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独裁政権下の韓国で若手アーティストたちはどう生きたのか。グッゲンハイム美術館のキュレーターが語る

1960年代から70年代にかけて、韓国は独裁政権下にあった。その過酷な状況下で生きる若手アーティストたちは、様々な手法で作品を制作し、体制に抗った。現在は散逸した彼らの作品を集め、その表現を見つめ直す展覧会がグッゲンハイム美術館で開催中だ。

キム・クリム《The Meaning of 1/24 Second》(1969)。 Photo: Courtesy Solomon R. Guggenheim Museum

激動の時代の中、体制に抗い続けたアーティストたち

1960年代の韓国では、若いアーティストたちが出現し、暗黒の時代の中で活動した。1948年に勃発した朝鮮戦争の結果、1961年に軍事クーデターが起こり、軍事独裁政権を握った朴正煕(パク・チョンヒ)が、その2年後に大統領に就任。1972年まで、独裁体制を維持するため国家は徹底的に言論とメディアを監視した。

北朝鮮、そして旧宗主国である日本と緊張関係にあった当時の韓国において、あらゆるレベルでの激動に見舞われる社会に生きたアーティストたちは、保守的な状況に断固として挑戦し、ビデオ、パフォーマンス、インスタレーションの制作に傾倒した。これらの作品は保存のための努力にもかかわらず散逸し、多くが長い間見ることができなかった。

こうした韓国の前衛アーティストたちに焦点を当てた新しい展覧会「Only the Young: Experimental Art in Korea, 1960s-1970s」が、韓国の国立近現代美術館ソウル館での開催に続き、ニューヨークグッゲンハイム美術館で始まった(2024年1月7日まで)。そこで展示されている80点の作品からは、激動の狭間にあったアーティストたちが、当時の状況を色濃く反映した制作活動を行なった事実が見てとれる。ニューヨークの次は、ロサンゼルスのハマー美術館に巡回する予定だ。

グッゲンハイム美術館のアソシエイト・キュレーターで、今回の展覧会のキュレーションを担当したキョン・アンは、「これらのアーティストたちの人生は、極限的な変化の時代への回答でもありました。生き様がそのままアートになったのです」と語る。以下、キョンに本展について話を聞いた。

──これらの作品にはどのような歴史的背景があったのでしょうか?

ごく最近まで続いた、トラウマに満ちた現代史です。悪名高いベトナムへの軍事介入にも関わりがあります。同時に、急速な都市化と近代化の時代でもあり、またいわゆる中産階級が初めて台頭するようになった時期でもありました。そのすべてが国家主義的なイデオロギーと、国家が強化する一方だった検閲にぶつかりました。朴正煕が独裁政権の支配を強めていった暗黒の時代であり、それが1979年に朴大統領が暗殺されるまで続いたというのは、多くの人が認めるところだと思います。

──当時、韓国のアート界では何が起こっていましたか?

韓国のアートシーンでは、1950年代にアーティストのジェスチャーを重視する抽象絵画が大流行したのですが、次世代のアーティストは、こうした制作方法を保守的だと考え強く反発していました。自分たちの周囲にあった急進的な感覚を映し出すことのできる、まったく新しいアートへの道を模索したのです。

アカデミズムから離れ、自分たちの手で1から作る

──つまり、正規の美術教育に組み込まれていた抽象絵画運動に反発し、既存の体制によるアートのインフラから脱却しようとしたということでしょうか。

当時の実験的なアーティストたちに注目すると、展覧会を開くためのプラットフォームを自分たちの手で築き上げ、印刷物や雑誌の流通体制も1からつくり出したことがわかります。セミナーを組織し、海外の情報を読んで知ったこと、つまりヨーロッパ、日本、アメリカで同時期に起こっていた出来事について、活発に議論したのです。

これらの組織的な活動は、アカデミーの中央集権的な力に結びつくことなく、むしろそこから離れるように行われていました。当時の韓国のアート界で最大の中央集権的勢力だったのは、審査員を迎えて毎年開催される国展でした。当時発表された議論を見ると、アーティストたちの文章はもちろん、当時の批評家や歴史家の文章も、国家が運営する美術展が受け入れている類のアート作品に対して非常に批判的だったことがわかります。そこから離れる動きが活発化していったのです。

──今回の展覧会では、なぜ当時の若手アーティストに注目したのですか?

