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わいせつか芸術か。アメリカで急増するアート検閲から表現の自由を擁護するNPOの活動を追う

社会の分断が進むにつれ、人種やジェンダー、政治、宗教などをテーマとしたアート作品が検閲を受けるケースが増えている。そうした検閲に巻き込まれたアーティストやキュレーターを支援する非営利団体は、どんな姿勢で問題に対処しているのだろうか。いくつかの事例について関係者に取材した。

ザンドラ・イバラ《Spictacle II: La Tortillera》のスチル画像(2014)。Photo: Courtesy the artist

検閲されたアーティストの擁護プログラム

2020年2月、アーティストのザンドラ・イバラは、受け取ったショートメッセージを見て驚いた。送り主は、テキサス州サンアントニオにあるセントロ・デ・アルテス・ギャラリーのキュレーターで、その週に始まるグループ展にイバラが出品するはずだった映像作品を展覧会から外すという知らせだった。

長さ4分のこの作品《Spictacle II: La Tortillera(スピクタルII:ラ・トルティエーラ)》(2014)では(*1)、イバラがバーレスクダンサーの「ラ・チカ・ブーム」として登場し、セクシーなパフォーマンスを繰り広げる。メキシコ系アメリカ人のジェンダーと人種のステレオタイプを扱った彼女のパフォーマンスは、股間にチリソースのボトルを括り付け、トルティーヤに向けてそれを射精することでクライマックスに達する。イバラはあえて卑猥な表現を取り入れることで、性や人種に関する「お約束」を痛烈に揶揄しているのだ。


*1 Spictacleとは、アメリカでヒスパニックの蔑称として使われるspicとスペクタクルをかけた言葉。

彼女がこの知らせを受ける少し前の2019年12月、展覧会のキュレーターたちは出品予定の全作品の画像とリンクをサンアントニオ市当局に送り、承認を求めていた。その時点では《Spictacle II: La Tortillera》に対して何の懸念も示されなかったが、作品が会場に設置された後になって芸術文化担当責任者のデビー・ラカ=シトレが不承認の意を表明し、作品の前にカーテンを設置するほか、内容に関する注意文を掲示するよう要求。キュレーターたちはその求めに応じることにした。

ところがイバラによれば、展覧会の開始直前に作品は市の法務官、アンディ・セゴビアのチェックを受けることになったという。「セゴビアは、私の映像作品がテキサス州の法律に反しているという声明を出し、それを『わいせつ』だと断じたのです」

地方都市の小さなアートスペースで起きた作品排除の一件は、全米反検閲連盟(NCAC: National Coalition Against Censorship)のアート&カルチャー・アドボカシー・プログラム(ACAP)の耳に入らなければ、広く知られることはなかったかもしれない。プログラムのメンバーはサンアントニオ市長に公開書簡を送り、作品を戻すよう圧力をかけた。書簡では、「公立の施設は、言論の自由を保障する憲法修正第1条に沿って運営されなければならない」、そして「キュレーションされた展覧会の内容に、(連邦や州の)政府職員が恣意的または組織的に偏見を押し付けることはできない」と明言されている。

NCACはイバラを擁護するために迅速に動き、この件についてネット上で拡散するようキュレーターや報道関係者に呼びかけた。その甲斐あって、事件は間もなく著名な哲学者、ジュディス・バトラーの知るところとなる。彼女は28人の研究者とともにイバラの作品を称賛し、それが自分たちの専門分野やカリキュラムにとって重要な意味を持つと書かれた声明文に署名した。

そこで強調されたのは、この映像作品に「芸術的価値」があるという点だ。というのも、「芸術的価値」は、合衆国最高裁判所が言論や表現をわいせつと定義するか否か、排除すべきかどうかを判断するために用いる「ミラーテスト」の3つの要件の1つだからだ。

セントロ・デ・アルテス・ギャラリー側は全員一致で作品の公開を許可するよう芸術文化担当責任者のラカ=シトレに求めたが、彼女が手続きを引き延ばしているうちに1カ月が過ぎてしまった。サンアントニオ市を提訴するためアメリカ自由人権協会(ACLU:American Civil Liberties Union)も支援に乗り出していたが、その頃には新型コロナウイルス感染防止のため、街中の展示施設が閉鎖されていた。結果、作品の再設置は不可能となり、裁判の手続きは中断された。

検閲は右派からも左派からも起こり得る

20年以上にわたり活動しているNCACは、文化領域における表現の自由の擁護を目的としたアメリカで唯一の団体だ。1990年代の「文化戦争」(価値観やイデオロギーの違いによる対立)の時代には同様の団体がいくつも誕生したが、その最後の団体が解散した後の2000年に、NCACはアート&カルチャー・アドボカシー・プログラム(ACAP)を設立している。

