老舗専門誌が選ぶ2023年の考古学的大発見ベスト10。アステカ人の「宇宙の縮図」、50万年前の木造建築 etc.

ARTnewsでは世界各地の考古学的ニュースを伝えてきたが、世界にはまだ驚きの発見がある。アメリカの老舗考古学誌が選んだ、2023年の考古学的発見ベスト10をご紹介しよう。

ペルー・マチュピチュ、ラスロバルガ。2017年撮影。 Photo: Wikimedia Commons

アメリカ考古学協会発行のARCHAEOLOGY誌は、世界各地の考古学的発見のニュースなどの専門的な情報を70年に渡って伝えてきた。考古学のオーソリティとも言える同誌が選んだ2023年のエキサイティングな発見とはどのようなものだろうか。そのベスト10を見て行こう。

1. 聖なる温泉に埋められた雷神への供物(イタリア、サン・カッシャーノ・デイ・バニ)

イタリア・サン・カッシャーノ・デイ・バニ遠景。Photo: Wikimedia Commons

イタリア・サン・カッシャーノ・デイ・バニには古来から温泉が湧いており、湯治場、バーニョ・グランデは何世紀もの間、エトルリア人とローマ人の双方にとって神聖な場所だった。そこに1世紀の初め、雷が落ちた。聖域の司祭たちは、エトルリア人とローマ人の両方の信仰に従って、雷神への供物として長年にわたって巡礼者たちが持ち寄った何百もの奉納物をテラコッタタイルの下に埋めた。この古代の儀式は、フルグル・コンディトゥム(埋葬された雷神)として知られ、その場所が特に神聖な場所であることを示すことを目的としていた。

シエナ外国人大学の考古学者ヤコポ・タボッリは、現在も湯治場として親しまれるバーニョ・グランデ付近を調査したところ、雷神への供物として埋められた男性、女性、子ども、神、そして個々の身体の部位のブロンズ像を見つけた。タボッリは、「1600年代から1700年代にかけての記録資料から、現在のバーニョ・グランデの近くに古代の温泉があったことは知っていました。しかし、それが聖域だったとは思いもよりませんでした」と発見の驚きを語った。見つかった遺物のうちのいくつかは、アポロ、アスクレピオス、ヒュゲイア、イシス、フォルトゥナ・プリミゲニアなどの健康と癒しに関連する神々に捧げられたものだという。

個々の遺物の発見と同じくらい重要だったのは、それらが密封された状態だったことだ。「泥から青銅器に至るまで、全ての要素を分析することで、遺跡の神聖な文脈と景観を解き明かすことができるという事実が、ここでの類まれな発見なのです。ローマ人とエトルリア人は、紀元前1000年初頭から紛争や和解を繰り返しながら交流していましたが、聖域では、異なるコミュニティや文化のアイデンティティが融合した、安全な空間であったことが分かりました」とタボッリは説明する。1世紀から5世紀にかけて、この場所は異教の崇拝者たちによって神聖視されていた。彼らは青銅貨、木、枝、果実などを中心とした多くの供物を捧げており、それらは後にキリスト教徒へと受け継がれた。

2. 工具を駆使した50万年前の大工たち(ザンビア、カランボ川)

ザンビアで発掘された、世界最古の木製建造物。 Photo: L. Barham and G. Duller

約50万年前の世界最古の木製建造物の発見は、学者たちがこれまで抱いてきた、古代の人々の能力への見解を根底から覆した。リバプール大学の考古学者ラリー・バーハムが率いるチームは、ザンビアのカランボ川の堤防の下から、意図的に切り込みを入れられ連結された一対の丸太を発掘した。研究者たちは、この丸太は通路の一部か、湿地帯の遊歩道として使われていたのではないかと考えている。