1960年代に抽象絵画がアカデミックな言説に登場し、それがメインストリームになっていたからこそ、非常に急進的だったと言えるアーティストたちです。抽象絵画はもはや、当時の新世代の若手アーティストたちが切望していた斬新さや新しさを反映するものではありませんでした。つまり、実験的なアーティストや作家たちにとっては敵だったのです。

私について言えば、展覧会のタイトルを決めるのに長い時間がかかりました。韓国では、実験的なアートを扱った展覧会の多くは、これまで反抗のためのアートという側面に焦点が当てられていました。私はむしろ、その方向は避けたいと思いました。多くのアーティストやさまざまな芸術運動がそうした状況を反映していましたが、若手アーティストを区別して取り上げたかったのです。

──アーティストたちがどのように成熟していくのかも描きたかったということですね。

アーティストは20代が中心で、中には30代前半だった人もいます。新しいものを創り出す勇気と洞察力、自分を信じること、何かを強く望む気持ち……そうしたものを、私は心から尊敬したいと思いました。

1960年代から70年代にかけての公演の記録はすべてモノクロですし、失われてしまった作品も多数あります。ある種のノスタルジアを感じずにはいられませんが、これらの作品を、まるで今日つくられたかのように見せたいと思いました。まさにそのように感じさせる作品ばかりだからです。

労働の現場にいるからこそ見えてくるもの

──当時のアーティストは、作品を制作し、仲間と集う場所を見つけるためだけでも、脅迫を受けるなどの物質的な制約がありましたし、検閲の対象となったアーティストもいたのですよね。

物質的な制限や困難は現実としてあったようです。結局のところ、戦争から抜け出したばかりの国だったという事実を忘れてはなりません。当時のアーティストの多くは自営業者として仕事を持っていました。後の世代からは、エリート主義的でブルジョア的なコンセプチュアル・アーティストと見なされたこともあります。しかし、社会の現場で働いていたからこそ、世の中で起きている物事との強いつながりを持っていたともいえます。

──インフラの不在が、アーティストとしての活動の一つの要素になっています。キム・クリム(金丘林) は、このような構造的な問題のテーマに取り組み、重要な作品を作りました。

キムは、アーティストだけでなく、役者やファッションデザイナー、映画関係者など、多岐にわたる分野の人たちが結成したグループ「第4集団」 のメンバーとして活発に活動していました。正式に活動したのはごく短期間でしたが、一連のパフォーマンスや公開討論を開催し、警察が介入することも珍しくありませんでした。キム自身も、大邱(テグ)で家族と一緒に取り調べを受けたうえ、自分は嫌がらせを受け、尾行もされたと公言しています。アート界においても、当時のアーティストたちは現実にこのような困難に直面していたのです。たとえば、キムが行った非常に有名なパフォーマンス《Phenomenon to Traces》(1970)は、国立近現代美術館ソウル館の建物を布で縛り、まるで墓地に埋葬するように、その端を地面に埋めるという構想でした。しかし実行して1日後には、撤去を命じられました。アートとはみなされなかったからです。キムは本作を通じて、これは古い美術館の死だ、と言いたかったのです。これに対して美術館当局は、作品の解体を命じました。

──展覧会で作品を紹介している別のアーティスト、チョン・カンジャもまた、マスコミや国家当局からの反発に直面しました。

チョンは、作品が現存していて、この展覧会で展示されている数少ない女性アーティストの一人です。1970年に開かれた個展は、すぐに中止されました。会場となった国家広報局は、多くのアーティストが展覧会を開催していた場所だったのですが、彫刻の展覧会を開催するという前提でスペースを提供したのにチョンが発表した作品はパフォーマンスでした。話が違う、ということになったのです。

今見ても、チョンは傑出したアーティストです。作品の多くは、当時女性が直面していたであろう矛盾をテーマにしています。私たちはチョンのパフォーマンスにばかり注目しがちですが、インスタレーションや彫刻もたくさん作っていたことを忘れてはいけません。ただ、月日の経過とともに多くが失われてしまったのです。

たとえばチョンの彫刻《Kiss Me》(1967)は、鮮やかにペイントされた巨大な唇とブロックのように並んだ歯の中に、切断された女性の頭と食器洗い用のゴム手袋が閉じ込められています。当時の女性はまだ、良き母、良き妻、良き娘であり、家族に忠実である儒教的な女性像に従うことを求められていました。

イ・カンソ(李康昭)の1973年のパフォーマンス 《Disappearance - Bar in the Gallery》 Photo: Courtesy Guggenheim Museum

変わり続ける都市、ソウルの過去と現在

──キム・クリムによる1969年の実験的映画《The meaning of the 1/24》は、展覧会でとりわけ重要な存在です。この映画の舞台はソウルであり、作品の主役とも言えます。展覧会の準備のために映画を見直して、どんな感想を持ちましたか?

