美術犯罪の専門家が語る「人間の欲望」──贋作や略奪品の分野はナルシストだらけ?
美術犯罪と聞いて何を思い浮かべるだろう? 巧妙な贋作や大胆な窃盗など昔から人々の関心を集めてきた事例に加え、最近では主に欧米諸国が過去に略奪や不正な取引で手に入れた文化財の返還が社会問題化している。これら全てをカバーする専門家に、犯罪をめぐる状況とその変化について聞いた。
美術犯罪の教授というエリン・L・トンプソンの肩書きは、アート界でも学術の世界でも珍しい。コロンビア大学で法律の学位と美術史の博士号を取得した彼女は、現在、ニューヨーク市立の刑事司法大学、ジョン・ジェイ・カレッジオブ・クリミナル・ジャスティスで教鞭を取っている。
トンプソンが扱うテーマは多岐にわたる。たとえば、略奪文化財や美術品の偽造技術、美術館・博物館での盗難事件、不正な手段で入手された収蔵品の本国返還、グアンタナモ湾収容キャンプに拘束された人々が制作した作品、人骨のコレクションなどだ。つい最近は、南北戦争の有名な記念碑が溶解されたことについて、ニューヨーク・タイムズ紙に寄稿している。
トンプソンは、2017年に河出書房新社から邦訳が出版された『どうしても欲しい! 美術品蒐集家たちの執念とあやまちに関する研究 』(*1)や、『Smashing Statues: The Rise and Fall of America's Public Monument(彫像破壊:アメリカの公共モニュメントの興亡)』(W.W. Norton & Company、2022年)などの著書があるほか、アート・イン・アメリカ誌、アート系ウェブメディアのハイパーアレジック、ニューヨーク・タイムズ紙、スミソニアン誌などに寄稿。ソーシャルメディアのX(旧ツイッター)では3万7000人近いフォロワーを持ち、略奪文化財の本国返還や正当な持ち主への返還に関する情報を積極的に発信している。
*1 原書は『Possession: The Curious History of Private Collectors from Antiquity to the Present』(イェール大学出版局、2016年)
ここからはトンプソンに美術犯罪についての考えや、略奪品返還の取り組み、さらに間もなく出版予定の贋作に関する著書について話を聞く。
文化財返還の加速と美術館内部の変化
──昨年は美術犯罪についてのニュースが多く、それに対する世間の関心も高まりました。これについて、意外に思った動きはありましたか?
美術犯罪が増えたわけではなく、それに関する報道が増えたのだと思います。つい最近まで、アート分野のジャーナリストの多くは評論家が中心でした。そのため、この分野では調査報道という考え方そのものが目新しい。この現象には、2つの側面があります。美術犯罪を伝える報道が増えたということと、美術館や博物館自体が情報を発信するようになっているということです。
私は2013年から美術犯罪の教授をしていますが、当時は展示施設がこうした問題について指摘された場合、はぐらかしてやり過ごそうとするのが普通でした。「本国返還に向け取り組みます」というプレスリリースを出してお茶を濁すか、全く何もしないかのどちらかです。収蔵品が盗品である可能性については報道されず、もっぱら内部の問題として扱われていました。今もなお、展示施設は自己満足的なプレスリリースを発表し続けているものの、世間がそれに疑いの目を向けるようになったことは認識し始めています。
昨年、アメリカ自然史博物館、さらにはメトロポリタン美術館までが収蔵品の来歴について踏み込んだ発表をしましたが、あれにはかなり驚かされました。最近になり、こうした施設は、自分たちが問題を抱えていることを認めるようになっています。以前なら、彼らが問題について語るのは、たまたま公になってしまったほんの一部のことに対応し、「解決しました」と自画自賛するためでした。しかし今では、自分たちの取り組みや対策について、より多くの情報を公開するようになっています。それは、一般の人々がこれまで以上に関心を示すようになった結果でしょう。
──最近、あちこちの美術館や博物館で来歴調査チームが設置され始めたことを、どう考えていますか?
