謎多きフリーダ・カーロの神話は解明されない──最新ドキュメンタリーを辛口レビュー
波瀾万丈の生涯を送ったメキシコ人作家フリーダ・カーロの新作ドキュメンタリー『フリーダ〜愛と痛みを生きた肖像〜』がカーラ・グティエレスの手によって制作された。2024年のサンダンス国際映画祭で大々的に上映された本作を、ARTNews US版の記者がレビューする。
カーラ・グティエレスが手がけたドキュメンタリー映画『フリーダ〜愛と痛みを生きた肖像〜』を観れば、フリーダ・カーロの生涯を余すことなく知ることができるかもしれない。1月18〜28日に開催されたサンダンス国際映画祭で大々的に上映されていた本作は、映画配給大手のAmazon MGM Studiosによって配給されている。これほど大がかりにお膳立てされているのであれば、史実がフィクションよりも奇妙に感じられる、著名なメキシコ人アーティストの生涯を見直すいい機会となるはずだ。
しかし、残念なことに本作には既知の事実しか描かれておらず、カーロの新たな側面を知れるような情報は盛り込まれていない。新たな要素があるとすれば、カーロの作品にキッチュなアニメーションが加えられたことだろうか。ウィキペディアを読む方が新しい発見があるかもしれない。
明かされていないカーロの「素顔」
『フリーダ〜愛と痛みを生きた肖像〜』を制作するにあたってグティエレスは、カーロの日記を読んでモノクロ写真をカラー化し、彼女がこれまで残してきたものを深掘りしていった。これは意義のある取り組みだと言える。というのも、1980年代に「フリーダ・マニア」が台頭して以来、私たちはアート界におけるカーロの真の重要性を見失っていたからだ。
ARTnews US版が過去にも記しているように、「無名のメキシコ人作家が誰もが知る女神」へと瞬く間に成り上がったことで、彼女のことを口にするだけで軽蔑のまなざしが送られるようになってしまったのだ。
「カーロの記事を書いていると同業者に伝えたところ、『その名前を聞くとなんだか寒気がしちゃう』と言われてしまった」
似たような寒気を覚えたことは個人的にもある。それは、カーロの作品を嫌っているからではなく、これほど複雑な過去をもつ作家に適切に向き合えている人の数が少ないからだ。
近年開催された展示もそれを示している。ボストン美術館で2016年に開催された展示「Making Modern」は、より批評的かつ歴史的な視点から、カーロが目にしてきたものに最も近づいた展示だと言える。だが、盛況に終わったこの展示でさえも、ボストン美術館が初めてカーロの作品を収蔵したことから開催されており、彼女に対する真剣な好奇心とは対照的な動機があった。
こういった展示にカーロの言葉が用いられることは少ない。だが、彼女が残した言葉を作中に用いていることは、『フリーダ〜愛と痛みを生きた肖像〜』を賞賛すべき数少ない要素だと言える。カーロ自身の言葉を用いることに価値はあるが、彼女が残してきたものを批評し分析する必要は依然としてある。
カーロの生涯には解明すべき点が多い。それは、彼女の複雑かつ、ときに意図的に不透明にされていた政治的活動のみならず、彼女は自らを神格化し、尋問を必要とするようなかたちで自身の生涯を誇張していたからだ。このドキュメンタリー映画に関して言えば、複数の専門家に話を聞けばそういった要素を簡単に明かせたのかもしれないが、グティエレスはそういった手段をとっていない。
事実を順に追っているだけ
カーロと彼女の作品を理解するためには、メキシコ革命後の生活という背景と並べて見なくてはならない。カーロはメキシコ革命が起きる3年前、1907年に生まれた。だが、あるときから生まれた年を1910年に変更し、革命と同時に誕生したことにしている。メキシコ新政府が芸術を通じて国のアイデンティティを築きあげることに執着していた当時(ダビッド・アルファロ・シケイロス、ホセ・クレメンテ・オロスコ、そしてカーロの夫となるディエゴ・リベラのメキシコ三大作家の作品を見れば一目瞭然だ)、カーロの出生年が変わったことは押さえておくべき要素だ。たとえカーロがリベラの妻や、シュルレアリスムの二流画家として生前に見下されていたとしても、彼女は新しいメキシコという大義に貢献していたのだ。こういった事実も映画には含まれていない。
『フリーダ〜愛と痛みを生きた肖像〜』が重きを置いているテーマは、カーロのファッションスタイルだ。医学の道を志し、ラ・カチュチャと呼ばれる友人グループ唯一の女性だった頃は、意図的に男性的な服装をしていた。1928年にリベラと出会ったカーロは、自身が描いた4つの絵画を彼に見せる。そして、カーロに心を奪われたリベラは、すぐに彼女を壁画に描いた。
その翌年に二人は結婚。その頃からカーロはより女性的な服を身につけるようになり、サポテコ族が着用していたテュアナと呼ばれるドレスを普段着として使っていたという。ドキュメンタリーの後半では、カーロがバイセクシュアルであることをリベラは受け入れたことが明かされる。そして、彼女の代表作であり、男装をしたカーロが描かれている《Self-Portrait with Cropped Hair》(1940)が一瞬だけ映り込む。
