シカゴ「最初の同性愛者たち」展の必見作品10選。350点超の作品からクィア概念を再考する意欲展
「プライド月間」の6月には、世界各地でLGBTQ+の権利を啓発するイベントや活動が行われる。そうした中、アメリカ・シカゴのアートスペースでは、19世紀後半~20世紀前半に同性愛者を描いた作品を集めた展覧会を開催している(7月26日まで)。その中から、主任キュレーターが厳選した10作品を紹介しよう。

- 1. フランシスコ・ハビエル・コルテス《Juan José Cabezudo y un amigo(フアン・ホセ・カベスードと友人)》(1827年頃)
- 2. フローレンス・カーライル《High Noon(真昼)》(1916年)
- 3. ボーフォード・デラニー《Portrait of James Baldwin(ジェイムズ・ボールドウィンの肖像)》(1944年)
- 4. エリザール・フォン・クプファー《La nuova lega(新しい結合)》(1915-16年)
- 5. サトゥルニーノ・エラン《Nuestros dioses antiguos(我らの古代の神々)》(1916年)
- 6. ヴァン・レオ《Self Portrait(自画像)》(1945年頃)
- 7. ジョン・シンガー・サージェント《Music(音楽)》(ボストン美術館の円形ドームを飾る壁画の1つ)の装飾レリーフのためのスケッチ(1917–21年)
- 8. パスカル・アドルフ・ジャン・ダニャン=ブーヴェレ《La Blanchisseuse(洗濯婦)》(1879年)
- 9. ベンハミン・デ・ラ・カジェ《Mujer(女性)》と《Hombre(男性)》(1912年)
- 10. エミリー・ムント《Malerinde og Barn i Atelieret(画家と子供のいるアトリエ)》(1893年)
人類の歴史では、クィアネス(*1)は人間の「在り方」としてではなく、「行為」として捉えられていた時期がほとんどだ。しかし、現在シカゴのアートスペース、ライトウッド659(Wrightwood 659)で開催中の意欲的な展覧会「The First Homosexuals: The Birth of a New Identity, 1869-1939(最初の同性愛者たち:新しいアイデンティティの誕生 1869年〜1939年)」は、そうした流動的な定義から、より具体的なLGBTQ+のアイデンティティ表現への変遷を追っている。
*1 「クィア」は、同性愛者やトランスジェンダー、ノンバイナリーなど性的マイノリティや既存の性の枠組みにあてはまらない人々全般を指す言葉。LGBTQの「Q」。
集合住宅を改装した3階建てのスペースに展示された貴重な作品は350点を超える。そのほとんどは、ハンガリー人ジャーナリスト、カール=マリア・ケルトベニーが「同性愛」と「異性愛」という用語を考案した1860年代から、ファシズムの台頭でLGBTQの市民がそれまでにない激しさで迫害された1930年代までの間に制作されたものだ。
40もの国を代表するアーティストの作品が並ぶこの展覧会は、西洋のクィアの概念を見直す試みと言えるだろう。ペンシルベニア大学で美術史を教え、今回の展覧会の主任キュレーターであるジョナサン・カッツが展覧会図録に寄せた序文によると、参加した研究者の中には、展覧会タイトルに「同性愛」という用語を使用することに難色を示す者もいたという。その序文でカッツは次のように書いている。
「同性愛(homosexual)という呼称の発展と使用は、芸術分野においてさえ常に解放的であったわけではない。この言葉は解放的なイメージと共に数多くの同性愛嫌悪的なイメージを生んできた。それだけでなく、中欧起源の用語・概念として植民地征服の血塗られた道と密接に結びつき、その過程で先住民の性に対する意識を書き換えてきた。ヨーロッパ諸国の支配下に置かれる前、先住民の性に対する考え方ははるかに寛容で、尊厳あるものだった。イギリス、フランス、スペイン、オランダといった主要宗主国は、しばしば植民地の法律を文字通り改変し、同性愛に対して厳しい刑罰を課すようになった」
「The First Homosexuals」展は、アメリカにおいてクィアネスを再び消し去ろうとする機運が高まる中で開催されている。展覧会の企画が始まってから、出品が予定されていたにも関わらず、所蔵先から貸し出しを撤回された作品が4点ある。ハンガリー(現スロバキア)生まれの画家ラディスラフ・メドニャンスキーの絵画2点と、レズビアンのコロンビア人アーティスト、エナ・ロドリゲスの2点の木炭画で、メドニャンスキーの作品を所蔵しているスロバキア国立美術館は、新館長(前館長は昨夏、右派の文化相の意向で退任)が「最初の同性愛者たち」という展覧会テーマを知るや否や、貸与を取りやめている。
一方、ロドリゲスの木炭画の所有者は、ドナルド・トランプの大統領就任により作品が危険にさらされるリスクが高まったとし、出展を見送った。会場ではこれらの作品の代わりに複製と解説文が展示され、その不在が明示されている。「右翼の弾圧のために展示できなかった作品があったことを来館者に知ってもらうことが何よりも重要だと考えました」とカッツは話す。
以下、展覧会のハイライトとしてカッツが推す10点の作品を紹介する。なお、ライトウッド659では、2022年~23年にも「The First Homosexuals: Global Depictions of a New Identity, 1869-1930(最初の同性愛者たち:世界に広がった新しいアイデンティティの表現、1869-1930)」と題した展覧会を実施している。
1. フランシスコ・ハビエル・コルテス《Juan José Cabezudo y un amigo(フアン・ホセ・カベスードと友人)》(1827年頃)

