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ピューリッツァー芸術財団の「要組み立て」な展覧会

「踏まれるための作品」と書かれたラベルがギャラリーの床に置かれている。床の上にはぼろぼろになったカンバスの布切れたち。それらの横にラベルは配置され、来場者に足で踏んで進むよう呼びかけている。これはオノ・ヨーコの作品《Painting to be Stepped On(踏まれるための絵画)》(1960/61)で、ピューリッツァー芸術財団(米国・セントルイス)で開催中の展覧会「Assembly Required(要組み立て)」の一作品だ。

フランシス・アリス《Cuando la fe mueve montañas(信仰が山を動かすとき)》(2002) ビデオ、36分 Courtesy David Zwirner, New York

会場では、このように鑑賞者に何らかの形で参加を求める作品がたくさん見られる。これら作品の制作年は過去60年以上にわたる。美術史上の位置づけや地理的な背景は様々だが、いずれも私たちがどのようにアートと関わり、そして他者と関わり合うかという幅広い考察を含むという共通点を持つ。参加を求めることは、アートの制作を民主化する手段であると同時に、その新しいあり方を生み出すためのツールとして扱われている。しかし、「Assembly Required」展で最も強く感じられるのは、こうした理念が、美術館のもたらす制約にどう立ち向かうのかという問題だ。
オノ・ヨーコの代表的な著書『グレープフルーツ』(1964年)には、「現代の美術館を、あなたが選んだ方法でばらばらに壊してください」「破片を集めて、接着剤で組み立ててください」と書かれている。その言葉は、大規模な変革は想像力によってもたらされるべきであることを示唆し、実現は不可能であるとしても遊び心に満ちたアイデアを紹介する展覧会全体の在り方を提示するものだ。

次の展示室では、フランツ・エアハルト・ヴァルターの《Trial Sewn Pieces(縫い物の試作)》(1963-2001)が、大胆な色彩と建築的なシルエットをバラエティ豊かに見せている。プリーツが入った正方形の深青色のテキスタイル、えんじ色と茶色の布を縫い合わせた布片、固くのり付けして折り畳んだ鮮紅色のジャケットなど。ヴァルターの《Werksatz(初の作業セット)》(1963-69)では、実際に着られる作品が用意されていて、観客は展示室内に設けられたカーペット敷きの「アクティベーション・スペース」で試着ができる。その多くは、複数の人が一枚の布によって同じ行動をとることを余儀なくされたり、体を繋いだりするものだ。着用者に注意深く協調することを要求し、さらには作品を離れても自分の動きや知覚を意識的に決めるように促す。

ヴァルターとオノは同じような問いを投げかけている。私たちは、どのように行動を通して発言しているのだろうか? 私たちはどのような構造の中にいて、それを支えているのだろうか? これらの問いは、新しい構造や、オルタナティブな共存のあり方をともに考え出し、実現することを促すものだ。だが興味深いことに、「Assembly Required」展でこうした思索に基づく参加の要素を最も強く含むのは、(少なくとも今すぐには)「組み立て」を必要としない作品だ。

オノ・ヨーコ《TYPESCRIPT FOR GRAPEFRUIT(『グレープフルーツ』のためのタイプ原稿)》(部分)(1963-64)、4枚のタイプライター用厚紙にインクで加筆、各約14 cm × 10.5 cm ©Yoko Ono

2002年4月11日、ペルーのリマ郊外で、砂丘地帯にボランティア500人が集められ、一列に並び、砂をかき集め、1日かけて500メートルの砂丘を「動かす」よう指示された。その共同作業の痕跡が、アーティスト、フランシス・アリスの《Cuando la fe mueve montañas(信仰が山を動かすとき)》(2002)として展示されている。ここでは、組み立ては必要とされない。パフォーマンスは、記録映像、写真、ドローイング、書簡の形で記録され、いわば正典として残されている。これは、希望に満ちていると同時に「シーシュポス(*1)の神話」のようでもある作業と相まって、作品が展示されている美術館についての批判的な思考を促すかもしれない。

*1 古代ギリシアの都市国家の一つコリントスを創建した、ギリシア神話に登場する人物。 神々を欺いた罰として、巨大な岩石を山頂まで運ぶよう命じられた。


《Cuando la fe mueve montañas(信仰が山を動かすとき)》は、規模は野心的だが、集団行動についてはより現実的なスタンスだ。初対面の500人が「山を動かす」ために集まったかもしれないが、砂(と自分の努力)がたちまち大きな力に押し流されることを承知の上だった。長期的な変化をもたらすには、絶え間ない努力が必要だ。しかし、たとえそうした場合でも明らかな結果を出すことはできないかもしれない。したがってこの作品は、協力を英雄的に表現していると同時に、「参加」の限界をも示している。アートへの参加/アートとしての参加の裏側を暴き出すのだ。つまり、参加するよう依頼された人は、無駄と感じ、乗り気になれず、あるいは怠惰な気持ちや、もしかしたら皮肉な感情すら抱くかもしれないという事実である。

「Assembly Required(要組み立て)」展は、多様な作品を見せていて、見る者に参加の要素を強く意識させるが、それ以外にはあまり訴えかけてくるものがない。その結果、変革をもたらすというよりは教訓めいた印象を受ける。一定レベルの行為主体性(エージェンシー)を含んでいながらも、行為主体性を促したりあるいは阻んだりする諸条件や、その目的について言及することはないのだ。だが現実には、社会的、政治的、経済的な無数の障壁によって制約を受ける人もいれば、そのおかげで頭角を現す人もいる。

たとえばヴァルターは第二次世界大戦中のドイツで子ども時代を過ごしているし、アリスの作品は2000年代初頭のペルーにおける政治腐敗と人権侵害を受けて構想されたものだ。「Assembly Required」展に参加するアーティストにとって、アートは抵抗のための手段であり、参加は新しい世界をつくるための活動にほかならない。

しかし、ピューリッツァー美術館の館内で、アートはどのような役割を果たしているだろうか。誰が、どのような方法で、私たちに行動を促しているのだろう。まずは美術館の床をよく見ることから始めよう。自分が立っている土台を見つめるのだ。美術館を破壊し、その破片を集めよう。あなたなら、それらをどう組み立て直すだろうか? (翻訳:清水玲奈)

※本記事は、2022年4月26日のART in Americaに掲載されました。元記事はこちら

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