昨年は、ダリ(DALL-E)やチャットGPT(ChatGPT)、ミッドジャーニー(Midjourney)などの生成AIが、ビッグデータの潜在力をめぐるいくつもの不安と希望に火をつけた。かつて人間にしかできないと考えられていたことをAIが次々と成し遂げていくにつれ、先端技術の信奉者たちはそれらが持つ無限に近い可能性について熱く語り始めた。一部のテクノロジー愛好家によれば、私たちはいま、「、あるいは悪魔の到来」を目撃しているのだという。

人智を超えるマシンインテリジェンスについての劇的なビジョンを提示することで、アナドルは、鑑賞者の感嘆と恐れが入り混じった心情に働きかける。その壮大なスケールと抽象的なビジュアルはマシンインテリジェンスを、人間をしのぐ技術的崇高、私たちの理解を超えた神のような知性として位置づけている。ベン・デイヴィスが2023年1月にArtnetのレビューで書いているように、この作品の背後にあるのは「機械の超人的な視覚分析能力への漠然とした畏怖の念」であり、AIを理解不能な超越的他者として捉えるビジョンだ。

人種問題や死さえもデータ化によって平坦化される

このようなAIの偶像化は、長い目で見れば私たちを誤った方向に導くのではないか。《Unsupervised》の抽象的な美学は、このテクノロジーを理解可能な人間世界の領域から切り離している。これらの機械が、複雑に絡み合ったリアルな方法で私たちを取り巻く世界によって形作られ、さらには私たちを取り巻く世界を形作っている事実を曖昧にしてしまう。作家のR・H・ロッシンが3月にe-fluxで批判的に論じたように、《Unsupervised》の「スペクタクル的」な表象は、軍事領域で多用され、「環境に深刻な打撃を与える」監視技術を「目を楽しませ、心地よいとさえ言えるもの」に変えてしまう。そして、人種問題や体制批判、死といった現実的な主題を持つ作品を含む最もラディカルな素材さえも、データとして組み込まれる過程で平坦化され、ほとばしる色彩や、歴史や政治性を欠いた単なる形へと還元させてしまう。

「漠然とした畏怖の念」を利用するアナドルの作品は、超形式主義的な抽象化を優先させることで、司法制度から医療に至るまであらゆる分野で使われているデータに関する現実の利害関係から私たちの目をそらさせる。それを見た私たちは、ただ無邪気に技術の力に感嘆するだけで終わってしまう。結果として、彼は有害な観衆的受動性を生み出し、私たちがこの完全に異質な機械と深い対話をすることを妨げている。《Unsupervised》は、こうしたテクノロジーとの新たな関わり方や理解を私たちに促す代わりに、機械の世界と私たちの世界との間に実際には存在しない隔たりを強調し、このテクノロジーを謎のベールに包んでしまうのだ。

「Refik Anadol: Unsupervised」(展示期間:2022年11月19日〜2023年10月29日)の展示風景。Photo: The Museum of Modern Art, New York. Denis Doorly

一方でMoMAのコレクションには、《Unsupervised》ほど知名度はないが、ほかにも先端テクノロジーを使った抽象的な作品がいくつかある。それらは、抽象的ではあるものの具体的な現実に根ざしている。

たとえば、現在開催中の「Systems」展で見られるケイト・クロフォードとヴラダン・ジョラーの《Anatomy of an AI System》もそうだ。この作品は、1台のスマートスピーカー(アマゾン・エコー)に使われている膨大な情報と資本のネットワークを可視化している。《Unsupervised》がマシンインテリジェンスを不可解な他者として提示しているのに対し、《Anatomy of an AI System》はそのベールを剥がし、その具体的で物質的な基盤(AIを可能にしている個々の技術的要素や、それらを製造したり組立てたりしている人々、そしてデジタル・エコシステムの中にそれがどう組み入れられているのかなど)をむき出しにする。この作品はAIを私たちの現実の外側にあるものとして見せる代わりに、AIが依存し、存在の前提としている経済的、環境的、社会的関係の複雑な網の目を浮き彫りにする。

データは肉感的で血が通うもの?

こうしたフィジカルな重層性については、MoMAでこの春開催されたコレクション展「Search Engines」で紹介されたワンゲチ・ムトゥの「Eve」シリーズでも探求されている。MoMAの解説によるとこの作品は、この有名な(または悪名高い)人物の名前をインターネットで検索した時に出てきた「シュールな結果」を具現化したものだという。ムトゥの作品には、冷たい金属とサイバネティック・ネットワークだけでなく、テクノロジーと自然の区別をあいまいにする有機的な要素や肉感的なフォルムが多用されている。彼女の作品は、データが冷たく、不毛で、超越的な領域に存在するという考えを退ける。そうではなく、データというのは肉感的で、体に内包された、血が通ったものだということを明らかにする。データは、私たちの身体から生まれ、そして、身体に対する私たちの理解を根本的に形作るものなのだ。この点で、ムトゥのキメラ的な作品は、ダナ・ハラウェイのようなフェミニズム理論の研究者の著作と通じるものがある。彼女をはじめとする研究者たちは長い間、テクノロジーに関する問題は、私たちがどのように他者と関わり、尊重すべき属性や存在をどのように判断しているのかという、「世界にいる人やその他の存在」の問題と表裏一体であると主張してきた。

同じく「Search Engines」展に展示されたジョージア・ルピとステファニー・ポサヴェックによる往復書簡「Dear Data」シリーズでは、関係性におけるデータの可能性が中心的テーマとなっている。データに関する作品の多くが、その規模やテーマにおいて壮大なものになりがちなのに対し、「Dear Data」の作品は小規模かつ個人的だ。このシリーズは、2人のアーティストたちが1年間にわたり週に1度相手に送る絵葉書で構成されている。それぞれのハガキでは、手描きの「データ・ドローイング」という形で、1週間を通しての自分の生活のある側面(飲んだお酒や、知らない人に微笑みかけた時間など)に関するデータが集計され、視覚化されている。《Unsupervised》のような無機質な作品とは対照的に、これらのデータからなるポートレートは非常に親密だ。それは手を使って丁寧に書かれ、郵便システムを介して相手に送られたものだからだと言える。ルピとポサヴェックは、この作品を通してデータ利用に対する私たちの思い込みを覆し、それが監視のためのメカニズムではなく、関係を育むツールになり得ると示した。

《Unsupervised》ほど注目されていないかもしれないが、これらの作品は(美術館に展示されている他の多くの作品と同様)、盲目的な信仰でも、受動的な畏怖でもない、データとのもう1つの関わり方を提示している。一見、非物質的だと感じられるテクノロジーの背後にある物質的基盤を明らかにしたり、身体に対する私たちの理解をデータがいかに形作っているかを示したり、親密な関係性の構築に「小さな」データが有効に働くかもしれないことを提示したりすることで、これらのアーティストたちは、データというものが複雑に絡み合う人間世界から切り離された抽象的な真実ではないということを私たちに改めて思い起こさせる。データは人間世界から生まれ、それを形作り、究極的にはそれによって形作られるものなのだ。

世界とデータの深い関わりを理解し、認識することによってのみ、私たちはデータ利用に伴う大きなリスクを避けながら、それを最大限に活用できるようになる。データが経済的、社会的、政治的な領域でますます中心的な存在になりつつある今、私たちはその状況と向き合うために、これらのアーティストのように技術的な幻影を手触りがある実体に変換する必要がある。機械の中の亡霊を手懐ける望みは、それしかないのではないか。(翻訳:野澤朋代)

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