同プログラムの創設者でディレクターのスヴェトラーナ・ミンチェワによると、アドボカシー・プログラムは、「休眠状態にあった」全米表現の自由運動(NCFE: National Campaign for Freedom of Expression)の後を引き継ぐ形で立ち上げられたという。当時のことをミンチェワはこう振り返る。

「彼らからメーリングリストなど業務に関するあれこれを渡されました。それでNCACが芸術分野のアドボカシー(権利保護)の仕事を引き継いだのです」

アート&カルチャー・アドボカシー・プログラムでは、検閲を第一のターゲットにしている。アメリカでは法律上、連邦または州当局が作品の内容を問題視してそれを排除することを「検閲」と定義している。一方、NCACでは「検閲」をもっと広く捉えているとミンチェワは言う。イバラの作品を排除したサンアントニオ市の展示施設は州の予算で運営されているので、問題があることははっきりしている。しかし、アメリカのほとんどの美術館やギャラリーは民間の施設で、法的には経営母体が企画の内容に対する決定権を持つ。

「それが自分たちの意向である場合、多くの人は検閲だと見なさず、正しいことだと考えます」とミンチェワは説明する。アメリカでは、検閲は「中国やロシアなどで起こっている邪悪な行為」というイメージで語られがちだ。しかし、アメリカでも右派による書籍や中絶、批判的人種理論禁止の声があり、他方では左派によるいわゆる「キャンセルカルチャー」がある。その結果として、アート作品が公の場から排除されることが度々起こる。

今、格好の標的となっているのは、リプロダクティブ・ライツ(性と生殖に関する権利)やイスラエルパレスチナの紛争を扱ったアート作品だ。昨年3月、アイダホ州のルイス=クラーク州立大学は、「No Public Funds for Abortion Act(人工中絶への公的資金援助禁止令)」に違反するとして、カトリーナ・マイクト、ミシェル・ハートニー、リディア・ノーブルズの作品を同校で開かれていた展覧会から撤去した。2021年に施行されたこの法令は、人工妊娠中絶や中絶を支持する言論に公的資金が使われることを禁じている。

そして今年3月には、マイアミ現代美術館で開催されていたチャールズ・ゲインズの個展で、パレスチナ系アメリカ人の思想家であるエドワード・サイードの肖像画が、ゲインズへの通知や彼の同意もなく、同美術館が毎年開催している個人寄付者向けイベントの期間、一時的に撤去された。こうした事例をふまえ、検閲の問題に20年以上取り組んできたミンチェワは、文化への検閲に起きている変化をこう指摘する。

「以前の検閲は保守派や宗教右派からのもので、90年代初頭から左派が問題提起していた差別やヘイトスピーチについての議論を抑圧しようとしていました。しかし今では、圧力をかけようとしているのは彼らだけではありません。最近は、特定のアート作品を見て傷つけられたと感じるマイノリティの人々によるものが増えています」

2017年、ミネアポリスにあるウォーカー・アート・センターの彫刻公園に展示されたサム・デュラントの彫刻《The Scaffold》(2012)に抗議するダコタ族の人々。Photo: Aaron Lavinsky/Star Tribune via Getty

このように、昨今の検閲はますます二極化する政治的立場の両極で起こっているが、NCACはどちらの側にもつかない方針だ。ミンチェワはこう力説する。

「私たちは、作家の信条や作品の美的価値に関係なく、クリエイティブな仕事をしている人々を支援しています。個々のメンバーが作品をどう感じるかではなく、組織としての原則に基づいた活動です」

2017年にNCACは、ミネアポリスのウォーカー・アート・センター彫刻公園に展示されていた白人作家サム・デュラントの《The Scaffold(絞首台)》が、抗議を受けてすぐに撤去されたことを批判した。1862年にミネソタ州で38人のダコタ族の男性を処刑するために使われた木製の絞首台が実物大で再現されたこの作品は、重刑が課せられるのは白人よりも有色人種の方が圧倒的に多かった不公平な歴史に言及したもので、同美術館に新設された彫刻庭園に恒久的に展示されるはずだった。

だが、作品への抗議活動が始まって数日後、デュラントはダコタ族の長老や美術館・市職員と話し合い、作品を解体してその知的所有権をダコタ族に譲渡することに同意した。これを受けてNCACは公式声明を発表。アーティストと美術館による「性急な決定」のために、幅広い人々の有意義な意見を検討し、他の解決策を探る可能性が閉ざされてしまったのは遺憾だとしている。

