知っておきたい「抽象表現主義」 歴史と代表作家を一気におさらい──ジャクソン・ポロックからマーク・ロスコまで
1945年に終結した第2次世界大戦で世界の経済が壊滅的な打撃を受ける中、1国だけ例外があった。それが米国だ。そんな戦後の環境で生まれた抽象表現主義とは何か。そのルーツや時代背景、主要なアーティストについておさらいしてみよう。
第2次世界大戦では世界で7000万〜8500万人が亡くなり、ヨーロッパとアジアの数多くの都市が廃墟と化した。しかし、米国本土は戦争の被害をほとんど受けていない。厳密に言えば、太平洋では米国保護領の島々が日本の攻撃を受け、ドイツのUボートが米国東海岸の沖合に出没することはあったが。
インフラと産業が無傷のまま残った米国は、史上最強の軍隊に守られ、空前の好景気へと突入した。地政学的な主導権を握っただけではなく、文化的な影響力を高めるソフトパワーでも優位に立つことになる。
こうした時代の転換期に生まれたのが、真に米国生まれと言える初の芸術運動、抽象表現主義だ。世界の芸術の中心地はパリからニューヨークに移り、セザンヌ、マティス、ピカソに代わって、ポロック、デ・クーニング、ロスコといった新しい画家たちが、人々の心に根を下ろしていった。
戦後の米国にふさわしい芸術運動
抽象表現主義は、新しく覇権国家となった米国にとって、まさにお似合いの芸術だった。例外はありつつも(これについては後述する)、男性優位、女性嫌悪、同性愛嫌悪、人種差別的な傾向があり、時には体を張ったケンカに発展するほど白熱した議論が繰り広げられた。彫刻家もいたが、優勢なのは画家たちで、彼らの作品はメディアからも政府からも注目された。冷戦時代のプロパガンダ合戦が繰り広げられる中、米国政府はこの芸術運動を武器と見なし、米国における言論の自由の好例としてソ連の検閲と対比させたのだ。
抽象表現主義には、ウィレム・デ・クーニングの切り裂くような筆致から、マーク・ロスコの画面いっぱいに広がる色彩まで、幅広いアプローチがある。実際のところ、それは1つの決まったスタイルというよりも、アーティストの内面を絵の具で表現する、いくつもの方法の総称だった。感情や感覚は身振りによって具現化され、絵の具の使い方の中に作家の本質が凝縮される。
「アクション・ペインティング」とも呼ばれた画法は、イーゼルという枠をはみ出すダイナミックな動きを伴っていた。その特徴を、ヨーロッパでは「アメリカン・スケール」と表現したが、この言葉は世界的な米国の勢力拡大を連想させる。
旧世界と新世界
一言で言えば、抽象表現主義の台頭はモダンアートの本流を旧世界から新世界に移行させた。だがその一方で、この運動を支えていたのは80年以上にわたってパリをはじめとするヨーロッパで培われた思想だった。
パリが芸術の中心地として栄えたのは17世紀以降のことで、芸術の実践方法と表現形式のルールを定めるため、この地に王立絵画彫刻アカデミー(Académie Royale de Peinture et de Sculpture)が設立された時にさかのぼる。アカデミーは毎年サロン展を開催し、芸術のジャンルやメディウムに厳格なヒエラルキーを設けた。彫刻よりも絵画のほうが格上で、絵画の主題に関しては、国家の賛美や古典的な寓意(*1)が、他のジャンルよりも上だとされていた。
19世紀になると産業革命で社会は大きく変わり、旧態依然としたアカデミーの制度は時代遅れになった。アーティストたちは「芸術のための芸術」や「現実社会の描写」など、それまでになかった概念を追求し、過去に縛られた定型的な表現に反発するようになっていく。こうした革新の波が次から次へと押し寄せ、20世紀初頭に頂点に達する中、アーティストたちはルネサンス以来続いた視覚言語から完全に脱却していった。
この時期、キュビスム、未来派、抽象主義といった多彩な芸術運動が生まれたが、初期の前衛芸術運動の中で最も大きな影響を抽象表現主義に与えたのはシュルレアリスムだろう。それは精神の奥底を探究し、覚醒した意識が捉える日常を超えた、もう1つの現実を描き出すものだった。
特に重要だったのは、シュルレアリストたちが「オートマティスム(自動記述)」と呼んだ概念だ。これは、制作を行う時に意識による作為を捨て、無意識に委ねるという方法で、抽象表現主義者たちによるパフォーマンス的な技法のお手本となっている。最も顕著な例は、ジャクソン・ポロックの有名なドリップペインティングだ。
