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私はまだ絵を描いているし、描くことができる──84歳の画家ジョーン・スナイダーの果てしない実践

1970年代の初めに「ストロークペインティング」で頭角を表したジョーン・スナイダー。今年2月には世界的な大手ギャラリー、タデウス・ロパック契約を交わすなど、80歳を超えてなお、さらなる活躍が期待される画家の独創性を、美術評論家で詩人でもあるバリー・シュワブスキーが解説する。

スタジオでのジョーン・スナイダー Courtesy Joan Snyder

ジョーン・スナイダーの抽象画が放つ確固たる明確さ

2024年1月から2月にかけて、ニューヨークのカナダ・ギャラリーでジョーン・スナイダーの個展「ComeClose(近づいて)」が開催された。展示が終了する前にもう一度じっくり見ておこうとギャラリーに向かう途中、たまたま立ち寄った近くのギャラリーで若手画家の個展を見たのだが、そこに並ぶ作品に魅力を感じつつ、抽象的な要素と具象的な要素のおずおずとした組み合わせ方には納得がいかなかった。それが引き金となり、私はスナイダーの展覧会を見直しながら、過去40年近くにわたって彼女の作品を見続け、時に彼女と議論を交わしてきた中で一度も頭に浮かばなかったことに思いを巡らせていた。そのとき突如として閃いたのは、スナイダーの作品にはごまかしや逃げの姿勢が一切ないという、極めて重要な気づきだった。

絵筆でつけられた跡の上にもう1つの筆跡が重ねられているとき、それは常に「筆でつけられた跡」以外の何ものでもない。つまり、ある特定の色合いの、ある特定の量感を持つ絵の具をのせた筆を引いた跡として提示される。同様に、バラを表現した絵の具の塊は、どれだけ量感があり、盛られた絵の具として存在感を主張していたとしても、常に明確にバラを表現している。彼女の絵画《Grounding(基礎)》(2022-23)では、半透明の赤い絵の具を垂らした白い塊がそれにあたる。

こうした確固たる明確さが、私がスナイダーの作品を見たときに大きな喜びを感じる理由の1つだ。スナイダーの作品の中にあるものは、全て偽りなくそれそのもので、それを見ていると私自身の在り方についても「これで良いのだ」と思えてくる。そう言うよりほかに、この感覚をどう説明したものか分からない。そして、スナイダーの絵画に描かれているものが、同時に2つのもの(あるいはそれ以上のもの)である場合——たとえば絵の具の塊でありながらバラでもあるなど——それははっきりと、何の言い逃れもなく、等しくそれら全てのものなのだ。ほんの少しだけ別の要素を混ぜ合わせて仄めかしたり、言葉を濁したりすることは絶対にない。

スナイダーは一貫して妥協のない姿勢で仕事に取り組み続けてきたが、その作品は以前より広く知られるようになっている。これまで海外で2、3回個展を開いただけで、ほとんどアメリカ国内だけで作品を発表してきた彼女は最近、ロンドンパリ、ザルツブルグ、ソウルに拠点を置く大手ギャラリー、タデウス・ロパックと契約を結んだ。今後はきっと、世界各地で展覧会が開かれることになるだろう(アメリカでは引き続きカナダ・ギャラリーが彼女の作品を扱う)。

だたし、スナイダーの絵画にもある種の曖昧さは存在する。そしてその曖昧さは、彼女の絵画にとって特に重要な意味を持つ。それは何かというと、「to paint」という動詞の中にある曖昧さだ。私が「I painted my bedroom」と言った場合、部屋の壁をペンキで塗ったのか、部屋の絵を描いたのか、文脈をはっきりさせなければ判断できないだろう。それとは対照的に、「I painted a rose」と言ったとき、通常そこに曖昧さはなく、バラの絵を描いたと解釈される。

ジョーン・スナイダー《Soulcatchers》(2023) Photo: Adam Reich/Courtesy Canada, New York

しかし、そうでない場合もある。1951年のディズニー映画『不思議の国のアリス』の挿入歌「Painting the Roses Red(バラを赤く塗ろう)」を思い出してほしい。ハートの女王の好みの色に変えるために、3枚のトランプたちが白いバラに文字通り絵の具を塗りたくりながら歌っている曲だ。それと同様に、スナイダーは「描く」と「塗る」両方の意味でバラをペイントする。彼女の作品には絵の具の塊で描かれたバラも登場するが、2023年に制作された《My August(私の8月)》や《Soulcatchers(ソウルキャッチャー)》では、カンバスに貼り付けられた本物のバラが絵の具で塗られている。