47万6000年前の木製のくさび。Photo: L. Barham and G. Duller

これまで最古の木製建造物は、イングランド北部で約1万1000年前に作られたものとされてきたが、今回発見された丸太の構造物は47万6千年前のものだと分かった。丸太を切り、加工した大工たちは、現在の人類にあたる現生人類が出現する15万年以上も前の、古人類ホモ・ハイデルベルゲンシスである可能性が高い。古人類学者は、ホモ・ハイデルベルゲンシスは高い機動性を持っており、移住生活を送っていたと考えていた。それゆえ、ホモ・ハイデルベルゲンシスが半永久的な建造物の建設に労力を費やしたというのは驚きの発見なのだ。ラリー・バーハムは、「古代の人類が、これほど大規模に環境を変化させているのを見たのは初めてです。この発見は、人々が定住し、地域を開発していたことを示唆しています」と語った。

同遺跡からは、39万年前から32万4000年前の石斧と4つの木製の道具に加え、掘り棒、くさび形の物体、切り欠きのある枝や切り出された丸太も見つかった。丸太に刻まれた跡は、作業台として使われた際の工具の跡にしか見えないとバーハムは指摘する。創造性豊かなホモ・ハイデルベルゲンシスの職人たちは、この場所で他にどのような構造物を作ったのだろうか。想像は尽きない。

3. ローマ兵士の剣が眠る洞窟(イスラエル、アイン・ゲディ)

アイン・ゲディ。2015年撮影。Phoro: Wikimedia Commons

死海のほとりにある古代集落アイン・ゲディの近くにある洞窟で、イスラエル考古局の学者たちが、保存状態が極めて良好な4本の鉄剣を発見した。洞窟は人里離れた崖の上にあり、洞窟にたどり着くだけでも一苦労。さらに、剣は洞窟の奥深くの狭い隙間に隠されていた。剣のうち3本は全長43~63センチの「スパタ」と呼ばれる長剣で、ローマ軍の騎兵や歩兵が主要な武器として使用していた。

なぜ剣が洞窟に隠されていたのかは不明だが、入り口付近で発見された青銅貨が手がかりになるかもしれない。「エルサレムの自由のために」と刻まれた青銅貨は134年か135年のものと推測され、これはユダヤ人がローマの支配に反旗を翻したバル・コクバの反乱の時期と一致する。研究者たちは、地元の反乱軍がローマ兵から剣を奪い、自軍で使用するために隠したのではないかと考えている。

4. 悲劇の王が捧げた祈り(スーダン、オールド・ドンゴラ)

オールド・ドンゴラで発見されたダビデ王の壁画。Photo: Magdalena Skarżyńska(Polish Centre of Mediterranean Archaeology University of Warsaw

ワルシャワ大学のポーランド地中海考古学センターの研究チームは、中世ヌビア王国マキュリア(400-1400年頃)の首都であったオールド・ドンゴラにある16世紀の邸宅を調査中、床下に複数の部屋が連なった不可解な場所を発見した。そのうちの1つの部屋の壁には、高さ約2メートル70センチ、幅約90センチのアーチ型の空間があり、13世紀のものと思われるいくつかの壁画があった。そのうちの1点は聖母マリアが描かれており、もう1枚には、大天使ミカエルがヌビア王国のダビデ王を抱きかかえて雲の上に座っているイエスの前に差し出し、王はキスをするかのように手を差し伸べる場面が描かれている。研究チームのリーダー、アルトゥール・オブフスキは、「ビザンチン・キリスト教美術では、一般的に人間と不死の存在との交流や接触はあまり描かれません」と説明する。

オールド・ドンゴラで発見された聖母マリア像の壁画。Photo: Magdalena Skarżyńska(Polish Centre of Mediterranean Archaeology University of Warsaw

ではなぜそのような絵を描いたのだろうか。研究者たちは、この絵画がヌビア王国の歴史における悲しい場面に関係していると考えている。絵画に添えられているヌビア語の碑文には、ダビデという名の王に関する記述がいくつかあり、また、神に都市を守ってほしいという願いも記されていた。13世紀後半、ヌビア王のダビデは、エジプトのマムルーク朝スルタンへ攻撃を開始。この作戦は当初は成功を収めたが、1276年、マムルーク朝は強硬に反撃し、首都ドンゴラに進攻してきた。「この壁画と碑文は、マムルーク軍が近づいてきたときに祈り、神に呼びかけたものだと私は考えています。王は愛する都市、ドンゴラを守ってくれるよう神に祈っていたのです」とオブフスキは推測する。その後、マムルーク軍はドンゴラを陥落させ、ダビデ王は捕らえられて処刑された。