つまり、テキサスでは公的機関がイバラの作品を排除したが、この場合はその逆で、アーティスト自身が作品の撤去を選択した。それでもNCACは、これによって開かれた議論の機会が失われたことを問題視。声明にはこう書かれている。

「アーティストやアート施設は、常に社会的・政治的言説の一翼を担ってきました。近年、過去のトラウマについて表現する権利を持つのは誰なのかということ、また文化的盗用(*2)や白人の特権の意味をめぐって活発な議論が交わされています。もし問題が生じても、作品を撤去する以外の方法を取れるかもしれません。文化施設とアーティストは、このような批判や論争に対応するための創造的な方法を早急に見つける必要があります」


*2 特定の文化に特有な表現や意匠を、そこに属さない人が許可なく流用すること。

アート施設は開かれた議論の場

デュラントの一件のわずか半年前には、2017年のホイットニー・ビエンナーレでこれと似た問題が起きていた。物議を醸し、撤去を求める声が上がったのは《Open Casket(開いた棺)》という絵画で、1955年に白人のリンチで殺された黒人少年エメット・ティルの遺体を、葬儀時の写真をもとに白人アーティストのダナ・シュッツが生々しく描いている。

この作品に抗議したのが黒人アーティストのパーカー・ブライトだ。彼は「BLACK DEATH SPECTACLE(見せ物にされる黒人の死)」と書かれたTシャツを着て作品の前に立ち、それがメディアに取り上げられた。イバラの場合と同様、さまざまな芸術家や思想家がブライトを支持し、アーティストのハンナ・ブラックが出した書簡に署名。ビエンナーレのキュレーターらに宛てられた書簡には「絵を撤去せよ」という、はっきりとした要求が記されていた。当時のことをミンチェワはこう振り返る。

「この件では、私たちは公的声明を出しませんでした。反検閲団体の声明が逆効果になることもあるからです」

実際、「検閲の告発」という強硬なスタンスと取ることで、美術館が難しい状況を乗り切れるようにするというNCACの最終目的が達成しにくくなることもある。このときミンチェワは、ホイットニー美術館のアダム・ワインバーグ館長(当時)と水面下で話し合い、絵画の展示を続けるための戦略(解説文やPRを含む)を練った。問題となっている作品を撤去することなく批判に対応するよう展示施設に働きかけることこそが、NCACの典型的なアプローチだからだ(ただし、彼らは展示施設のコンサルタントではない)。NCACはまた、抗議する側の言動も、言論の自由のもとに保護されるべきだと考えている。

展示施設は、開かれた議論の場であるのが理想的だというのがミンチェワのスタンスだ。作品や書籍、あるいはイベントが、それを見た人の反発を招いたり居心地の悪さを感じさせたりすることが、逆に建設的な議論を生む場合もある。「今の時代の大きな問題点の1つは、公共の言論空間が縮小し続けていることだと思います」と彼女が言うように、昨今の議論の場は、不健全で非人間的なバーチャル空間に限定されがちだ。そんな中でアート施設というリアルな場は、意見の対立を受け入れる義務があると彼女は考えている。

非営利団体のNCACは、どんな問題が起きても展示施設が中立的な立場を取り、あらゆる側からの検閲に対抗できるようになることを目標に掲げている。その活動を支えているのが、当初からNCACの支援を行っているアンディ・ウォーホル財団と個人の寄付だ。NCACが一貫した姿勢で言論の自由を擁護することができるのは、こうした経済的援助のおかげだと言える。

とはいえ、何を展示するかを「選択」し、植民地主義や帝国主義の歴史を背負っている美術館が、本当に中立でいられるのだろうか? ミンチェワは、2021年に発表されたクイーンズ美術館の元館長、ローラ・ライコヴィッチとの討論を引き合いに出し、この疑問に答えた。そのときライコヴィッチは、作品の選択を行い、プログラムをキュレーションすることで特定の立場を取る美術館に中立性はあるのかと疑問を呈している。「キュレーションというのは、支持と同義なのか?」という問いに対し、ミンチェワはそうは考えないと言う。彼女の主張は、美術館は作品を展示するアーティストの思想を推奨しないように努めるべき、というものだ。

自分たちのプログラムを推奨しないという姿勢は、全美術館のマーケティング部門が日々やっていることに反する。歴史的に見て、美術館で何かを展示するということは、その重要性、時代性、特異性を強調することを意味する。では、中立性は単なる絵空事にすぎないのだろうか? 少なくともライコヴィッチはそう思っていたようだ。2017年にライコヴィッチは、イスラエル政府主催の建国70周年イベントの会場として美術館を貸し出すことに拒否権を行使。理事会と対立し、翌年初めに館長職を退いた。最終的にイベントは行われたが、ライコヴィッチと理事会の間に生じた溝は埋まらなかった。