シュルレアリスムも抽象表現主義も、2つの世界大戦という未曾有の厄災への反応として生まれている。それぞれ異なる方法で潜在意識に入り込み、混乱に陥った世界の狂気を隠喩的な方法で、いわば悪魔払いしようとしたのだ。
しかし、時代背景を考えると抽象表現主義の見方も変わってくる。当時、米国の人々は共産主義の脅威に怯え、社会には心身に傷を負った帰還兵たちが次々と戦地から戻ってきていた。ある種の集団的トラウマを抱えていた米国の空気を、そのまま絵画に落とし込んだものと解釈すれば、実のところ抽象表現主義はさほど抽象的ではないのかもしれない。
抽象表現主義とシュルレアリスム
シュルレアリスムと抽象表現主義につながりをもたらしたのは、戦時中にナチスの脅威からニューヨークへと逃れたヨーロッパの作家たちだ。その中には、シュルレアリスムの中心的メンバーだったマックス・エルンスト、イヴ・タンギー、アンドレ・マッソンのほか、運動の主導者を自認し、そのイデオロギーの執行者でもあったアンドレ・ブルトンがいた。
大人しく様子見をするタイプではないブルトンは、ニューヨークに来てからも積極的に活動している。自分を慕ってやってきたアルメニア出身の画家、アーシル・ゴーキーが描いた《肝臓は雄鶏のとさか(The Liver is the Cock’s Comb)》(1944)を見て、彼を真のシュルレアリストであると認定し、「アメリカで描かれた最も重要な絵画の1つ」だと称えた。ゴーキーは、ポロック、デ・クーニング、ロスコらとともに、抽象表現主義発展の鍵を握る存在となる。
ゴーキー(1904-48)は抽象表現主義と関連深い作家だが、ブルトンが彼をシュルレアリストと呼んだのは正しい。ジョアン・ミロやタンギーと同様、ゴーキーも夢に出てくる生命体のような抽象的な形を描き、フランスの色彩主義を米国に持ち込んだ。だが、彼がその後の抽象表現主義作家にとって重要な先駆者だったことは間違いない。
円熟期の作品でゴーキーは、柔らかな色彩の塊や、どことなく女性器を思わせる形態を、ひょろひょろとした線で囲んだり、つないだりしている。その間を埋めているのは、ぼかした筆致と薄めた顔料がカンバスを滴り落ちていった痕跡だ。
さまざまな表現方法を駆使するゴーキーの作品は、まるでごちそうが並ぶビュッフェのように、抽象表現主義の作家たちにアイデアを提供した。特に影響を受けたのは、かつてゴーキーとスタジオを共有していたデ・クーニングや、彼の元生徒だったロスコだろう。
ゴーキーの個人的なエピソードもまた、この時代のアーティスト像と合致している。内面の葛藤を混沌とした絵画表現に昇華するという、苦悩する芸術家のイメージそのものだったのだ。彼は(オスマン帝国による)1915年のアルメニア人虐殺から逃れ、母親が餓死したという過去があり、やがて彼は首をつって自ら命を絶ってしまう。
ゴーキーからポロックへ
ゴーキーとはまた違うが、似たような自己破壊的傾向を持つ人物に抽象表現主義の代表的作家、ジャクソン・ポロック(1912-56)がいる。ポロックは、ゴーキーの作品を軽蔑しており、無骨で独立独歩な自分こそが米国の現代美術を象徴する存在だと考えていた。
ポロックの生まれは米国西部のワイオミング州コーディで、アイルランドとスコットランドにルーツを持つ父親は、農業を営むかたわら副業で測量技師をしていた。そうした生育環境が、マールボロの広告に出てくる男らしいカウボーイの芸術家版という、ポロックの自己イメージを形成した。
しかし、実際の彼はアルコール依存症で、おそらく性的指向を隠し、不安に苛まれていた。彼は、超保守派でリージョナリズム(*2)の画家だったトーマス・ハート・ベントンに師事していたこともある。ベントンはモダニズムを批判していたが、彼の起伏に富んだ構図は、やがてポロックによって純粋でエネルギッシュな抽象画に変換されていった。
ディエゴ・リベラの巨大な壁画やピカソにも触発されたポロックは、彼らを追い越そうと野心を燃やした。彼にとってピカソは、米国独自の偉大な芸術を達成しようとする自分の前に立ちはだかる唯一最大の壁だった。彼の妻で、自身も画家だったリー・クラズナーによると、ポロックはある時、ピカソのカタログをアトリエに放り投げ、こう叫んだという。「ピカソが全部やり尽くしちまった!」