19世紀のリマは20世紀におけるサンフランシスコのような場所だった。カッツによると、スペイン帝国はリマを道徳的・性的退廃の温床として貶めようとしたが、そのプロパガンダは裏目に出たという。評判を聞きつけた大勢のクィアの人々が自由な生活を求めてこの植民地都市に集まり、そのほとんどが自由を手に入れた。
この作品の主人公であるアフリカ系ペルー人の料理人カベスードは、異性装を好む人物として知られていた。この絵の作者は、そのことをさほど異端視しているようには感じられない。また、異性装がカベスードの商売に悪影響を及ぼすこともなかったようだ。リマのマヨール広場にある彼の屋台はとても人気があり、カベスードは革命家シモン・ボリバルのために食事を作るよう依頼されるほどだった。
2. フローレンス・カーライル《High Noon(真昼)》(1916年)

カナダの著名な具象画家フローレンス・カーライルは、イギリスにいる親族を訪ねる旅の途中、10歳年下のジュディス・ヘイスティングスと出会った。2人はやがて同居し、ヘイスティングスはモデルとしてカーライルの絵画に頻繁に登場するようになる。出会いの翌年、カーライルは《The Threshold(出発点)》(1913)という絵の中でウェディングドレスとベールをまとったヘイスティングスを描いている。
その数年後、カーライルは家庭を舞台とした人物画《High Noon(真昼)》を制作した。絵の中のヘイスティングスは、2人が住んでいたイースト・サセックスのコテージをきれいに掃除し終え、満足げに室内を眺めている。また、奥の方で同じように我が物顔で庭を眺める黒猫が、作品にユーモアを添えている。絵の中のヘイスティングスは、自分の仕事の成果だけでなく、多くの困難を乗り越えてカーライルと築き上げた人生にも誇りを持っているように見える。陽光の反射によってほんの少し霞んだように見える空気感が、この場面をいっそう優しいものにしている。
3. ボーフォード・デラニー《Portrait of James Baldwin(ジェイムズ・ボールドウィンの肖像)》(1944年)

