「最初の同性愛者たち」展がたどるクィアアーティストの歴史。アイデンティティは視覚芸術に何をもたらしたのか
シカゴのアートスペースで、クィアのアーティストに光を当てた大規模な展覧会が開催されている。19世紀後半以降の作家を集めた同展の内容、展示構成などを、ニューヨーク・タイムズ紙などで活躍するアートジャーナリストがレビューする。
かつて画家のポール・カドムスが語ったところによると、1930年代のニューヨークでは、同性愛者はアーティストと呼ばれていたという。こうしてクィアと芸術が同義だと解釈されるに至った経緯は、モダニズムそれ自体の物語と重なる。近代アートが勃興した時代は、仲間の間でしか通じない符丁やアーティストとパトロンの親密な関係に溢れていたからだ。
たとえば、作家でアートコレクターのガートルード・スタインを中心にしたパリの前衛アーティストグループや、スタインと同時代の作家であるナタリー・バーネイがパリのセーヌ左岸に開いたサロン、あるいはニューヨークでカドムス自身が主催したサークルなどは、その好例だ。少なくとも、オスカー・ワイルド以降、一般大衆にとってクィアであることとアートは、密接なつながりがあるものと考えられてきた。
その事実に焦点を当てた大規模展覧会が、シカゴのアートスペース、ライトウッド659(Wrightwood 659)で開催中だ(12月17日まで)。「The First Homosexuals: Global Depictions of a New Identity, 1869-1930(最初の同性愛者たち:世界に広がった新しいアイデンティティの表現、1869-1930)」というタイトルが冠されたこの展覧会は、ジョナサン・D・カッツとジョニー・ウィリスが率いる23人の研究者チームによって企画された。
もともと同展では全作品を一堂に紹介する予定だったが、コロナ禍の影響で、前期・後期の2回に分けて発表することになった。前期は、主に欧米諸国の作家によるさまざまな形式の作品を100点ほど展示。2025年に同じ会場で開催される後期は、さらに規模を拡大して、中東、ラテンアメリカ、アジアのアーティストが加わる予定だ。
タイトルが示すように、この展覧会は「同性愛者(homosexuals)」という言葉自体の考察から始まるが、その起源は1869年にまでさかのぼり、ハンガリー人ジャーナリスト、カール・マリア・ケートベニーによる造語だという。当初、彼がこの言葉を作ったのは特定の人々を指すためで、態度や行為を表すためではなかったという。
当時、「同性愛者」という言葉は、法律的、医学的な意味合いで主に官僚の間で使われており、一般市民にはなじみが薄かった。だが、イギリス人医師のハブロック・エリスと作家のジョン・アディントン・シモンズが同性愛に関する画期的な研究書『Sexual Inversion(性的反転)』を著した19世紀後半には、広く世間に知られるようになっていた。
この新語とそれが表すアイデンティティが、その後数十年でどのように視覚芸術の分野に浸透し、影響を及ぼしたのか。それを検証することこそ、「The First Homosexuals」展のコンセプトだ。果たして視覚芸術は、書き言葉にはできない形で、アイデンティティを示唆したり、描き出したりすることを可能にしたのだろうか?
この疑問に対し、本展覧会が答えを明示しているとは決して言えない。前期だけでは全体像がつかめないことがインパクトを弱めた一因とも考えられるが、1869年から1930年までの60年間に限定されているのに加え、全体を貫くストーリーがなく、かなり説明的な解説文をもってしても、その欠点を埋め合わせられていない。また不思議なことに、キュレーターたちが展示作品の相互作用や有機的な対話を生み出すような美術的なアプローチではなく、人類学的アプローチを取ったことも、その一因かもしれない。
このアプローチは展覧会の構成や会場デザインにも反映されている。ここでは、「同性愛以前」「原型」「欲望」「過去と未来」「公と私」「植民地化」「ジェンダーの間」「ポーズ」「カップル」という、9つのテーマごとに小さな展示室が設けられている。それぞれ異なる色が与えられた小部屋同士をつなぐのは、スタインやバーネイのパリのサロンを思わせるアーチ状の通路だ。作品の展示順は時系列に沿っていないため、連続性や進歩の感覚はない。次から次へと多種多様な作品が並ぶばかりで、とりとめがない印象を受ける。
とはいえ、優れた作品がないわけではない。イギリスの画家ダンカン・グラントの《Bathers by the Pond(水浴する男たちのいる池のほとり)》(1920-21)は、日光浴をしている物憂げな男たちを褐色のトーンで表現した点描画で、見る者の夢想を誘う。
アメリカの画家チャールズ・デムスの《Eight O'Clock(Early Morning)(8時〈早朝〉)》(1917)という淡いトーンの水彩画に描かれたのは、落胆したようにうなだれて座っているパジャマ姿の男性と、彼の側に立ち懇願しているような下着姿の男性だ。生活を共にするような親密な関係にあることをうかがわせる2人が何かを話し合っている部屋の奥の方には、もう1人の裸の男性が洗面所で顔を洗っている様子が見える。