キムは他の数人のアーティストと一緒にこの映画を製作しています。私には、当時のソウルのエネルギーや生活をそのまま映し出した作品だと感じられます。1秒間に224のフレームを一つひとつつなぎ合わせて構成しており、まさに移り変わり続ける首都のモンタージュというわけです。たとえば、新しく建設された高速道路など進歩的なイメージと、日常生活を送る人々のイメージを並置して、街のコントラストを描いています。この映画の興味深い点は、ソウルが過去と現在の狭間にある都市だとわかることです。これらのショットの間には、路上に寝泊まりする人影、廃墟と化した古い門、路上で花を売る高齢の女性の姿などが散りばめられています。時折、作品製作に協力したアーティストたちの姿が映る以外は、カメラが止まることはありません。繰り返し登場するのは、スーツを着た子どもです。この子どもが流れを中断させ、まっすぐにカメラを見つめる様子は、まるで、ソウルという都市の過剰な刺激に介入しようとしているかのようです。

この映画は1969年7月に公開される予定だったのですが、技術的な問題で中止となりました。キムは結局、作品のイメージのスライドを自分の身体に投影するという形で作品を発表しました。

──現存しない作品はどうなったのでしょうか?

アーティストたちは引っ越しに合わせて作品を処分することが多かったため、当時の作品の多くは現存していないのです。60年代の作品のほとんどは、所在を突き止めるのが本当に困難でした。ただ助かったのは、それらの作品がどのようなものかを示すアーカイブ資料があったことです。

──現在80代前半のイ・ゴンヨン(李健鏞) もまた、この展覧会に参加している中心的人物です。1975年に制作された《Logic of Hands》 では、手をさまざまな形にしてポーズをとっているアーティスト自身のモノクロ写真が4つの額に収められています。なぜイは重要なアーティストと言えるのでしょうか?

イの活動は実に多様でした。周囲の世界との関係を理解する方法として、主に身体を使ったパフォーマンスの作品を制作しました。今回のショーでは、イが「イベント-ロジカル」と呼んだ作品に絞って紹介しています。これはイのパフォーマンス作品のお手本のような作品で、印をつけたり、数を数えたり、歩いたり、立ったりといった日常的な身振りの繰り返しが、特定の論理的パラメーターの中で行われるというものです。イは、こうした身振りを社会的慣習から切り離してみせるのです。

興味深いのは、この作品が権威主義体制の絶頂期に制作されたという事実だと思います。当時の韓国では、国家はイデオロギーを通してだけでなく、身体的な領域にも影響を及ぼしていました。男性は長髪にすることが禁じられました。女性は大臣になることを許されませんでした。だから、この種の制限は日常生活の一部になったのです。イは、あからさまに政治思想を表現することは常に避けていますが、そうした文脈の中で作品を見るのは興味深いことです。

──パフォーマンスは、1970年代後半か80年代前半頃まで言説に登場しなかったとのこと。最初に登場したパフォーマンスはハプニングでした。イ・カンソが1973年にソウルの明洞ギャラリーで上演した《Disappearance》も初期の作品のひとつです。

イは行きつけの地元のバーからテーブルを持ち出しました。たばこの跡や、グラスを置いた後の輪の形がついたままで、このテーブルは、バーに残されたものすべてを表現していました。テーブルの表面から、そこに触れて関わった他の人たちの人生が放たれているように感じられるという事実が気に入ったのです。しかし、その後、それらは失われてしまったのです。イは当時の国際的な状況を、ニューヨークで行われていた「ハプニング」を知らなかったのではないかと思います。写真を見ると、ほとんど友人ばかりで、他人や家族が少し混ざっていました。日常生活のつかの間の経験のようなものを、じっくりと考え直した作品です。

──つまり、自分自身の経験から生まれた作品であって、当時の海外のアート・コレクティブの状況に反応して制作されたわけではないということですか? この作品が公に発表されたのは、1975年になってからのことでした。

当時は独裁政権の時代です。1972年には、大規模な集会を禁止する「維新憲法」が採択されたばかりでした。これにより、大学は閉鎖され、さらなる検閲の時代が始まりました。《Disappearance》は、アーティストや思想家が集まって自由に会話できる空間を作ることを意図していました。それはとても急進的な動きであったといえるでしょう。(翻訳:清水玲奈)

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