展示施設が来歴調査の担当者を採用している理由はさまざまです。私が心配しているのは、「私たちは専門の担当者やチームを雇いました。やるべきことはやっていますので、結果が出るのを待っていてください」という口実に使われる可能性があることです。さらに、問題がある収蔵品の「来歴ロンダリング」のための隠れ蓑や時間稼ぎに使われるかもしれません。
美術館や博物館は長年、「私たちを信頼してください。収蔵品の問題に関して外部の支援や視点は必要ありません」と言い続けてきました。ですので、私はこうした動きついて、どうしても懐疑的で、皮肉な見方をしてしまいます。「問題にきちんと対応しています」という表明に、少しでも説得力を持たせようとしているだけではないかと考えてしまうのです。
来歴を調査しているからといって、その結果どんな決定が最終的に下されるのかは分かりません。「来歴調査が完了するまでは本国へ返還しない」というように、本国から盗まれた明確な証拠があるにも関わらず先延ばしのテクニックとして調査が使われている事例もあります。本来は、まずはそれを返還し、その後で代々の持ち主がそれを入手した国や場所でどんな問題が起きたのかを解明していけばいいのです。
一方で、展示施設に勤務する来歴調査員たちの中には、とても協力的な人たちがいることも事実です。問題に真摯に対応し、収蔵品が作られた国や地域と連携したり、自ら連絡を取ったりしています。ですので、状況がどう変わっていくのか予想するのは簡単ではありません。
いずれにしても透明性が欠如しているのは確かです。内部の来歴調査で何かが判明したとしても、私たちはその情報にアクセスできません。それに、やるべき仕事があまりに膨大です。メトロポリタン美術館の収蔵品は少なくとも数十万点、もしかしたら数百万点に上るかもしれません。たとえ専門のチームを雇ったとしても、問題を解決するには途方もない時間がかかるでしょう。また、収蔵品の中には入手の経緯についての手がかりが失われている物もたくさんあります。そういう場合はどうすべきかなのか。盗まれたという確たる証拠があるものだけを返還するのでいいのでしょうか。
──東南アジア諸国やイタリア、ギリシャ、メキシコなど、文化財の返還請求に力を入れている国があります。それに関した報道をよく見ますし、昨年は特に活発でした。こうした国の政府関係者や、返還に向けた彼らの粘り強い姿勢ついて、調査研究をする中で気づいたことはありますか?
収集された品物の数は膨大で、展示施設の収蔵品や個人コレクターの数も何万にも上ります。こうしたコレクションは何百年もの時間をかけて築かれたものですから、1つひとつの収蔵品の出所をはっきりさせるには、おそらく何百年もかかるでしょう。すぐに解決するのは無理です。そんな中、いくつかの国で返還請求が活発化しているのは、政府が熱心だからというよりも民間の力によるところが大きいと思います。ある特定の品物の返還を熱心に訴える人が5人から10人いれば、何らかの進展につながります。
こうした動きの背後には、所蔵品を抱えている展示施設と本国の当局、それぞれの関係者に粘り強く働きかける熱心な人々がいます。返還を求めている多くの国では、文化財を管理する団体や施設のトップは政治的に任命された人々です。芸術に関する教育を受けたこともなければ、関心がない人もいますし、一般人と同じように文化財の重要性について説明が必要な場合もあります。また、何かについて騒ぎ立てたり、リスクを伴う返還請求をしたりして、面倒を起こすのを恐れるケースも少なくありません。
仮に、あなたがこうした国で文化財を扱う施設のトップに任命されたとします。その仕事に情熱を感じず、下手なことをすれば非難される心配があれば、しつこく外国の施設に返還請求をし続けようとは思わないはずです。民間の活動家が世間にその問題を訴え続けて、アメとムチの役割を果たさない限り、彼らが返還請求を推し進めることはないでしょう。こうした活動家がいるからこそ、今のような流れに勢いがついたのだと思います。
たとえば、ネパールから不正に持ち出されていた複数の古美術のうち、まずダラス美術館に収蔵されていたラクシュミー・ナーラーヤナの石碑が本国に返還され、もとあった寺院に納められました。この事例は、返還請求が実を結ぶという証明になりました。民間の活動家が集めて政府関係者に提供した証拠が信頼できるものであることが証明され、また、返還に漕ぎ着けたことで政府関係者が賞賛されることも証明されたのです。