5. アステカ人の「宇宙の縮図」の櫃(メキシコ、メキシコ・シティ)

テンプロ・マヨール。2013年撮影。Phoro: Wikimedia Commons

メキシコ国立人類学歴史研究所の考古学者レオナルド・ロペス・ルハンは、アステカの首都テノチティトランの中心にある巨大なピラミッドを含むテンプロ・マヨールは、まるでマトリョーシカのようだと言う。「ピラミッドを掘ると、もっと古くて小さいピラミッドが見つかるのです」。ロペス・ルハンと彼のチームは、テノチティトランの全13層のうちの9層目に、火山石でできた小さな櫃を発見した。その中には、蛇紋岩で作られた15体の人型の置物や、アステカの水と豊穣のシンボルである海砂、ガラガラヘビをかたどった一対の笏、数百個の緑の天然石のビーズ、貝殻、カタツムリ、珊瑚が収められていた。櫃が発見された層は、モクテスマ1世(在位1440-1469年)の治世で、神殿が最も大々的に拡張工事を行った1454年にあたる。しかし、置物は当時からさらに1000年前のもので、およそ320キロほど離れた土地からテノチティトランに運ばれてきたことが分かった。

この種の置物は、紀元前500年頃から680年頃まで、現在のメキシコ南西部ゲレロ州に居住していたメスカラ人によって製作されていた。アステカ族は、最も神聖な空間において、雨の神トラロックへの捧げ物としてこのオブジェを絵の具で装飾し、櫃の中に収めていた。ロペス・ルハンは今回の発見について、「テノチティトランはメソアメリカ社会の中心でした。メスカラの置物は、アステカでは過去からの魔法の遺物と考えられており、これらの供物の多くはコスモグラム、つまりアステカ人が考えた宇宙の縮図です。櫃とその中身は、テンプロ・マヨールによって再現された、トラロカンとして知られる神話の領域を象徴しており、そこでは雨の神が水と栄養を保っていたのです」と説明する。

6. 温暖化のシベリアで育まれた狩猟採集民の楽園(ロシア、ハンティマンシ自治管区)

シベリア・タイガの風景。Photo: Wikimedia Commons

紀元前6000年頃に新石器時代の狩猟採集民によってシベリア西部の針葉樹林(タイガ)に築かれた、世界最古の要塞が発見された。この地域の先住民族が柵、土手、溝で守られた城塞集落に住んでいたことは、考古学者たちには長い間知られていたが、それは紀元前1000年頃の初期鉄器時代以降だったと考えられてきた。そのような遺跡のひとつで1980年代に放射性炭素年代測定が行われ、この要塞が数千年前の新石器時代に建設されたことが示されたとき、研究者たちは「当時の狩猟採集民は、精巧な防衛施設を建設できるほどの技術を持っていたのだろうか?」と困惑した。ロシア科学アカデミー歴史考古学研究所の考古学者エカテリーナ・ドゥボフツェワは、「彼らは炭素年代測定の正確さを疑っていたのです」と振り返る。ドゥボフツェワとベルリン自由大学の考古学者ヘニー・ピエゾンカが率いるチームは、タイガの要塞化された20の集落跡に放射性炭素年代測定を改めて実施したところ、約8000年前、新石器時代の狩猟採集民によって建設されたことを確認した。