今年の春には、サンフランシスコのイエルバ・ブエナ・センター・フォー・ジ・アーツ(YBCA)で、ミンチェワ流のアプローチを試みている。それは、昨秋から開催中だった「Bay Area Now 9(ベイエリア・ナウ9)」展でのことで、参加アーティスト30人のうち8人が、イスラエルのガザ攻撃への抗議として2月に展示中の自作に手を加えた。このときNCACは介入しないと決め、美術館にとって「勝ち目のない状況」であることを説明した。YBCAがどんな策を取ったとしても、一方の側についたと受け止められるのは必至だからだ。

手を加えられた作品は、YBCAが展示に合意したものではなかった。それでも美術館が作品を撤去すれば、政治的な立場を取ったと思われるリスクがあるとNCACは警告。これを受け、美術館は審議のため展覧会を1カ月間休止した。最終的には、改変された作品はそのままで、改変の内容はアーティストの見解を示すものであり美術館の見解ではないことを記した解説文を添えて展覧会を再開した。

サミア・ハラビー《Worldwide Intifadah》(1989) Photo: Courtesy the artist

板挟みのキュレーターにも支援と連帯の場を

このような調整や交渉の最前線に立っているのは美術館の職員たちだ。それを考えると、NCACが元キュレーターのエリザベス・ラリソンをACAPのディレクターとして採用したのも不思議ではない。

2022年8月から同プログラムのディレクターを務めているラリソンが取材で語ったところによると、NCACが展示施設のキュレーションのプロセスに介入する場合、ある種の「グレーゾーン」が生じるという。そのため、企画時の決定が論争や検閲につながるかどうかについては、NCACは意見を挟むのを控えるという。展示施設で何を見せるかを決めるのはその施設とキュレーターたちで、NCACが口を出すことではないとラリソンは明言している。同団体が介入するのは、展覧会に並ぶ作品やプロジェクトの内容が決まった後のことなのだ。

ACAPを切り盛りしているラリソンが日々の大半を費やしているのは、「ケース・マネジメント」と呼ばれる仕事で、人を介して、あるいは同団体のウェブサイトから報告された急を要する検閲問題に対処している。最近彼女が関わった事例には、今年2月にインディアナ大学のシドニー&ロイス・エスケナージ美術館で開かれる予定だったパレスチナ系アメリカ人画家、サミア・ハラビーの回顧展がある。ハラビーは昨年12月に同美術館から手紙を受け取り、「安全上の懸念」を理由に展覧会を中止すると通告された。

この件は、何人かを介してNCACに伝わったとラリソンは振り返る。彼女は1月に声明を出し、大学側に決定を撤回するよう求めた。その中で彼女は、中止の理由になり得るのは「このアーティストの親パレスチナ的な主張と活動」であり、彼女の抽象画そのものは物議を醸すとは考えにくいと指摘。ハラビーはすでにこの展覧会の準備のためにかなりの労力をかけていたこともあり、NCACは美術館に対し改めて展示スケジュールを組み直すよう要請した。この記事の執筆時点ではインディアナ大学からの回答はないが、ハラビーの別の個展がミシガン州立大学のブロード美術館で開催されている。

このような問題を効果的に解決するには、素早い対応が肝心だ。そのため、ラリソンは柔軟さとニュース性を重視しながら、日々スピード感を持って仕事をしている。その一方、息の長い仕事も彼女の職務の大切な一部だ。それは主に、外部の目が届かない組織内部の抑圧に関するもので、アーティストと、企画内容に口を挟もうとする政府や民間組織の間で板挟みになることが多いキュレーターの支援に焦点を当てている。

こうした取り組みの一環として、NCACは2023年11月にクリエイティブ・キャピタル(助成金やメンターシップなどでアーティストを支援するNPO)とともに、アメリカ各地からキュレーターを集めたワークショップを開催した。参加者が個人的に体験した検閲の事例について議論が交わされたこのワークショップの参加者は、打ち解けて話し合える場だったと感想を述べている。メリーランド州のガウチャー大学のアート・ギャラリーズ+コレクションに勤務するジャナ・ディクは、「仲間づくりに役立った」と言い、「もし何か問題が起きたら、ここで知り合った人たちに質問したり、サポートや助言を求めたりできます」と付け加えた。