私は何も、政府が怠慢で、活動家がいないと動かないと言いたいわけではありません。ただ、さまざまな立場の人々が力を合わせていることを説明したいのです。また、ネパール人の仲間たちからよく聞くのは、問題の解決を目指すときには、地元だけでなくアメリカの人々からも後押しや応援する空気があることがいかに重要かということです。
アメリカ人がメディアなどで「なぜダラス美術館がこの作品を所蔵しているのか?」と疑問を呈しているのを見て、彼らは大いに勇気づけられたそうです。というのも、彼らはアメリカ人全員が「これは私たちのもの。返すつもりはないから諦めろ」という意見だと思っていた。ところが実際はそうではなく、来館客や従業員の中にも本国返還を望んでいる人が大勢いることが分かったのです。
アクティビズムとアカデミズムの境界線
──美術犯罪や窃盗に関する法的な問題について、あなたのスタンスはとても明快です。また、グアンタナモ湾収容キャンプで拘束された人々の作品展を企画・開催してもいます。報道、キュレーション、文化批評と幅広く活動するあなたにとって、アクティビズムとアカデミズムの境界線はどこにあるのでしょう?
私が個人的にこうあるべきだと考えていることと、書いたりキュレーションしたりしていることの間には大きな違いがあります。私は、個々のトピックについて、人々が考えをまとめるのに役立つと思われる情報を出しているつもりです。「こうあるべきだ」と主張しているのではなく、「決断を下すために必要な情報がここにありますよ」と言っているのです。
いや、こう言ったほうがいいかもしれません。「自然史博物館に収蔵されている人骨について、どうすべきか決めましょう」と問いかけるにしても、そもそも大多数の人は、そうした問題について考えたこともなかったはず。ですから、これまで少数の人々が問題視していたことに光を当てて、「これはニューヨーカーとして、アメリカ人として、私たち自身の問題でもあるんですよ」と伝えることは、アクティビスト的な行為なのかもしれません。
──自分の活動をアクティビズムだとは捉えていないのですか?
(深いため息をつきながら)私は、さまざまな問題について声をあげている人々をサポートしています。でも、収蔵品となっている全ての人骨をどう処理すべきかについて確固たる意見を持っているかと問われれば、はっきりと答えられません。問題は複雑です。
研究者としての立場とアクティビストとしての立場の間に線引きすることは重要だと思います。おかしな話ですが、アクティビストとしてそう思うのです。私はあることに関して「こうすべきだ」と、強い意見を持つこともあります。たとえば、グアンタナモ湾収容キャンプは閉鎖されるべきだし、そこに閉じ込められている人たちは無期限に拘留されるのではなく、裁判にかけられるか釈放されるべきだと思います。私が共有している情報を見れば、それは明らかでしょう。ただ、このことに関しては私が説教するよりも、みんなが自分たちで結論を出す方が早道だと思います。
──刑事司法専門の大学というアカデミズムの世界にいる立場としては?
私が働いている大学では管理職の大部分が有色人種で、そこがハーバードなどとは全く違うところです。(ハーバード大学で黒人女性の学長が更迭された事件を皮切りに、有色人種や女性を優遇するために白人男性が逆差別を受けていると)昨今では大学人事に対する批判の声が高まっています。そんな中、私が(南北戦争で奴隷制維持のために戦った南部連合を讃える)記念碑の破壊について記事を書いただけでも、全てのケースで私が破壊を擁護していると思い込む人が出てくるでしょう。
最近のアメリカはあまりに分断されています。著書の中で、「Black」の最初の文字を大文字にしただけで批判されたこともあります。「Bを大文字で書くようなアクティビストの言うことを、まともに取り合う必要があるのか」と。このような形で線を引くのであれば、私は中立の立場にいることはできません。
──アクティビズムとアカデミズムの境界線について、いろいろ考え続けてきたことと思いますが、この2つは切り離せるものでしょうか。あるいは、その境界線がアートの中に存在すると思いますか?
