エドゥアール・マネをもっと知るための5作品。絵画の歴史を変えた反逆者
センセーショナルな作品で、それまでの西洋美術の常識を打ち破ったエドゥアール・マネ。絵画の歴史を変えたと言われるマネの革命性を知るうえで重要な5作品について解説する。
近代アートの誕生に多大な貢献をしたマネ
アートを進歩の歴史の中に位置づけて考える人は、昨今ではほとんどいなくなった。今のアートシーンは何の制約もなく融通無碍で、作家たちはレストランのメニューのような多くの選択肢の中から好きなスタイルを選ぶことができる。そうした自由があるのは、19世紀半ばから約100年にわたる近代アートの歴史の中で生み出され、今も利用されているさまざまな芸術的言語や形式のおかげだ。そして、エドゥアール・マネほどその発展に貢献した画家はいない。
マネ(1832-1883)は、王家の血を引く母と司法省の高級官僚である父のもと、パリの裕福な家庭に生まれた。幼い頃からアートに強い関心を示していたマネを、彼の叔父は頻繁にルーブル美術館へ連れて行ったという。13歳になる頃にはデッサン教室に通うようになっていたが、父親は息子が芸術家を志すのを快く思っていなかった。父の意向に沿うため、一時期マネは海軍に入隊しようとしたこともあったが、結局はうまくいかなかった。
やがて父は息子の夢を受け入れ、マネは歴史画家トマ・クチュールに正式な教えを受けるようになる。彼はヨーロッパ各地を旅行してティツィアーノやカラヴァッジョ、フェルメール、レンブラントなどの作品を見て回り、多くを吸収した。中でも、スペインの画家、ベラスケスとゴヤには大きな影響を受けている。
若い頃のマネは、ギュスターヴ・クールベの流れを汲む写実主義画家だった。しかし、荒い筆致やシンプルな構図、唐突な色調の変化など先鋭的な表現を取り入れるようになり、批評家や毎年開かれるサロン(官展)の主催者であるフランス王立絵画彫刻アカデミーの顰蹙(ひんしゅく)を買った。やがて彼は、従来の芸術のパロディに見えるほどに美術史的常識を覆す制作を行い、モダニズムにおける最初の偉大な反逆者としての本領を発揮していく。
以下、マネの変遷をたどるのに不可欠な5点の絵画と、それを見ることができる美術館を紹介する。
1. 《アブサンを飲む男》(1859年) ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館(コペンハーゲン)蔵
ルーブル美術館の外をうろつく浮浪者を描いた《アブサンを飲む男》は、マネがサロンに初めて応募した作品だ。クールベの影響が見られる一方で、彼との決別も感じさせるこの作品には、捨てられた服を集めて売る下層階級のボロ布屋(シフォニエ)が登場する。シルクハットをかぶり、マントをまとった男の周りには満たされたグラスや瓶などが置かれ、彼がアブサン中毒であることを窺わせる。アブサンは、労働者や貧しい画家たちが好んで飲んでいた強い安酒だ。
この絵には、通常なら貴族の肖像画に用いられる大きなカンバス(約183 × 122cm)が使われている。奥行きのない背景とドラマチックな光の効果が目を引く演劇的な表現を駆使し、社会の底辺からの視点で時代の空気を捉えたこの作品は、当然ながらその年のサロンで落選している。
2. 《草上の昼食》(1863年) オルセー美術館(パリ)蔵
《アブサンを飲む男》への批判は、裸の女性が着衣の男性2人とピクニックをしている《草上の昼食》に対する反発に比べれば微々たるものだった。女性モデルが肌を晒しているように、マネは芸術的野心をむき出しにしてこの絵を描いたが、こうした場面を描いた作品は《草上の昼食》が初めてではない。マネの着想源となったジョルジョーネの《テンペスタ》(1508)にも、着衣の男性と赤ん坊を抱く半裸の女性が描かれている。
ただ、ジョルジョーネの絵が寓意的であるのに対し、マネはそのようなもっともらしい口実を設けずに、同時代の女性の裸体を作品にした。彼女は悪びれる様子もなく鑑賞者を見つめ返しているだけでなく、その場で服を脱いだかのように近くにドレスを置いている。モダニズムの先駆けとなったこの傑作は、《アブサンを飲む男》と同じくアカデミーに拒絶され、1863年の落選展に出品された。
3. 《オランピア》(1863年) オルセー美術館(パリ)蔵
《草上の昼食》と同じ年に描かれた《オランピア》は、1865年のサロンで発表され、それまでの作品以上の激しいバッシングを受けた。この作品はティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》(1534年頃)を参照しており、ティツィアーノの絵と同じく、横たわる裸婦が手で陰部を隠している。
しかし、ティツィアーノのヴィーナスが神話的であるのに対し、《オランピア》は現代を舞台としていることが見る者を驚かせた。そのうえ、この作品には女性が売春婦であることを仄めかすヒントが各所に散りばめられている。たとえば、彼女の視線は《草上の昼食》の裸婦よりもさらに強く、冷ややかで、取引的な含みが感じられる。さらには、髪に刺した蘭の花や、首を飾るチョーカー、片足からぶら下がるスリッパ、女性器の隠喩としての猫、黒人のメイドが彼女に渡している客からの贈り物らしき花束など、全てがこの絵に真に衝撃的で新しい表現をもたらしている。
4. 《鉄道》(1873年) ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)蔵
印象派と関連付けて語られることが多いマネだが、彼がその一員だったことはない。ほとんどの印象派の画家たちより年長だったマネは、光の観察者というよりもラディカルな歴史画家だったと言えるだろう。しかし、《鉄道》では印象派のスタイルを取り入れ、普段よりも目立つ筆致と明るい色彩で駅にいる母と子を描いている。
機関車が吐き出す蒸気によって表される技術革新を題材としたこの絵には、歴史の流れも組み込まれている。現在に留まりながらこちらを見る母親の横で、後ろ向きの子どもが見つめているのは後方にある列車、つまり未来を象徴する工業時代の先端技術なのだ。
5. 《フォリー・ベルジェールのバー》(1882年) コートールド美術館(ロンドン)蔵
マネの最後の傑作が描かれたのは、10年にわたり患っていた梅毒の合併症で死去する前年のことだった。こうした理由から、賑やかな夜遊びの場面を描いた《フォリー・ベルジェールのバー》の真の主題は「メメント・モリ」(*1)だと解釈されることが多い。
*1 「死を想え」「いつかは死ぬことを忘れるな」を意味するラテン語の言葉。
バーカウンターに並べられたビールのボトルなど、この場面には一瞬で消えてしまう生の楽しみが溢れている。ヴァニタス静物画(*2)で死の象徴とされた頭蓋骨の代わりに、マネは悲しげな瞳でこちらを見つめるバーメイドを描いた。彼女の背後にある大きな鏡に映し出されているのは、当時人気の娯楽施設だったフォリー・ベルジェールの内部だ。そこには、空中ブランコの曲芸師(左上の角から脚が垂れ下がっている)を見上げる群衆や、飲み物を注文する紳士(バーメイドが見ている対象)がいる。
*2 現世の成功や楽しみの虚しさを表現した伝統的なジャンルの1つ。
マネが鏡の中の世界として描いたのは私たち自身が住む世界だが、鏡に映る全てがそうであるように、それは本質的には幻想にほかならない。最後の皮肉として、死がそれを現実にするまでは。(翻訳:野澤朋代)
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