彼女はコラージュしたバラのつぼみを赤く塗ることが多いが、『不思議の国のアリス』のトランプたちとは違い、何色で塗るかは彼女の自由だ。だが私は、赤く塗られた赤いバラに最も心を動かされる。なぜなら、同色の反復が自然らしさと作為の共存を強烈に印象付けるからだ。このような形で赤く塗られたバラを見たとき、私たちは軽く目眩を覚えるような領域に引き込まれる。それは、詩人マリアン・ムーアの「本物のヒキガエルがいる空想の庭」という詩の定義や、ブライアン・イーノの1975年の名盤『アナザー・グリーン・ワールド』の中の1曲「ゴールデン・アワーズ」に出てくる「ブドウの房を蔓に戻す(putting grapes back on the vine)」という歌詞に通じるものがある。イーノのこの表現は、偉大な芸術作品の中にある構築された自然らしさを的確に捉えていると言えるだろう。

《Summer Orange(サマーオレンジ)》(1970)や《Smashed Strokes Hope(スマッシュド・ストロークス・ホープ)》(1971)など、スナイダーが作家として頭角を表すきっかけとなった1970年代初頭の絵画では、筆あとが強調されている。1960年代半ばに絵筆のストロークを人工的なものに変換し、コミック風に表現したロイ・リキテンスタインとは異なり、彼女は筆あとをありのままのものとして、同時にそれ以上のものとして、確信を持って示してみせた。2005年にニューヨークのジューイッシュ・ミュージアムで開催された彼女の回顧展の図録に寄せた文章の中で、美術史家のヘイデン・ヘレーラはスナイダーの制作プロセスをこう説明している。

「アクリル画材で描いたストローク(それは透明の場合もある)が乾くと、スナイダーはそこにスプレー塗料を吹きかけてオーラのようなものを加えるか、アクリル絵の具か油絵の具でその上に色を塗り重ねます。(中略)彼女は、塗装工が家の壁にペンキを塗るように、絵の具のストロークの上に色を塗っていました」

つまり、スナイダーは絵筆の跡を別の方法でなぞり、当たり前のものに作為を加えることでそれを再認識させるのだ。

ジョーン・スナイダー《Smashed Strokes Hope》(1971) Photo: Courtesy Metropolitan Museum of Art, New York

アンソロジー的な作品を構成する「ストロークとグリッド」

スナイダーの絵画は、さまざまな部分で構成されるひとまとまりの総体としてではなく、独立して存在する個別の事物の集積に見える。それゆえに、彼女の描く事物の確固たる実在性や本質性は、作品のなかでより重要なものになる。たとえば、若手作家のハンナ・ビアマンは、スナイダーの絵画に惹かれる大きな理由として各部分の相対的な自律性を挙げ、こう説明している。

「彼女の描く四角形や線は、互いの領域に足を踏み入れたかと思うと、また一歩下がります。それらのパーツは、絵画のある部分が他の部分に対してどんな責任を負っているのかを探っているようです」

一体どんな責任かと問うと、彼女はこう答えた。

「パーツがその答えを伝える必要はないんです。誰に対しても」

スナイダーが花のイメージを好んで描いていることを考えると、私は彼女の絵画的な集合体、あるいはコンピレーションを、それぞれ1つのアンソロジーと呼びたくなる。というのは、あるオンラインの語源辞典によると、アンソロジーとは「花」を意味する「anthos(アントス)」と「コレクション、収集」を意味する「logia(ロギア)」に由来する言葉で、文字通り「花を集める」ことだからだ。ちなみに、現代的な意味でのアンソロジーは古代ギリシア後期に生まれた比喩表現で、さまざまな詩人が書いた短い詩、つまり「花」を集めた作品集のことを指すところから来ている。

スナイダー作品のアンソロジー的でパッチワークのような特徴は、カナダ・ギャラリーの個展で中心的な位置を占めていた作品の1つ、《Grounding》にもよく表れている。横長のこの絵は6つのグリッドに分かれているが、上段と中段を構成する4つのゾーンは、ほかの画家だったら個別の4枚の絵画に仕立てていたのではないだろうか。