ドゥボフツェワは、新石器時代に地球は温暖化したため、タイガ地帯の人口が劇的に増加したと指摘する。「西シベリアの環境は、現在の私たちにはむしろ過酷で不親切に見えますが、狩猟採集民や漁民にとっては本当の楽園だったのです」と彼女は言う。要塞化した理由については、人口増加によって生じた緊張が一因だったかもしれない。ドゥボフツェワによると、中世や近世の文献や口承史には、西シベリアの先住民は、いつ隣国から攻撃されてもおかしくない状況であったため、要塞に住んでいたと記されているという。「おそらく、これら新石器時代の初期の集落は、そのような行動を起源としているのでしょう」と彼女は言う。

7. インカ帝国全域からマチュピチュへと集結した労働者(ペルー、マチュピチュ)

ペルー・マチュピチュ、ラスロバルガ。2017年撮影。 Photo: Wikimedia Commons

アンデス山麓、ウルバンバ渓谷の山の尾根にある古代遺跡マチュピチュは、インカ皇帝パチャクティ(在位1420-1472頃)が所有していた広大な王宮の一部として建設された。職人や宗教の専門家など熟練した技術を持つ家来たちが一年中この土地を管理し、皇帝とその側近はそこからおよそ72キロ離れた首都クスコに居住した。これまで、マチュピチュに住んだ人々がどこから来たのかは不明だった。1912年、探検家のハイラム・ビンガムは、宮殿の壁の外で100人以上の家来たちの墓を発掘した。その中からは、アマゾン地域の衣装やインカの衣装を着た人々が描かれた陶器のほか、地方のインカ様式と非インカ様式の両方で装飾された陶器が見つかった。

イェール大学の考古学者リチャード・バーガーとルーシー・サラザール、チューレーン大学の考古学者ジェイソン・ネスビット、カリフォルニア大学サンタクルーズ校の生物人類学者ラース・フェーレン・シュミッツが中心となり、家来34人の遺伝子を新たに調べた結果、マチュピチュの管理人たちは、最盛期には現在のエクアドル北部からアルゼンチン北部、チリの一部まで、南米西海岸に沿って広がっていた広大なインカ帝国のほぼ全ての地域から来ていたことが明らかになった。

研究者たちが特に驚いたのは、その3分の1が遠く離れたアマゾンの2つの異なる地域から来ていたことだ。リチャード・バーガーは、「このことは、学者たちがこれまで想像していなかったような方法で、アマゾンの一部がインカ帝国に完全に組み込まれていたことを示唆しています。アマゾンの人々は、インカと遠く離れた交易関係の辺境に住んでいたわけではなかったのです」と説明した。また、一組の母娘を除いて、家来たちには血縁関係はなかったことが分かった。フェーレン・シュミッツは、「これは、彼らが家族や共同体としてではなく、個々にマチュピチュへとやって来たことを示唆しています。男性の多くは高地から来ましたが、女性の大部分は低地や沿岸地域に先祖を持っていたようです。マチュピチュに住んでいる間に、人々は子どもを作り、新しい家族の絆を作り、民族的に多様なコミュニティを形成したのです」と推測する。

8. 流転の歴史を辿った、世界で最も古い本(エジプト、エル・ヒベ)

世界最初の本の一部と考えられているパピルス片。Photo: University of Graz

25×15センチのパピルス片。これは世界最初の本の一部であると研究者たちは考えている。この世界初の本は、図書館、家庭にある多くの本と同じように、もしくはそれ以上に多様な生涯を送った。パピルス片は1902年、エル・ヒベ遺跡で他の数百のパピルス片とともに発掘された。紀元前260年に、ビールと油の税率をギリシア文字で記した冊子として始まり、その後、製本から外されて手紙として送られた後、プトレマイオス朝時代(紀元前304-紀元30年)に鷹の頭を持つホルス神の息子などの絵が描かれ、そしてミイラの包みに再利用された。

パピルス片の裏面。Photo: University of Graz

グラーツ大学の保存修復家テレサ・ザミット・ルピが率いるチームは、顕微鏡とマルチスペクトル画像(複数の波長帯の電磁波を記録した画像)を使って、この本がどのように作られたかを解明した。「もともとは無地のパピルスを二つ折りにして、文字を書き、冊子にしていました。もう一つのパピルスには、現代のリングバインダーに似た、2つのものを結合するための柔軟な素材であるタケットが取り付けられていました」とザミット・ルピは説明する。冊子が分解された理由については、「会計士が本からパピルスを切り離して折って封をし、債権者か債務者に渡したのでしょう」と推測した。