ポロックが一方的にピカソをライバル視していた状態は1947年まで続く。その年、彼はロングアイランドのスプリングスにある小屋で新たな試みに着手した。カンバス地を木枠に張らず直接床に広げ、その上にエナメル塗料を垂らしたり、投げつけたりした。そして、スピードと姿勢を変えながらカンバスの周辺を歩き回り、その上に絡まる糸のように線を描く。いっさいの形式を拒み、画面全体を均質に処理する「オールオーヴァー」のアプローチだ。
彼の仕事に注目したライフ誌は、49年に「ジャクソン・ポロック:彼は今日のアメリカで最も偉大な画家なのか?」という記事を掲載している。かくしてスターが誕生し、「ジャック・ザ・ドリッパー(*3)」の伝説が生まれた。
しかし、これに続く新たな作風を確立するのは難しく、ポロックは時にピカソを想起させる具象的表現に回帰していった。スプリングスでドリップペインティングに取り組んでいる時期は酒を控えていたが、またアルコールに依存するようになり、酒酔い運転による交通事故で亡くなっている。
デ・クーニングとロスコ
具象的表現は、必ずしも抽象表現主義と対立しない。それを追求したウィレム・デ・クーニング(1904-97)の激しい画風には、毒々しいほどの男性的な活力が漲っている。オランダ生まれのデ・クーニングは、ゴーキーと同じく移民だったが、彼の場合は1926年に密航者として米国に渡り、バージニア州のニューポートニューズで船を降りた不法入国者だった。
彼の最も有名な作品群は、怒りに任せて筆を走らせたかのような女性像だ。彼女たちは威嚇的でありながら輝いており、光を放つ炉心のように危険な魅力がある。聖女と娼婦という二項対立を融合させたこれらの女性像は、女たらしのデ・クーニングらしい作品と言えるだろう。認知症を患いはしたが、92歳で亡くなるという長寿だった。
一方、マーク・ロスコ(1903-70)はラトビア系ユダヤ人で、10歳の時に米国に移住し、オレゴン州ポートランドで育った。北西部で育ったからなのかは分からないが、ロスコの円熟期の作品はどこか風景を思わせる。段階的に重ねられた色面は、まるで地平線で区切られた大地と空のようだ。
巧みに重ねられた色彩は、光の放射のようにも見える。自分の絵は、制作中の宗教的な体験の記録であり、鑑賞者にも同じ感覚を引き起こすことを目指しているとロスコは語っていた。そうした体験に最も適しているのが、テキサス州ヒューストンにある美術館、メニル・コレクションに隣接するロスコ・チャペルだ。そこでは、灰色がかった深い紫色の作品群が、瞑想のための静謐な空間を作り出している。しかし、ロスコは慢性的なうつ病に悩まされ、他の同世代のアーティストと同様、自ら命を絶った。
再評価され始めたアーティストたち
ここまで名前を挙げてきた作家たちが、一般に知られる抽象表現主義の発展に不可欠な存在だったことは間違いない。だが、近年の研究によって、これ以外のアーティストにも光が当たりつつある。男らしさを競うかのような主流派の外にいながら、この運動に貢献した作家たちは、実は常にそこにあった多様性を反映していた。その中には女性、アフリカ系アメリカ人、LGBTQのアーティストが含まれている。
たとえば、リー・クラズナーは気難しいポロックの妻という枠に収まらず、自らも記念碑的な野心作を多数生み出した。ヘレン・フランケンサーラーは、抽象絵画表現主義から「カラーフィールド」と呼ばれる潮流への移行に貢献している。ヘッダ・スターンは、「The Irascibles(怒れる者たち)」として知られる抽象表現主義作家らの有名な集合写真に写っている唯一の女性アーティストだ。
また、カリブ諸島にルーツを持ち、ハーレムに生まれたアフリカ系アメリカ人のノーマン・ルイスは、公民権運動の戦いを作品の中で表現した。さらに、同性愛者のブラッドリー・ウォーカー・トムリンやベティ・パーソンズは、アーティストであると同時に、ポロックやデ・クーニングなどが最初に作品を発表したギャラリーの運営者でもあった。
抽象表現主義では、アーティストがその極端なまでのアーティスト的気質を、常に針が振り切れるまで発揮することを期待されていた。そうした運動を長続きさせるのはいささか無理があったし、特に戦後のアメリカ社会で企業文化が勢いを増してくると、新しく台頭してきたポップ・アートやミニマリズム、コンセプチュアリズムの方が時流に合うようになる。
それでも、抽象表現主義の作家たちは、アメリカ例外主義(*4)を芸術に変えた最初のアーティストたちとして、今なお歴史上の大きな位置を占めている。
(翻訳:野澤朋代)
※本記事は、米国版ARTnewsに2022年5月23日に掲載されました。元記事はこちら。