ARTnewsJAPAN

「予測しきれないことが、むしろ陶芸の本質」──近藤高弘が語る「オリジナル」の探求

いま日本では、伝統工芸と現代アートをつなぐ試みが各所で行われている。11月2日から5日に京都で開催される「日本の美術工芸を世界へ 特別展『工芸的美しさの行方―うつわ・包み・装飾』」もその一つ。本展の出品作家であり、人間国宝の祖父と陶芸家の父のもと、卓球選手から自身も陶芸家に転じた近藤高弘に、独自の表現を切り拓いてきた道のりを聞いた。

──近藤さんのお祖父さま(近藤悠三)は陶磁器染付で人間国宝の認定を受けられています。また伯父さま(近藤豊)とお父さま(近藤濶)も陶芸家として活動されてきました。現在のご自身の活動のなかで、お三方のことをどのように参照されているのでしょう。

祖父である悠三は、陶芸家・富本憲吉の思想に影響を受けて、個人作家としてロクロ(成形)から絵付けまで一貫作業の中で自らのカタチや絵を構築し、「近藤悠三の染付」スタイルを確立しました。

父の濶は、悠三の染付の伝統を受け継ぐ形で作品を制作していましたが、同じスタイルの中に個性を表現することに苦心していました。一方、伯父の豊は、祖父とは違う独自の世界を構築しようとしていましたが、芸術上の悩みで自害してしまいました。

伝統を継承することと、オリジナルを追求すること。自分が創作ということと向き合う時、この二人の陶芸家としての在り方を考えます。

──卓球選手という違う道に進まれていましたが、1984年には陶芸の道に入られます。

25歳で、京都に戻り陶芸の道に進みました。それまで、中学から大学、そして実業団まで卓球選手としてスポーツの世界で生きていました。卓球で学んだ心技体を鍛えることの重要性は、陶芸の世界にも共通すると感じています。特に陶芸を始めて5~6年は、基礎となる技術を身につけるため父のもとで修業をしていました。

そして、ようやく世に出せるような染付の仕事ができた頃、1990年にブラジルのサンパウロで作品を展示する機会を得ました。そこで、現代アートの作家たちと交流する中、「なぜ青で壷に描くのか?」「なぜキャンバスに描かないのか?」と尋ねられ、当たり前に家の仕事をしていた自分は何も答えられませんでした。

この経験は、個人作家として独自の世界を創るという在り方を考えるきっかけとなりました。

──そこから、伝統的な焼き物と並行してご自身の作家活動を探究されたのでしょうか?

ブラジルから帰ってきてから、2年くらいは実験的に絵を描いたり、自己の内面を見つめたりしながら、試行錯誤を繰り返していました。

ようやく、方形の形に抽象的な染付の可能性を感じられるようになり、1994年、京都で「Time and Space-時空壷」という幾何学抽象的なオリジナルの染付作品を発表することができました。翌年の1995年には、スコットランド国立美術館にて同シリーズの個展が行われました。

この頃には、ロクロによる器の仕事からは離れ、造形的な作品を志向していました。

──その後、銀を陶磁器に合わせる技法「銀滴彩」を開発されています。

私の中には「相反するものを融合する」というテーマがあります。自分が京都という町に生まれ感じたことをもとに制作した「Time and Space」にも、その要素が流れています。千年以上の歴史をもつ京都には、寺社仏閣や町屋の横にビルが立っているようなコントラストが存在し、古いものと新しいものが渾然一体となっています。そんな都市の変貌をイメージソースにしながらつくり上げた作品でした。

では、陶芸における相反する要素とは何か。この「Time and Space」の制作と同時期に、「火」の対極にある「水」を表現できないか? と思い、生み出したのが銀滴彩です。調合した銀泥を窯で結晶化させて滴のように表出させる技法です。これを「Silver Mist」と名付け、2000年にニューヨークにて発表しました。

──その後、ガラスの素材を使った作品にも、取り組まれています。

文化庁派遣芸術家在外研修員として、エジンバラ芸術大学に留学したときに、ガラスという素材に出会いました。新しい造形の可能性を考えていたところ、ガラスを見たときに、これは「氷」だなと思ったんです。

