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英盲導犬協会による「アートトレイル」から考える、アートの体験価値【エンパワーするアート Vol.7】

これまでとは異なる物事の見方を教えてくれるアートの力を借り、社会をより良い方向に進めようとする取り組みが生まれている。ロンドン在住の清水玲奈が伝える連載「エンパワーするアート」の第七回は、イギリスの盲導犬協会が主催した「アートトレイル」の取り組みについて。

視覚障がいをもつアーティスト、ケヴィン・ガヴァガーンの作品《Hope and Resilience》。Photo: Kevin Gavaghan

ロンドン東部、テムズ川沿いの再開発地区であるカナリー・ワーフは、ヨーロッパ最大の超高層ビル街だ。シティと並んで銀行や金融機関が集まり、ビジネスの中心地になっている。

この地区のあちこちに、3月25日から5月17日までのおよそ二カ月間、カラフルな犬の彫刻25点が登場した。彫刻は歩道や公園、埠頭、ショッピングセンターの一画などに点在し、地図を見ながら好きなペースで作品を見てまわれる。

盲導犬協会によるアートトレイル

これは「ポウズ・オン・ザ・ワーフ(Paws on the Wharf)」と題されたアートトレイルのプロジェクトだ。アートトレイルは、あるエリアやルートに作品を点在させ、移動しながら鑑賞してもらう展示の方法。今回のプロジェクトは、英国盲導犬協会と、イギリスを拠点にアートトレイルを企画実施している民間企業ワイルド・イン・アート(Wild in Art)が共同で開催している。

「アートトレイルはすべての人に開かれている公共アートであり、作品を見て回る人たちはみんな笑顔になります。いつの間にか、数キロほどの道のりを歩くことになりますから、メンタルだけではなく体の健康にも大いに貢献します」と、ワイルド・イン・アートの創設者でマネージング・ディレクターのチャーリー・ラングホーンは語る。

ポウズ・オン・ザ・ワーフでは、同じ盲導犬の彫刻25体をそれぞれ異なるアーティスト25組がペイントした。参加アーティストのうち、5人は視覚障がい者だ。さらに展示期間の終了後には、すべての作品がチャリティー・オークションにかけられる。予想最高落札価格は1点で最高10万ポンド(約1930万円)。収益はすべて、視覚障がい者が自分らしい生活を送れるよう支援するためのサービスに使われるという。

春はイギリスも祝日が多い。普段はビジネス街に縁のない家族連れがこのイベントのために訪れ、彫刻についている点字に触りながら話をしたり、一緒に写真を撮ったりする姿が見られ、オフィスが休みの日も界隈はにぎわいを見せている。

視覚障がいのあるアーティスト、クラーク・レイノルズの作品《Dot to Dog》。色覚検査からインスピレーションを得ている。いくつかの斑点は点字になっていて、これを読むと犬の秘密がわかる。Photo: Reina Shimizu

ねらいは「認識を変えること」

ワイルド・イン・アートは2008年の設立以来、イギリスのほか、ドイツやニュージーランド、ブラジル、アメリカ、ケニアなどで約150回のアートトレイルを開催してきた。SNSでセルフィーの投稿を呼びかけるなど積極的に宣伝活動をし、1回あたりの動員数は400万〜500万人。地元経済への波及効果は大きく、スポンサー企業を惹きつける決め手にもなっている。これまでのイベントも、公的資金ではなく民間企業の出資で開催してきた。

カナリー・ワーフがポウズ・オン・ザ・ワーフの開催場所に選ばれたのは、盲導犬協会のスポンサーの一社であるシティバンクの本社がここにあるからだ。このほか、作品制作にあたってはユナイテッド航空などの企業がアーティストに出資をしている。

このアートトレイルのねらいは、人々の認識を変えること。視覚障がい者が鑑賞することも想定し、アーティストたちにはとりわけ鮮やかな色づかいと、点字など触って鑑賞する要素を積極的に取り入れてもらった。大人や子どもが点字とは何かを知り、実際に目にし、触れてみるチャンスでもある。また、それぞれの彫刻にQRコードをつけて、作品を通して視覚障がい者のアートについての理解を深める工夫をしている。

英国盲導犬協会で企業との折衝を担当するキーラ・オーティーは、「最初の彫刻を設置してから数分も経たないうちに、通りがかりの人たちは彫刻に駆け寄り、セルフィーを撮ったり、彫刻に触ったり、笑顔で語り合ったりしていました」と語る。盲導犬を連れた視覚障がい者向けのトレイルめぐりも開催され、参加者たちは点字や形を触って作品を楽しんだ。