思いません。世の中に中立的なものはないというのが私の考えだからです。一方で、アクティビストは偏見に満ち、自分の考えを決して変えず、情報以外の何かに基づいて立場を決めていると思い込んでいる人たちがいます。あるいは、アクティビストだからまともに取り合わなくていいと考える人もいます。そういった人たちからアクティビストだと見られたくはないですね。
私が偏っているとか、どちらか一方だけに味方していると考える人がいるのは仕方ないとしても、せめて私が公平で、正しい方法で戦っていることは理解してほしいと思います。根拠なく非難しているわけではなく、事実と調査に裏打ちされた問題提起をしているのですから。
ソーシャルメディアで発信することの意義
──あなたはこうした問題について、ソーシャルメディア上で活発に発信しています。10年以上活動を続ける中で、自分の仕事について語る場合にはどのようなアプローチを取っていますか? またそれは、時とともにどう変化してきましたか?
実は面白いことがありました。今日から新学期の授業が始まったのですが、初めて学生から、「あなたは賛否が分かれる教授だと聞いたので、この授業を履修することにしました」と言われたのです。その学生は私が企画したグアンタナモ湾収容キャンプの展覧会について何かの記事で読んだらしく、「なぜテロリストたちの作品を展示したんですか?」と質問してきたのです。私は「そもそも、あそこにいる人たちは告訴の手続きを踏まずに拘留されているのであって、私ならテロリストとは呼びません」と答えました。ソフトな言い方で説明しようとしたのです。すると彼は、「あ、そうなんですか。てっきりみんなテロリストだと思っていました」と言って、すぐに考えを変えたんです。物事についてきちんと発信することは重要だと改めて思いました。
でも、自分が積極的に発言するタイプだと思われるのは、なんだか不思議な感じがします。
──あなたはソーシャルメディアで相手を名指しで糾弾すると言われています。
本当ですか? 私が美術館や博物館を名指しで非難するのは、それが人間ではないからです。そこに勤務している人に対するアプローチはまったく違います。私は常に彼らとコミュニケーションを取っています。彼らは職場を少しでも良くしたいと願っていたり、変化を促すために私に情報を共有してくれたりします。その人たちからは、「あの件について(Xに)連投してくれてありがとう。ああいうやり方はもう通用しないと分かってもらうため、上司に見せました」などと言われます。
彼らの中でも、さまざまな議論が交わされているのだと思います。そして、時にはその議論を表に出すために外部の力が必要です。私は一般の人々が関心を持つような方法でこれらの問題を伝えることを重視していますが、だからといって人々が愚かだと思っているわけではありません。
世の中には対処すべき問題が山ほどありますし、アートや国際問題、脱植民地化の問題はとても入り組んでいます。さまざまなテーマや分野にまたがる私の仕事の本質は何かと言えば、世界をより良くするために、移ろいやすい世間の関心を解決すべき問題に向けさせることだと思います。時にはユーモアを交えたり、面白い写真を使ったり、何でも試してみます。感情に訴えたり、個々のストーリーを伝えたりもします。できることなら、法律や数字の話だけしていたいけれど、みんながそれに反応してくれるわけではありませんから。
ソーシャルメディアが好きなのは、いろいろなアプローチでたくさん投稿して、どれかがバズればいいという点ですね(笑)。時代の空気を鋭く捉えているように見えるかもしれませんが、実際は下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、というわけです。
──あなたの投稿によって、eBayに出品された盗品や偽物の古美術などが注目されるようになりました。一方で、「数打ちゃ当たる」方式でポストした投稿を削除し、それについて説明や訂正をしないとも指摘されています。研究や執筆の仕事に加え、ソーシャルメディアの使い方をどうコントロールしているのですか?