この作品が制作される1年前に彼女はリベラと離婚し、数カ月後に再婚している。二度目の結婚は、リベラの嫉妬を避けるために意図的に性的関係は結ばないことを取り決めている。つまり、カーロはリベラの欲望の対象ではなくなってしまった可能性を示しており、これによって彼女は自由に服装を選べるようになった。しかしこの映画は、カーロが1940年以降にスーツを着用した頻度に関する十分な情報を作中に盛り込んでいない。
テュアナを1930年代に身につけるという行為は、1930年代のメキシコにおいてホセ・バスコンセロスのラサ・コスミカ(宇宙的人種)という概念を作り上げるための手法の一つと考えられている。この概念は、地球上すべての人種が融合し、ほかの人種よりも優れた第5人種となるという考えだ。グティエレスは、こうした歴史や新植民地主義、差別的思想、社会ダーウィン主義といった要素を作品内に含めていない。また、カーロがテュアナを身につけ、その文化を流用したことが、土地の再分配、移住、暴力によって大きな影響が及んだ民族にとって傷に塩を塗るような行為だったという単純な事実にすら触れていないのだ。
作品を通してグティエレスは、カーロの政治的視点をわかりやすく描いていない。メキシコ革命の指導者の一人であるエミリアーノ・サパタの演説が作中で流れ、カーロが共産党への入党を決意したことが明かされる。これに関する情報は、それ以上、劇中に出てこない。時系列を順に追っている本作の後半では、メキシコ政府がレフ・トロツキーの亡命を許可するために尽力したことが描かれる。トロツキーとカーロは不倫関係にあり、トロツキーは二人の「青い家」に2年ほど住んだ。カーロとリベラが1940年にトロツキーを暗殺した疑いをかけられていたが、後に潔白が証明されたという事実をグティエレスは省略している。
リベラのコミッションワークを完成させるべく、彼とカーロは1931〜1933年にかけてアメリカで暮らしていた。この時期のカーロがどれほど野心的な作風をとっていたのか、グティエレスは作中に落とし込めていない。監督は、カーロの真骨頂とも言える《Henry Ford Hospital》《My Dress Hangs There》そして《Self-Portrait on the Borderline Between Mexico and the United States》(いずれも1932)を作中で紹介しているのにもかかわらずだ。これらの作品はすべて、カーロがアメリカで感じていた孤独感を描いている。カーロの日記には、これらの作品を依頼してきた裕福な発注者たちを「いけ好かない金持ち」だと感じていたことが記されている。だが、共産主義者がエリート層と親しい関係性にあるという、よく見られる矛盾の正当性が問いただされることはない。
新たな学びは得られない
不可解なことに本作は、カーロが手がけた最も有名な作品の一つである《The Wounded Deer》(1946)を考察し、彼女の死をメタファーとして扱っている。《The Wounded Deer》は、9本の矢に打たれたシカの身体にカーロの顔が描かれている作品だ。彼女が亡くなる8年前、そして大規模な手術から1年が経った頃に制作された本作は、《The Broken Column》(1945)といった当時の作品と同様に、彼女の健康状態の悪化を反映したものであり、1941年の父の死後、カーロにとってますます重要なテーマとなっている。
だが、グティエレスは《The Wounded Deer》を異なった視点で映している。作中に含まれる48のアニメーションの一つで、グティエレスはカーロの鹿から矢を引き抜いており、まるでカーロを解放するかのように描いている。カーロは、知名度を得るために苦しんでいたのだと、グティエレスは主張しているようだ。しかし、これは苦しめられてきた芸術家という目新しさのない構造の焼き直しにすぎず、面白みは感じられない。
芸術家を題材とした良作ドキュメンタリー映画というのは、彼らの作品に影響を及ぼした人生の出来事に必ず焦点を当てている。それと同時に、芸術家の欠点、すなわち彼らの人間味が感じられるような弱さも恐れずに描かなくてはならない。ドキュメンタリーの題材となる人物は皆、自身の生涯を語る上では信頼できない語り手なのだ。そして、グティエレスのような監督の仕事は、シカのアニメーションのような表現を使って、明かされていない“神話”をそのまま伝えるのではなく、その謎を解明することではないのだろうか。『フリーダ〜愛と痛みを生きた肖像〜』は、私たちがカーロについてすでに知っていることはうまく描けている。しかし、私たちが「知っておくべき」彼女の物語を語っていないのは残念だ。(翻訳:編集部)
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