「The First Homosexuals」展にはハーレム・ルネサンス(*2)関連の作品が複数出展されているが、この肖像画もその1つ。ハーレム・ルネサンスは、多くの点で時代を変革するクィア運動でもあった。ここに描かれている人物は、著名な小説家・詩人・劇作家、そして公民権運動の活動家として知られるジェイムズ・ボールドウィン。彼はこの肖像画が描かれた当時、20歳そこそこだった。彼はボーフォード・デラニーを、芸術的、知的な事柄だけでなく、アイデンティティに関することでも自身を導いてくれる「精神的な父」だと考えていた。
*2 1920年代から30年代半ばにかけてマンハッタンのハーレムで興隆したアフリカ系アメリカ人の文化運動。文学や演劇、音楽、視覚芸術など多くの分野で人種的な誇りを掲げた作品が生まれた。
ボールドウィンはデラニーについて、「彼は物事の見方、そして自分の見たものを信じる方法を教えてくれた」と語っている。しかし、ボールドウィンより20歳以上も年上のこの画家には、そのような指針となる存在はいなかった。自分のセクシュアリティに苦悩していたデラニーは、異性愛者である黒人の仲間たちに自身の性的指向を明かすことはほとんどなく、白人ばかりの同性愛者のサークルでは距離を置かれていた。やがてアルコール依存症となり、最晩年にはアルツハイマー型の認知症を患ったデラニーの介護をボールドウィンは手伝っていたという。
4. エリザール・フォン・クプファー《La nuova lega(新しい結合)》(1915-16年)

立派な額縁に入れられたこの作品は「The First Homosexuals」展のために修復された8点の絵画のうちの1つで、同性同士の結婚式を描いた史上初のアート作品の可能性がある。作者のエリサール・フォン・クプファー(別名:エリサリオン)は、バルト海沿岸出身でドイツ語を話す博識でエキセントリックな人物だった。フォン・クプファーはパートナーのエドゥアルド・フォン・マイヤーと共に、「クラリスム」という宗教と寺院を設立し、人間の生を二元的な性別に分けることは神の意志の歪曲だと唱えていた。この主張通り、彼の作品に登場するのは両性具有的な人物で、フォン・クプファーはそのほとんどを自身の身体をモデルに描いている。「彼は胸にロープを巻きつけて乳房を作り、大きな臀部と広い骨盤を強調することを好んでいました」とカッツは説明する。
フォン・クプファーはジェンダーに関しては進歩的だったが、人種に関してはその逆で、彼が描いたユートピアには白人しか登場せず、オリエンタリズム的なモチーフやテーマを取り上げながらも人種的な多様性を欠いていた。1942年に死去する前までナチ党に積極的に働きかけて支持と資金援助を求め、ヒトラーにへつらうようなファンレターを書いている。
5. サトゥルニーノ・エラン《Nuestros dioses antiguos(我らの古代の神々)》(1916年)

1914年にサトゥルニーノ・エランは、メキシコシティのベジャス・アルテス宮殿のために3面の壁画制作を依頼された。だがエランは、1つ目のパネルの習作となる油彩画を完成させた後に死去したため、この仕事を完遂できなかった。
スペイン人に征服される以前のメキシコを題材としたこの作品で、エランは西洋絵画特有の図像を完全に排し、先住民の神々を描いている。そして、メキシコ国民としての誇りとアイデンティティを再構築した彼のアプローチは、後進のメキシコ人アーティストたちによってさらに発展していった。この作品に登場する人物たちは官能的であると同時に、どこか女性的な雰囲気があるが、エランはメキシコシティの南にあるソチカルコ遺跡近くに住んでいた実在の人物たちをモデルにして描いたという。
6. ヴァン・レオ《Self Portrait(自画像)》(1945年頃)

レヴォン・アレクサンダー・ボヤジアンとして生まれたレオは、オスマン帝国で起きたアルメニア人虐殺を逃れるため1924年に両親とともにカイロに移り住み、やがてこの都市を代表する肖像写真家の1人となった。彼のポートレートは、ハリウッド風の華やかさと前衛的なアーティストの視点を融合したもので、中でもとりわけ実験的な作品は自らを撮影した写真だった。性別を超越したこの魅惑的な写真は、展覧会に並ぶ彼の4点のポートレートの1点。レオはクリップ式のイヤリングと宝石のネックレスをつけ、黒いドレスを肩からずらして乳首をのぞかせながら、カメラに向かってはにかんだように微笑んでいる。
「私たちは(カメラのために自分自身を変身させることを)シンディ・シャーマンが発明したと考えていますが、それよりずっと前にヴァン・レオがこの写真でそれをやっていたのです」とカッツは指摘する。「彼はその時代にクィアとして生きた人の主観性、分裂したアイデンティティや自己の多様性という概念を体現しています。クィアであることは、異なる文脈で異なる人間になることを意味しているのかもしれません」
7. ジョン・シンガー・サージェント《Music(音楽)》(ボストン美術館の円形ドームを飾る壁画の1つ)の装飾レリーフのためのスケッチ(1917–21年)