私はしょっちゅう投稿を削除しています。
──それはなぜですか?
私のツイートの75パーセントは、研究に役立てるための質問です。疑問が解けた後もそれを放置していると、いつまでも答えが返ってきます。すでに回答を得ているのに質問を見えるままにするのは失礼だと感じるのです。イベントの告知をする時も、それが過ぎたらツイートを削除するし、冗談を言ったものの誰も面白いと思っていなさそうなときに削除することもあります。
もし間違ったことをツイートして誰かに訂正されたらどうするか、ということもよく考えます。でも記憶する限り、そういう指摘は片手で数えるほどです。とことんリサーチした後でないと何かについて断言したりしないので。
間違った情報を発信してしまったらどうすべきかという対処方法についていろいろ読んだことがありますが、最終的に削除するのが一番いいという結論に達しました。誰かが「それは間違っていますよ」とリプライをつけてきたら、私はそれにお礼を返してから、元のツイートは削除します。でも、正しい情報を知りたい人のために、それについたリプライは残しておきます。
──美術犯罪の多くは、eBayにしょっちゅう出品されている小さな略奪品のように世間の耳目を引くものではなく、報道されることもありません。あなたは研究やソーシャルメディアでそのことに光を当て続けていますが、10年前と状況がさほど変わっていないことに苛立ちを感じませんか?
私が苛立ちを感じるのは、返還の問題が起きるたびに、それを請求する活動家たちが一から戦略を練らなければならない事態があまりに多いことです。それもソーシャルメディアが重要だと思う理由のひとつです。Xが、かつてのような仕様のプラットフォームでなくなったことは本当に残念です。誰かがある展示施設と初めて交渉しようとするとき、ほかの国の人たちがその施設とどんなやり取りをしているのか、過去の交渉の経緯や戦略を探すのが難しくなってしまったからです。
透明性と情報の共有に関して、私はかなり強いこだわりがあります。なぜなら、この問題には情報の非対称性があるからです。美術館や博物館は長い間、不透明な形で収蔵品を保持し続ける方法について同業者間で話し合ってきました。同じように、美術品を奪われた側も互いに連携できるようにするのがフェアだと思います。
ソーシャルメディア、もしくはメールでもいいですが、そうしたツールで私が一番好きなところは、人と人を結びつけることができる点です。ネパール国内で同じ問題に取り組んでいるのに互いを知らない人たちがいた場合、その人たちを遠くからつなげることもできます。
それに、私がソーシャルメディアを使うのは美術犯罪の可視化のためで、美術犯罪ニュースの情報センターのようなものだと考えています。私個人のアピールではまったくありません。
美術館が抱える問題に対する意識の変化
──活動を通じて美術犯罪に対する認識が高まったこと以外で、最も大きな変化は何だと思いますか? 大学でこれを博士論文のテーマとして取り上げる人が増えたとか、美術史や法学研究の重要な一部として認識されるようになったとか?