上段の左には、カンバスの上に貼り付けられた黄麻布の上に、水平に引かれたストロークが縞模様のように並び、隣り合った色同士が互いに溶け込んだり、重なり合ったりしている。右側の部分では、のどかな緑と黄色の野原に白と黄色の花が散りばめられ、ところどころに茎を思わせる小さな青い筆あとが添えられている。上段のこの2つの「画中画」の下には、ほとんど手を加えられていないカンバス地が帯状に残され、いくつかの短い筆あとの重なりが点在している。白い線の上に赤い線が重ねられ、青い線の上に白い線、そしてその上に青い線が重ねられた筆あとは、まるで脚注のようだ。

ジョーン・スナイダー《Grounding》(2023) Photo: Adam Reich/Courtesy Canada, New York

中段にはさらに2つの花畑があり、左は赤地に白の花、右は白地に赤の花が描かれている。ところが、白地は境界を越えて左側の赤いゾーンに染み出し、この絵画が持つ暗黙の内的秩序を乱している。白が境界線からはみ出した部分を見ると、紫がかった曲線の塊が2つ、薄く描かれている。それらはイーノが蔓に戻したかったブドウかもしれない。そしてまた、この中段の下にも、むき出しのカンバス地にいくつかの色彩の脚注が配されている。

そして下段は、上の2つの段で採用されていた左右の区分を踏襲しながらも、より複雑な構成になっている。左側には、暗い土のような色面の上に、白い小花が散りばめられ、中央には同心円状に広がっていくピンクの半円の筆あとが、向かい合うような形で描かれている。このダリアのようなピンク色の花束と似た丸い形が下段の右端にも配置されているが、その部分は6等分された長方形の半分の面積になっている。額装されたように見えるこのイメージは明らかに正方形で、鑑賞者にこの作品の6つのゾーンが全て2つの正方形でできていることを気づかせる。《Grounding》の大きさは54 × 72インチ(約137.1 × 182.8 cm)で、18インチ(45.7cm)の正方形12個を縦に3つ、横に4つ並べた大きさに相当する。つまり、この作品には確固とした数学的基盤があるのだ。

この合理的な幾何学構造が、生命エネルギーと自然の豊かさへの叙情的な賛歌を下支えしている。さらに、この絵にとって重要な意味を持つのが、肉感的なピンク色の花束のような筆あとが対になっている下段中央の部分だ。これは、スナイダーも関わっていた1970年代初頭のフェミニズムアートの大きなうねりの中で、美術評論家のルーシー・リパードらが論じていた「中核的イメージ(central imageryまたはcentral core imagery:女性器を仄めかすイメージ)」であることは間違いないだろう。その意味でスナイダーの《Grounding》は、女性の腹部と局部を描いたクールベの《世界の起源》(1866)に近い作品だが、それよりもさらに広範なものを包含している。

楽譜のような作品が「色彩や自然について語りかけてくる」

《Grounding》のような作品について考えるとき、70年代初頭にスナイダーが取り組んでいた「ストロークとグリッド」のペインティングを念頭に置くと、50年以上にわたって彼女がどれほど一貫した姿勢を保ち、ぶれることのない視点で実践の幅を広げてきたかが理解できる。カンバスの上に筆で印をつけ、そこにまた印をつけ、印を修正しながら自らの衝動を拡大させていく。このような方法は、彼女の作品がそれまでの過程にとらわれず、かつ過程に忠実であることを意味している。最近スナイダーが私に明かしてくれたところによると、「同じ絵を何度も描きたくはなかった」という。

スナイダーはほかの画家たちの仕事も意識しているようだが、だからといって、彼らの実践を従うべきルールとして取り入れることはない。また、同時代の画家や先駆者の領分を侵犯することになると考えて、自身の絵画で使えそうな方法をあえて避けることもない。彼女の作品の中では、フローリン・ステットハイマーのような華やかで装飾的なスタイルがアンゼルム・キーファーを思わせる泥の塊と隣り合わせになることもあるし、ロラン・バルトサイ・トゥオンブリーの作品の中に見出した開放的な間の取り方とロバート・ラウシェンバーグの雑然としたパッチワークが共存し、モーリス・ルイスの色彩の流動がエヴァ・ヘスの物質的な凝集と調和することもある。

ジョーン・スナイダー《Summer Orange》(1970) Photo: Courtesy Harvard Art Museums, Cambridge, Mass.