普段はビジネス街に縁のない家族連れもアート巡りを楽しんでいた。Photo: Reina Shimizu

視覚、触覚、嗅覚で楽しめる作品

作品をつくるにあたり、ワイルド・イン・アートは「アートトレイルをこれまでで最もアクセスしやすく、インクルーシブなものにする」という目標を受け入れてくれるアーティストに製作を委託した。

そのアーティストの1人、ミスターAシン(MrASingh)は、アートトレイルに長年参加し、これまで55点の彫刻を手がけてきたアーティストだ。今回委託を受けて制作したのは《Spectrum(スペクトラム)》と題した作品。光のスペクトルで得られる色と、幅広いスペクトラムにまたがる視覚障がい者たちを尊重するという二重の意味を込めた。

「テーマは盲導犬へのトリビュートです。盲導犬が可能にする世界の探求というテーマとともに、視覚障がい者が経験する多様な体験を、カラフルなドットで表現しました」。ドットを立体的にし、ラベンダーの香料を練り込んで、視覚だけではなく触感や嗅覚で鑑賞する作品にした。

「そもそも、アートトレイルの魅力は、野外の風景の中に展示することで、ダイナミックな鑑賞体験が可能になることです。作品を置いてみるまで、展示がどのようなものになるかはアーティストの自分にも予測がつきません」と、ミスターAシンは語る。

Photo: MrASingh

「物珍しさ」を超えて

視覚障がいをもつアーティストの一人、アンジェラ・チャールズは、ロンドン大学ゴールドスミスカレッジを卒業後、アーティスト・キュレーターとして活動していた。13年の間に徐々に視力が落ち、キュレーターを退いてからは画家として活動している。6年前に視覚障がい者として認定され、5年半前から盲導犬のフリンと一緒に暮らし始めた。

「私は身長が180センチあって歩くのも速いので、同じく体格が良くて体力のあるフリンにマッチングしてもらいました。フリンのおかげで、自由な外出やランニングが再びできるようになった。一緒に歩いていると盲導犬を訓練しているところだと思われるくらい、お互いに信頼し合って歩いています」

絵を描くときは、スマホで絵の具のチューブのバーコードを読み取って、記憶に基づいて色を使う。犬のフリンが制作を助けることはないが、「いつも私が絵を描くのを見守っていてくれる。本当に働き者なので、その間は休んでいてほしいと思っています」とチャールズは語る。

チャールズのアトリエでくつろぎながら制作を見守る盲導犬のフリン。Photo: Angela Charles

視力を失ってしばらくの間、チャールズは盲導犬の存在を隠して展覧会のプレビューなどに出席し、ギャラリーでの立ち話もこなしていたという。2021年に視覚障がい者としてカミングアウトし、アートカウンシルの補助金を受けて活動し始めた。今はむしろ、視覚障がい者だからこそ作り出せるアートを発信することに意義を見出している。

今回のアートトレイルでは、《Straight On(まっすぐ前へ)》と題した作品を制作した。常にまっすぐ歩くように訓練されている盲導犬の動きと、盲導犬がくれる自由を表現している。具体的には、フリンと一緒に歩いたGPSによるルートを表す線と、冒険や旅をイメージさせる色を使った。

「記憶から色を使っている私の絵は、いわゆる『正しい』色づかいではないかもしれませんが、逆に、ふつうとはちょっと違う新しい描き方ができるのは、とてもエキサイティングなことです。もともと私はジェスチュアル・ペインティングが好きだし、作品のテクスチャーにこだわってきましたから、視力を失っても、アーティストとしての活動をやめるという発想はありませんでした。アートはアーティストを、そして見る人をエンパワーしてくれる。私にとって、絵を描くのは自然なことなんです」

今回の作品を通して「どんなことでも、望めばできる。どんな人でも絵を描こうと思えば描ける」と訴えたいという。「今はテクノロジーのおかげで、視覚障がい者でもビジュアルアートを制作できるようになっています。もっと幅広い人にそれを知ってもらって、物珍しさではなく、一人のアーティストの活動として、継続的に見てもらうことが重要だと思います」

アンジェラ・チャールズの作品《Straight On(まっすぐ前へ)》。Photo: Angela Charles

物事の「見方」を変える

筆者も雨と晴れと曇りが同居するロンドンらしい春の一日に、子どもとふたりでアートトレイルに挑んだ。ロンドンに住んでいてもなかなか縁のないカナリー・ワーフのウォーターフロントを散歩し、ビルの合間に、公園の木の隣に、突然登場する犬を発見する競争をしながらめぐるのはとても楽しく、いつの間にか二時間くらい歩き回っていた。アートトレイルは、大人も子どもも、長い時間をかけてアートに没頭できる仕組みでもある。

視覚障がいのあるアーティストの作品は、たしかにアートについての認識を広げてくれた。開かれたアートは、目が見える、見えないに関わらず、物事の「見方」を変えるきっかけになるのだ。

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