私が大学院で美術史を専攻していた頃は——古代美術史で博士号を取るなんて酔狂な話ですが——その頃を含む10年くらいは古美術の返還について議論が持ち上がったことは一度もありませんでした。
大きな変化を実感したのは5年前、私がニューヨーク市立大学の大学院でゼミを担当していたときです。美術館における倫理の問題か何かをテーマにしたゼミで、4回目の授業中、学生の1人がまったく関係のない議論の途中でふとこう言ったのです。「先生の授業を履修する前は、美術館や博物館は中立的で公正な場所だと思っていました。だけど、今は……」。彼は感情がたかぶってしまい、言い終えることができませんでした。私は内心「よし」と思ったものです。
今は、学生がそんな気づきを得る場面を見る機会はなくなりました。というのも、今の学生たちは最初から展示施設について懐疑的だからです。必ずしも悪だとは思っていないにせよ、それは組織であり、世界中のいろいろな組織と同じように良い部分もあれば悪い部分もあると理解しています。異なる文化や社会、時代がぶつかり合って形成されてきた他の分野の組織と同じように、過去から受け継がれているものの中には必ずしも残しておきたくないものがあります。それをどう変えていくかを考えなければなりません。
美術館や博物館に問題があることを、今や多くの人々が理解するようになった──やっぱり私はそう言いたいのかもしれません。
──『ブラックパンサー』(マーベル・コミックをベースにした2018年の映画)の、あのシーンが思い浮かびました。(*2)
*2 イギリスの博物館でアフリカの古い斧について解説するキュレーターに、黒人の若者がそれを持ち帰ると言うと「売り物ではない」と拒絶される。すると彼は「あなたの祖先はそれを適正な価格で買ったの? ほかの物と同じく盗んだのでは?」と問い詰めるシーン。
そう! あれは私がやってきたどんな仕事よりも、この分野に貢献したと思います。
──イギリスのコメディアン、ジームズ・アカスターの大英博物館に関するジョークも相当バズりましたね。(*3)
*3 大英博物館を訪れた外国人が「かつて祖先から奪った展示品を返して欲しい」と頼むと、「まだ見終わってない!」と逆ギレされ、「まだそれを見たことがない人が大勢いるんだから一緒に並んで見ろ」と言われる。オチは、大多数の来館者は過去に大英帝国から文化財を奪われた国の人々だったというもの。
「まだ見終わってない!」ですね。
──どちらも、あなたがこの研究を始めてからの10年間に起きたことです。人々の見方が変わりつつあることを示す明確な兆候ではないでしょうか。
展示施設側が変わろうと努力してきたことも貢献していると思います。美術館や博物館には以前より大勢の、より多様な観客が訪れるようになりました。そうなってくると、来館者のこんな疑問に向き合う必要が出てきます。「自分の出身地のものをここで見られるのは素晴らしい。でも、いったいどうやってこれを手に入れたのだろう?」
アメリカで育った白人である私は、子ども時代にそんな疑問も違和感も持ったことはありませんでした。私は美術館や博物館が大好きですし、それがなかったら少なくとも今の自分はなかったでしょう。私が育ったのは福音派キリスト教のコミュニティで、女性差別やゲイに対する強い偏見がある超保守的な地域でした。そこを抜け出したくて、世界にはさまざまな生き方があることを教えてくれる展示施設に、よく1人で行っていました。全ての人が私と同じように、そこに受け入れられていると思えるようにしたいのです。
贋作や不正取得の背後にあるナルシシズム
──あなたがこれまでの研究で見てきた贋作や偽造の技術中で、お気に入りは何ですか?
難しい質問ですね。どれもこれもすごいので、1つだけ選ぶなんて無理です。とても複雑で巧妙な技術がある一方で、人間の心理を突いたシンプルな手口もあります。
たとえば、19世紀末の考古学者たちは、聖書の記述が事実であると証明するために中東に行き、イラクの遺跡を発掘しました。彼らは現地の労働者を雇い、彼らが何かを見つける度に報酬を支払っていました。
大英博物館の収蔵品のうちかなりのものは、イラク人たちが「こいつら、どうかしているぜ」とほくそ笑みながら現場で彫ったものではないかと思います。
そういう「植民地の支配者を出し抜く」ような贋作が好きですし、いくつもの関連文書をでっち上げるような手の込んだ贋作にも興味があります。たとえば、自分が誰かに作らせた現代アーティストの贋作を真正なものであると偽装するため、テートの文書保管室に忍び込んで書類を置いてきたり、ロンドンの画廊の在庫帳簿を細工したりするといった例です。
あるドイツ人の贋作者は、妻に祖母の格好をさせ、蚤の市で買った1910年代のカメラで写真を撮っています。背景の壁には贋作の絵が掛けられていました。彼らは、その絵が大昔から一家の所有だったと証明するためにこの写真を見せたのです。こういう面白い話が山ほどあります。
人を騙すには、まずは市場の仕組みを知ることが重要です。私が贋作に興味があるのはそのためです。贋作というのは、市場の本質を教えてくれます。お宝自体より、人の欲望に目を向ける方が得策なのです。何かを見つけてくる苦労をしなくても、人の欲望に沿うようにそれを作ることができるのですから。
──贋作の長い歴史についてのこれまでの研究調査で、最も印象に残っていることは何ですか?