スウェーデンの画家ウジェーヌ・ヤンソン(1862-1915)が黒いチョークで描いた《Bath House Study(浴場の素描)》(制作年不詳)には、裸の男たちが幾何学的とも言える配置で描かれている。複数の男性ヌードがそれぞれ個別に自分のエロスの世界に浸っているかのようなこの絵は、20世紀後半に米国人画家のパトリック・アンガスやジョン・バートン・ハーターが手がけた作品に通じるものがある。
また、より深い文化的潮流を示唆する作品もある。詩人で芸術家のエリザー・フォン・クッパーは、パートナーの哲学者エドゥアルト・フォン・マイヤーとともに、スイスに新宗教の寺院「エリザリオン」を建てた。それを記録した一連の古い写真の中では、手作りの冠をかぶったり、腰布を巻いたりした男たちが自然の中でポーズをとっている。こうした写真が想起させるのは、19世紀から20世紀初頭にかけてヨーロッパとアメリカの同性愛者コミュニティに広まり、アメリカの詩人ウォルト・ホイットマンやイギリスの詩人エドワード・カーペンターなどが体現した、ユートピアンの精神だ。
一方、ドイツ人画家サシャ・シュナイダーの堂々たる油絵《Growing Strength(力をつける)》(1904)では、筋骨隆々としたボディビルダーが若者の上腕二頭筋を見定めている様子が描かれている。このイメージは、筋トレ雑誌や20世紀半ば以降のゲイカルチャーを特徴づける「肉体賛美」の先駆けとも言えるだろう。
この展覧会では、男性や英語圏以外の同性愛者も取り上げられている。ノルウェーで写真館を営んでいたマリー・ホーグとボレット・バーグが残した名刺写真には、女性が男装あるいは中性的な服装で撮影したポートレートがいくつもある。また、スタジオの外で写真を撮り始めた初期の女性写真家の1人、アメリカのアリス・オースティンは、レズビアンの女性たちが密かに集う様子を遊び心たっぷりに捉えている。
日本や中国の絵巻物や掛け軸の展示もある。作者不詳の作品が含まれるこのセクションでは、複数の男女が絡み合う様子を描いた版画など、この展覧会で最も露骨な性描写の作品が見られる。別の部屋に飾られているのは、2人の黒人俳優(1人は女装)が世紀末のパリでケークウォークを踊る様子を撮影した作者不詳の写真だ。その側のモニターでは、ドラァグパフォーマンスを記録した最古の映像として知られるルイ・リュミエールの無声映画《Le Cake-Walk au Nouveau Cirque(ヌーボー・シルクでのケークウォーク)》(1903)が再生されている。奴隷にされた人々の間で生まれた踊りを披露するエンターテイナーたちの姿は、当時の偏見を映し出しながらも、1世紀以上経った今も屈託のない歓びに輝いている。
しかし、場違いに見える作品もいくつかある。アメリカの画家ロメイン・ブルックスが1912年に描いたイタリアの民族主義詩人ガブリエーレ・ダヌンツィオの肖像は、彼女独特のグレートーンで厳粛さを感じさせる絵だが、なぜこれが選ばれたのか謎だ(女たらしで悪名高かったダヌンツィオは同性愛者ではなく、展示されている絵の中の彼は、どことなく浮かない表情に見える)。
それよりも、ブルックスの自画像、あるいは同時代の女性たちの肖像画のほうが、この展覧会にはふさわしかったのではないだろうか。また、カナダ人画家フローレンス・カーライルの作品が3点もあるが、エレガントではあるものの退屈な女性の肖像画に、これほどのスペースを割くのは疑問と言わざるを得ない。
「植民地化」のセクションでは、同性愛に対する西洋の考え方と先住民や東洋の考え方の違いを探求しているが、内容が十分に煮詰まっていない。この部屋には、イタリアに渡ったドイツの写真家、ヴィルヘルム・フォン・グレーデンの作品も展示されているが、彼がシチリアで裸の少年たちを牧神に見立てて撮影したファンタジーの世界を植民地のカテゴリーに入れるべきかどうかは議論の余地があるだろう。
つまるところ、この展覧会からは社会学の教科書のような印象を受ける。真面目で理屈っぽく、鑑賞者を酔わせる魅力より、高尚さがまさっているからだ。そもそもの前提が誤っているのではないかという気もする。
何も1869年が、クィアの芸術家たちが一斉に自己表現を模索し始めるきっかけとなった決定的な瞬間だったわけではない。同性愛者というアイデンティティが形成される上では、世俗主義の高まりや都市化、マスメディアの発達がこの言葉の発明以上に大きな役割を果たした。しかし、こうした点はきちんと追求されていないか、曖昧なままだ。
近代芸術の隠れた一面をたどる代わりに、寄せ集めた作品を一貫性なく並べただけのように見えてしまうのが残念だ。また、同性愛を流動的なものとして打ち出しているわりには、テーマ別の構成は硬直的で、窮屈な印象を与える。後期は、もっと自由で生き生きとした展覧会を期待したい。(翻訳:野澤朋代)
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