「火から生まれる水」のコンセプトに沿う素材だと思い、キャストの技法を学びました。そして、気体・液体・固体と天と地を循環する「水」のイメージを、磁器・ガラス・銀滴彩の組み合わせで作ったのが「Monolith」シリーズです。

この英国留学で良かったのは、当時ヤング・ブリティッシュ・アーティストたちの台頭によりロンドンを中心に盛り上がりつつあったアートシーンを目撃できたことでした。ダミアン・ハーストやアニッシュ・カプーアなど、現代美術・造形作家の活躍を目の当たりにしました。2000年代は、陶芸の可能性がどこにあるのかを、考えさせられた時期でした。

──2013年には、東日本大震災をきっかけとしたシリーズ「Reduction」を発表されます。ご自身の身体を型取りし、さまざまな技法で彩られたこのシリーズは近藤さんの集大成のようにも見えます。

2000年代の終わりに、実は陶芸を辞めようと思っていました。その終止符にしようと思っていたのが「Reflection」というセルフポートレートのシリーズでした。自分の顔を鋳込みと呼ばれる技法でうつし取り、そこに染付から「Time and Space」、銀滴彩といった私の全ての表現技法を施したものです。これを2010年に日本、2011年にアメリカのニューヨークのバリー・フリードマン・ギャラリーで発表したのですが、その展示が終わった直後に震災が起きました。

陶芸には焼くこと、乾燥させることなど、自分の手から離れる制作工程があります。その予測しきれなさが一つの理由で、陶芸から離れようと思っていたわけです。

しかし、地震や津波、そして原発の事故によって、改めて「自然と人間との関係性」を問い直すこととなりました。火・土・水・空気など、そういう自然の要素を扱う陶芸においては、予測しきれないことによる生成が、むしろ陶芸の本質であり、改めて向き合っていきたいところだと再認識させられました。それは、自然が自分の制作に間接的に介入しているということであり、無作為という作為が造形の魅力に繋がる可能性があると考えるようになったからです。

Reduction」は、そんな思考プロセスの中で「Reflection」を発展させた作品です。今回「工芸的美しさの行方うつわ・包み・装飾」に出展する「白磁大壷」のシリーズも、偶然の要素が介在したり、作為と無作為が交錯したりするような作品を目指して制作しています。昨年、京都花背にも新たな「登り窯」を造りました。

土や火の持っている本質性、如意・不如意の造形を追求していきたいと思っています。

──世界的にも工芸に注目が集まりつつあります。

私が陶芸をはじめた1980年代とは、大きく状況は変わりました。工芸というフィールドからも、国際的に活躍する新しいアーティストが出てくるのは、とても嬉しいことです。閉じていたものが開けてきたようにも感じます。工芸作品のアートマーケットが広がるにつれて、工芸を入口にして日本が持っている文化的背景にアクセスできることも魅力に繋がっているのではないでしょうか。

現代アートとクラフトという領域が往還することで、これまで掬いきれなかった価値観が生かされる可能性があると思っています。

──伝統工芸という観点からいうと、近藤さんは、受け継がれてきた染付という技術を残したいという気持ちをおもちなのでしょうか?

これまで、4人の弟子が卒業しましたが、それぞれ自分の目指す方向性の仕事をしています。誰も染付の作品は作っていません。また、私には息子がいますが、陶芸の仕事や染付の技術を継承させようと思ったことはありません。

技術の伝承は大切なことです。しかし、本人が本気で向き合ってこそ、その技術は生かされて行くと思っています。

──染付は、「一子相伝」のような技術ではない、と。

「銀滴彩」を例にあげると、実は「銀滴彩」は特許(2004年)をとっています。理由は、自分が歴史的にオリジナルであることを証明しておきたかったからです。ただ同時に特許をとることで、技法の詳細はすべて公開されています。材料の調合や温度などノウハウはもちろんありますが、これもそこまで難しい技術ではありません。しかし、作品として昇華できるかは別の話です。

染付も同じです。技術やノウハウを教えることはできますが、その染付作品が魅力を放つことができるかは別の問題だと思います。

Photos: Hirotsugu Horii Text: Shinya Yashiro

あわせて読みたい