贋作を売るコツは、「同好の士がいるはずだ」と思っている人を見つけ、その人が求めているものを提供することです。たとえば、エロティックな作品の贋作はとても成功している分野ですが、特殊な性癖や同性愛に関するものは特にそうです。古代のものだと称する同性間の性愛を描いた作品は、あちこちのコレクションに入っています。おそらく買い手の多くは、長い歴史の中で自分と同じような欲望を抱いていた人々がいたことを実感したいのではないでしょうか。贋作者にとって、これ以上の買い手はいません。なぜなら、そうした人たちは自分の性的指向を隠している場合が多く、コレクションを他人に見せびらかそうとはしませんから。贋作が、実際の作品よりも人の欲望を濃く反映すると言ったのは、こういうことです。
似たような例は、宗教的な物品の偽造にも見られます。白人がやってくる前の時代のアメリカ先住民の墓所で見つかったされる、モルモン教の天使の偽オブジェなどです。人は、何かとのつながりを求めるもの。それがアートの強みであり、贋作が買われる理由でもあります。
──悲しい話ですね。本物のアートを作っている人たちではなく、そちらにお金が流れてしまうとは。
古美術の返還問題に関して腹立たしいのは、それもあります。なぜ盗まれたり密輸されたりした仏像を買うのか。仏教や東洋の精神性を探求したいと思うなら、ネパールでもカンボジアでもどこでもいいから行って、そこにいる人々と話をすればいいんです。
──あなたが研究してきた贋作や美術品犯罪についての問題は、植民地主義や、西洋の展示施設や組織が持つ一種のナルシシズムが関わっていることが多そうです。それについてどう考えていますか?
偽物がよく見つかる大きなカテゴリーの1つに、古代ローマ時代の医療器具があります。ポンペイの遺跡やローマの墳墓から出土したものがいくつかあるのですが、それをもとにした贋作が非常に多い。なぜかというと、外科医や医者など、自分の判断を絶対だと思い、自分は周りの人間より知識があると信じている人たちに売れるからです。贋作を売りたいなら、自分に自信があり、あれこれ質問してこない客を探すのが一番です。
──略奪品を買う人の心理とよく似ていますね。「この品の所有者として最もふさわしいのは私だ。その良さを一番分かっているのだから。元の持ち主がそれを失ってしまったということは、十分に大切にしていなかったからに違いない」というように考える。
この分野はナルシストだらけです。ナルシストに育てられた者として、私は世の中のナルシストや偽善的な態度と戦うのが好きなんです。
──収蔵品の本国返還や美術犯罪、あるいは展示施設における変化について、何かほかに心強いと感じていることはありますか?
私は前向きです。展示施設が抱える問題について批評をしているアーティストたちもいますし、内部にも変化を求める人がどんどん増えています。ただ、私は主にアメリカにおける動向を追っているのですが、他国の例を見るたびにとても気が滅入ります。模範となるのはいつも外国の展示施設なので。
でも私が一番残念に思っているのは、いまだに「アメリカで唯一の美術犯罪の教授です」と言えてしまうことです。まるで、唯一の英語の教授だと言っているようなものですが、本来ならそうあってはならないはずです。それで生計を立て、公然と批評できる立場にある人がもっと出てくるべきでしょう。展示施設に雇われている場合、できることは限られています。オークションハウスの従業員や、政府関係者にしても同じです。私はこうした問題について口うるさく騒いでいる唯一の論客でいたくないんです。いや、ちょっと違いますね。ほかにもいますから。数少ないうるさ方とでも言っておきましょう。(翻訳:野澤朋代)
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