今年2月、ラリソンはブルックリンのA.I.R.ギャラリーで開催された展覧会「Free Speech and the Inexpressible(言論の自由と表現不可能なもの)」のパネルディスカッションに参加した。アーティストで作家のアリザ・シュヴァルツが企画したこのグループ展には、昨年アイダホの展覧会から外されたマジクート、ハートニー、ノーブルズの3作品に加え、検閲の対象となった、あるいは検閲をテーマに作品を作っている15組のアーティストやコレクティブの作品が展示された。

その中にはイバラの作品《Ashes of Five Feminist of Color Texts(有色人種の5人のフェミニストによる著作の遺灰)》(2020)もあった。イバラは、有色人種のフェミニスト作家が書いた本の中で、最も多く引用されている5冊(キンバリー・クレンショーやオードリー・ロードの著作など)を燃やし、それらの本の表紙を壁に展示して花を飾っている。

まるで霊廟のように演出されたこの作品で、イバラはフェミニスト作家たちを検閲しているのではない。彼女の言葉を借りれば、「過剰引用の経済」から彼女たちを守っているのだ。文化施設は意味のある改革に取り組む代わりに、この手のテキストを引用して体裁を取り繕うことが多い。この作品には、そうした風潮に対する彼女の批判が込められている。

イバラの作品の近くには、フロリダ州の禁書をテーマにしたダイアナ・シュメルツの作品が展示されていた。このインスタレーションでは、2022年に発令された「Stop WOKE」法でフロリダ州の公立校の図書館から排除された本の表紙を、水彩絵の具で描いたパネルが並んでいる。よく見ると、細かい文字がレーザーでくり抜かれているが、それは禁書に異議を申し立てた人々と州教育委員会の間で闘われた「パーネル対フロリダ州教育委員会」の裁判資料だという。

アリザ・シュヴァルツ《Untitled (Senior Thesis)》(2008) Photo: Courtesy the artist

「本気の議論」には計算された妥協も必要

検閲は、A.I.R.ギャラリーの展覧会でキュレーションを担当したシュヴァルツにとって身近な問題だ。彼女が2008年にイェール大学の卒業制作として発表したプロジェクト《Untitled (Senior Thesis)(無題[卒業制作])》は、激しい議論を巻き起こした。この映像作品を作るため、彼女は毎月自らに人工授精を行ってから自然由来の堕胎薬を摂取するという、9カ月にわたるパフォーマンスを行っている。彼女はそのプロセスを「非常に長くて退屈なものだった」と語っているが、各方面から注目されてコンテンツが「バイラル化」する初期の例となった。この作品は最終的に卒業制作展から外され、大学当局から「創造的フィクション」というレッテルを貼られている。

当時NCACの支援を得られたら心強かっただろうと、シュヴァルツは言う。「あのとき私は本当に孤独でした。困難に1人で立ち向かっていた22歳の私に、こういう団体が擁護の手紙を書いてくれたら、どんなに力づけられたかと思います」。彼女は、A.I.R.ギャラリーでの展覧会でNCACの資料を展示し、同団体が提供しているサポートについてアーティストに知ってもらえるようにしている。

キュレーターが検閲との戦いの最前線にいるとすれば、アーティストは塹壕の中で戦っていると言えるかもしれない。イバラとシュヴァルツに、その後ほかにも検閲を受けたことがあるか聞くと、両者ともこの記事で紹介しているケースほどひどい検閲は経験していないと答えた。しかし、事件は後を絶たない。イバラは、20年のキャリアを通じて常にソフトな検閲と向き合ってきたという。それは多くの場合、美術館が作品のそばに掲示する警告文の形をとっている。こうした処置を見てきた彼女が辿り着いたのは、「性的な内容の展示は、アートの世界ではいまだに大きな不安の種なのだ」という結論だ。

シュヴァルツは、イェール大学での「恐ろしい経験」(殺害予告まで受けたという)以来、あからさまに自分の身体を使った作品は作っていない。物議を醸したことで注目された彼女だが、自分は「すぐに折れるタイプ」だと話す。とはいえ、戦略的にそうしている一面もあるようだ。彼女は、自分が重要だと考える問題について幅広い議論を促すためには、計算された妥協が必要なこともあると考えている。レイプやフェミニズム、リプロダクティブ・ライツに関する自身の活動について、シュヴァルツはこう思いを述べた。

「私はこうした問題について、本気で議論したいと考えています。だからこそ、ほかの人々の意見や、私が知らない事情、たとえば展示施設が置かれた微妙な立場などについても考慮したいと思っています」(翻訳:野澤朋代)

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