この発見によって、製本の起源は何世紀も遡ることになる。ザミット・ルピは、「これまで知られていた最古の本は1、2世紀のものでしたから、これはそれよりも400年も前のものになります。この本によって、当時は取引がどのように行われたか、そして人々がどのように生活し、書き、情報を伝え合っていたかが分かるかもしれません。最も重要なのは、巻物とは対照的な本の構造が、私たちが考えるよりずっと前に存在していたのがわかったことです」と発見の喜びを語った。

9. 中国皇帝と共に葬られた400頭の動物たち(中国・西安)

西安にある文帝の息子、景帝の墓陵。中国の歴代皇帝は膨大な副葬品と共に葬られた。Photo: Wikimedia Commons

中国、前漢時代(紀元前206-紀元9年)の王墓周辺で、考古学者たちは、ヤク、トラ、カメ、クジャク、タンチョウ、シシバナザルなどを含む全41種類、400体以上の希少動物の遺骨を発掘した。ジャイアント・パンダとバクの完全な骨格が中国の墓から発見されたのは初めてだ。これらは生け贄として捧げられたものであり、そのうち何頭かは副葬品とともに埋葬されていた。

陝西省考古学院の考古学者フー・ソンメイは、「動物の生け贄の規模は、中国史上前例がありません」と言う。動物たちは、文帝(在位:紀元前180-157年)と、その母で紀元前155年に死去した薄太后の墓を含む王墓に、頭を向けて埋葬されていた。地位の象徴と、皇帝とその母親をあの世に送るために、動物たちは東南アジアから貢物として贈られたと考えられている。

10. ネロ皇帝も歌った!? 巨大劇場跡を発見(イタリア・ローマ)

ヴァチカン近郊で見つかった劇場跡。 Photo: Soprintendenza Speciale

歴代のローマ皇帝たちは、優れた軍事・外交能力を発揮したり、不朽の哲学書を著したりと、さまざまな才能を発揮した。ネロ皇帝(在位54-68年)は、歌が好きな皇帝として知られていたが、歌が上手かったという評判は一切残っていない。古代ローマ時代の著者によれば、ネロが歌を練習するために好んだ場所のひとつが、ヴァチカン近郊にある、ネロの母が所有していた豪華な別荘、アグリッピナの庭園の私設劇場だった。ローマの歴史家タキトゥスが、ネロが64年7月に起こったローマの大火を劇場から眺めていたと記したが、この建物のことを指していたのかもしれない。古代の劇場は大部分が解体され、ルネサンス期のローヴェレ宮殿の庭園で考古学者がその残骸を発掘するまで、正確な位置は不明となっていた。

壁にはフレスコ画が描かれていた。Photo: Soprintendenza Speciale

劇場跡からは、カベア(ギリシア・ローマ時代の劇場や円形劇場の客席)や、幅42メートルの半円形の個室のほか、入口と階段のある長方形のスペースが見つかった。傍らには、セットや衣装を保管するために使われていたと思われる建物もあった。どちらの建物も、ローマ帝国のユリウス・クラウディウス時代(紀元前27年-紀元68年)に作られたもので、使用されているレンガは、カリグラ帝(在位37-41年)とネロ帝時代のものだと判明した。

建築物の一部。漆喰に金箔が施されていた。Photo: Soprintendenza Speciale

劇場は様々な色の大理石の柱と金で装飾されており、ドムス・アウレア(黄金の家)の建設同様に、ネロが街中に行った自己満足的な建築キャンペーンの一環だったことが分かる。ローマ考古学監督局の考古学者マルツィア・ディ・メントは、今回の発見について、「古代ローマ時代の劇場跡の発見と、アグリッピナの庭園にレンガ造りの劇場が実際にあったことを確認できたという二重の意味があります」と、コメントした。

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