とはいえ、スナイダーのスタイルは誰にも似ていない。「英雄視している現代アーティストはあまりいない」と言いつつ、彼女は最も親近感を覚えるアーティストとして故アイダ・アップルブルーグの名を挙げた。また、「正直なところ、ほかのアーティストの作品を見るよりも、音楽を聴いて学んだことの方が多い」と語る彼女は、ピアニストのシモーヌ・ディナースタインが演奏するバッハや、現代音楽の巨匠フィリップ・グラスのコンサートを聴くときも、スケッチブックを開く。そして、そこで描き留めたアイデアを何年も経ってから絵画の中に取り入れることがある。絵画で複雑さを探求し、「1つの思考の中にある、それぞれ違う2つや3つの側面を見つけること」が好きなのは、音楽をインスピレーション源としているからだと彼女は考える。彼女の表現を借りれば、「1つの音楽の中には、実にさまざまな感情、感覚、色彩、テンポがある」のだ。

その音楽性は、作品の中にはっきり表れている。スナイダーの作品に魅了されたもう1人の年下の画家、アンディ・ロバートはこう表現する。

「ジョーンの色使いには詩とリズムがあり、構図には音楽と即興的な構造があります。彼女の絵画は楽譜に似ていて、色彩、自然、音楽、風景について語りかけてくるのです」

こうした多面性を持つことで、スナイダーは作品が持つ長い歴史に背を向けることなく、作品を更新し続けることができる。チェルシー地区にかつてあったギャラリーで2001年に開催された個展「Primary Fields(原初の領域)」の図録の中で、スナイダーはこんな文章を書いていた。

「前に進むためには、強く押し返すことも必要ではないかと思う。絵画に対する私の考え方の根底にある思想──構造について、応用について、意味について、素材についての思想を再確認するために。(中略)私は今も明晰さ、純粋さ、本質を探し求めているが、そのために何かしらのやり方を犠牲にしようと思ったことはない。深みや豊かさ、厚み、暗さ──筆の荒々しい流れ、素材をカンバスに塗るときの有機的な軌跡──への欲求を犠牲にしようとも思わない。そして常に、意識的にコントロールの手綱を引いたり緩めたりしている」

彼女の信念をこれほどよく表した言葉はないだろう。絵を描くということは、どこの誰か知らない誰かとの約束や、どこから来たのか分からない突拍子もない推量を信じることだという信念。そして、反駁し合っているもの同士はきっといつか和解し、制御と自発性、明るさと不明瞭さ、出発点と目的地がすべて一緒に、同時に、かつ溶け合うことなく、存在を超えた存在として顕在化するだろうという信念を。

ジョーン・スナイダー《My August》(2023) Photo: Adam Reich/Courtesy Canada, New York

それは、スタンダールの名言の中で美と同義とされている「幸福の約束(promesse de bonheur)」が、実際のところ何を約束しているのかについての1つの説明になるかもしれない。つまり、現在の私たちに許されている在り方よりも豊かな、もっと生き生きとした在り方だ。こうしたことを踏まえながら、スナイダーの仕事の解説者として最もふさわしい人物の1人は、2018年にウーマンズ・アート・ジャーナル誌に寄せた文章を次のようにまとめている。

「アーティストとして仕事をしているとき、あなたは創造主の役割を引き受けている。あなたは自分自身の女神なのだ」

この言葉は、スナイダーの娘で、私をさまざまな人たちと結びつけてくれたモリー・スナイダー=フィンクによって書かれたものだ。私たちがみんなずっと若く、ブルックリンのパークスロープ地区で隣人同士だった1990年代、モリーはよく私の娘の子守をしてくれた。そして、私は2人に出会う前からスナイダーの作品についてよく書いていたし、書く前からそれに魅了されていた。

現在84歳になったスナイダーは、新たな地平を見据えながら私に言った。

「まだ絵が描けることを自分自身に証明しなければと決意したものの、どうやったら自分を奮い立たせて、また絵を描けるようになるんだろう? もう限界かもしれない」

だが結局のところ、まだ限界ではない。彼女もこう続けている。

「とにもかくにも、私はまだ絵を描いているし、まだ描くことができる」(翻訳:野澤朋代)

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