サージェントがおそらくクィアだったことは美術史上の秘密ではないが、彼がトーマス・マッケラーという若者に執着していたことはあまり知られていない。サージェントは1916年、ボストン美術館のための壁画シリーズを制作中に滞在していたホテルで、エレベーター係として働いていたマッケラーと出会った。サージェントは彼をモデルに起用し、およそ10年間にわたる関係が始まる。
長く関係が続いたにもかかわらず、サージェントが完成させた作品の中にマッケラーの素性を仄めかすものは1つもない。マッケラーは多くの作品で、文字通り「ホワイトウォッシュ(白人化)」されていたのだ。サージェントは、マッケラーを描いたスケッチを、ボストン美術館の円形広間を飾る大理石の神々へと作り変えた。ほかにもマッケラーは、ハーバード大学の学長だったアボット・ローレンス・ローウェルの肖像画の体のモデルになっている。皮肉なことにローウェルは、数十年にわたる慣例を退け、黒人学生を新入生寮に住まわせないという決まりを作ろうとした人物だ。例外的に、マッケラーの顔が別の人物の顔に描き換えられていない作品もある。それが現在ボストン美術館の所蔵となっているエロティックな大型の肖像画だ。この作品はサージェントの存命中は一度も展示されることはなく、画家が自分の手元に置きアトリエに飾っていた。
8. パスカル・アドルフ・ジャン・ダニャン=ブーヴェレ《La Blanchisseuse(洗濯婦)》(1879年)

カッツをはじめとするこの展覧会のキュレーターたちが、西洋美術史の中で同性愛者のカップルを描いた最も古い絵だと考えているのが《La Blanchisseuse(洗濯婦)》だ。ただし、現代の観客には、この絵の細部について多少の解説が必要だろう。
腕を組んでセーヌ川沿いを歩いているのは、パリに住んでいた実在のカップル、ギュスターヴ・クルトワとカール・エルンスト・フォン・シュテッテンで、手前に描かれた「洗濯婦」は、実際には洗濯婦ではなくセックスワーカーだ。19 世紀のパリでは、この2つの職業は密接に関連していた。女性は、クルトワとフォン・シュテッテンが客になりそうだと考えて意味ありげな視線を送ることはしていない。まるで彼らを誘っても無駄だと知っているかのように、物憂げに鑑賞者の方を見やっている。
9. ベンハミン・デ・ラ・カジェ《Mujer(女性)》と《Hombre(男性)》(1912年)


コロンビアの写真家ベンハミン・デ・ラ・カジェは、現代でいうトランスジェンダーの人物を記録した同国初の写真家の可能性がある。これら2点のスタジオ写真は、メデジン在住のトランスジェンダー女性ロサ・エミリア・レストレポを写したポートレートだ。彼女はメイドとして働いていた家で盗みを働いたとして告発されたが、デ・ラ・カジェは彼女が逮捕されたすぐ後にこの写真を撮影したようだ。
デ・ラ・カジェが伝統的な性表現から外れた人物を撮影した写真はほかにもあり、後年に撮影されたククタの有名な異性装家のポートレート《El excluido (Álvaro Echavarría)(排除された者[アルバロ・エチャバリア])》(1927)も、この展覧会に出展されている。
10. エミリー・ムント《Malerinde og Barn i Atelieret(画家と子供のいるアトリエ)》(1893年)

この絵は、多世代が同居するクィアの家族という同性愛者権利運動以前には極めて珍しい題材を扱っている。エミリー・ムントは、同じく画家であるパートナーのマリー・ルプラウが、養女のカーラ・ムント=ルプラウに微笑みかける姿を前景に描いている。背景でピアノを練習しているのは、ルプラウの母が亡くなった後、娘のマリーや義理の娘のエミリーと同居を始めた父のダニエルだ。
ムントとルプラウは、1870年代にコペンハーゲンの女性のための美術学校で出会った。ルプラウは風景画家となり、ムントは人物画を専門として、特にこの絵のカルラのような子供の描写を得意とした。(翻訳:野澤朋代)
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