ARTnewsJAPAN

マリー・ローランサン、クィアアーティストとしての生涯。過剰な女性らしさに隠されたアイデンティティ

現在、東京のアーティゾン美術館大規模な展覧会が開催されているマリー・ローランサン(3月3日まで)。柔らかな色彩で女性を描き、特定の流派や芸術運動に分類できない独自の画風を確立した彼女に、近年あらためて注目が集まっている。20世紀前半のアート界で成功を収めたローランサンの生き方とは?

マン・レイ《マリー・ローランサン》(1925) Photo: Centre Pompidou–Musée National d’Art Modern/Centre de Création Industrielle, Paris. Artwork © Man Ray 2015 Trust/Artists Rights Society (ARS), New York/ADAGP, Paris 2023. Digital Image copyright © CNAC/MNAM, Dist. RMN-Grand Palais/Art Resource, New York. Courtesy Barnes Foundation

ローランサンの優しい絵の裏には「ダークな部分」がある

マリー・ローランサン(1883-1956)と聞いて多くの読者が思い浮かべるのは、若き日のピカソを囲む芸術家グループの紅一点で、ブルーやピンクのパステル調の女性像を描いた画家ということではないだろうか。その一方、彼女が当時のアートシーンに君臨していたキュビスムに、内心反発していたことはさほど知られていない。ローランサンは、自分が好んで描いた題材についてこう語っている。

「なぜ死んだ魚やタマネギ、ビールグラスを描かなければならないのでしょう。女の子のほうがずっとかわいいのに」

彼女が女性を描く理由は、同時代の男性画家とは異なっていた。彼女の絵を見て、シフォンをまとった森の妖精たちの甘ったるい世界だと断じるのは簡単だ。しかしよく見ると、そこに描かれているのは女性の支配する領域で、男性には居場所がないことが分かる。それは、1920年代のパリに存在したレズビアン好みの女の園なのだ。

フィラデルフィアのバーンズ財団美術館で最近開催された展覧会、「Marie Laurencin: Sapphic Paris(マリー・ローランサン:サッフォーたちのパリ)」(*1)の共同キュレーター、シンディ・カンはこう語る。


*1 古代ギリシャで活躍したレスボス島出身の女性詩人。同性愛者だったと考えられている。

「彼女の作品には、お菓子のような甘さだけではない、暗さや謎、シュルレアリスム的な側面があります。確かに、ピンクやブルーの優しい色使いやエレガントなドレープにあふれていますが、同時に彼女が出入りしていた世界に強く訴えかけるダークな部分があるのです」

ローランサンの作品は、彼女自身がその一員であったレズビアン・コミュニティや、作家で詩人のガートルード・スタイン、ファッションデザイナーのココ・シャネル、化粧品会社を創業したヘレナ・ルビンスタインなどの自立した女性に好まれただけでなく、アートパトロンのジョン・クイン(彼女の絵画を7点購入)や、バーンズ財団の創設者であるアルバート・バーンズ博士(少なくとも4点のローランサン作品を所有)のような男性コレクターをも惹きつけた。そこに彼女の天才性の一端を垣間見ることができる。

50年にわたるキャリアの中で、ローランサンは絵画や版画制作のほか、本の挿絵を描き、バレエの衣装やセットをデザインし、他のアーティストたちとのコラボレーションによる装飾的なプロジェクトにも携わるなど、さまざまな分野で才能を発揮した。全てはティーカップから始まったと伝えられる彼女の画家としてのキャリアと、その作品を見ていこう。

母子家庭から画塾へ、そしてピカソを取り巻く文化人サークルへ

マリー・ローランサン《自画像》(1908年に制作、1950年にレタッチ) Photo: Musée Marie Laurencin, Tokyo. Artwork copyright © Fondation Foujita/Artists Rights Society (ARS), New York/ADAGP, Paris 2023. Courtesy Barnes Foundation

ローランサンは、お針子の娘としてパリに生まれた。婚外子だったため母1人に育てられたが、父からの仕送りで中流以上の教育を受けている。10代の頃、母親からティーカップの絵を描くよう言われたローランサンは、その絵で十分なデッサン力があると認められ、本格的に美術を学ぶことを許される。

それから間もない1902年頃、ローランサンはパリのバティニョール地区にある公立のデッサン教室に通い始めた。並行して磁器の絵付けも学んでいたが、1904年にはそれをやめ、アカデミー・アンベールに入学。そこでジョルジュ・ブラックフランシス・ピカビアなどの芸術家たちと出会う。その頃に同級生を通じて知り合った作家で画商のアンリ=ピエール・ロシェは、ローランサンの最も親しい友人かつ最も熱心な支援者の1人となった。

ローランサンの最も早い時期の作品に、《ビリティスの歌》(1905)という版画がある。作品名の由来となったのは、ピエール・ルイスが1894年に発表した、女性同士の官能的な愛を描く同名の散文詩集で、レスボス島に渡ってサッフォーの文学サークルに入った農民の娘が書いた詩の翻訳本という体裁で出版されていた。

版画《ビリティスの歌》には、抱き合い、キスをしようとする2人の女性が描かれている。サッフォーはシャルル・ボードレールらの文学作品を通じて近代のフランスで再び知られるようになっていたが、当時出回っていた関連作品は男性の読者を想定していた。しかしこの版画には、男性だけでなく、クィア女性からの関心も集まった。古代ギリシャをモチーフとしていたため、伝統に沿っているという口実で手に取りやすかったこともあるだろう。

同じ1905年に、ローランサンはキャリアを通じて繰り返し描くことになる自画像を制作。1907年の春に彼女を知り、その作品に興味を持ったピカソは、キュビスムを支持する批評を書いていた詩人のギヨーム・アポリネールを彼女に紹介する。それ以来、ローランサンはピカソを中心とした文化人サークルの重要なメンバーとなった。

キュビストに囲まれながら模索した独自のスタイル

マリー・ローランサン《Alcools》(1911) Photo: Private collection, Germany. Artwork © copyright Fondation Foujita/Artists Rights Society (ARS), New York/ADAGP, Paris 2023. Courtesy Barnes Foundation

ローランサンとアポリネールは1907年から1913年まで恋愛関係にあり、この時期に彼女が描いた集団肖像画の何枚かにはアポリネールが登場する。たとえば、《Groupe d'artistes(芸術家グループ)》と題された1908年の作品には、アポリネール、ピカソ、そして当時ピカソのパートナーだったフェルナンド・オリヴィエが並び、彼らよりもわずかに大きくローランサン自身の姿が描かれている。

その1年後に制作されたもう1枚の集団肖像画、《Apollinaire et ses amis(アポリネールとその友人たち)》(1909)には、アポリネールやガートルード・スタイン、オリヴィエ、ピカソ、詩人のマルグリット・ジロやモーリス・クレムニッツが描かれているが、右手前にいるローランサンは、ここでもひときわ大きな存在感を放っている。アポリネールはローランサンとの関係が破綻した後もこの絵を持ち続け、生涯ベッドの上に飾っていたという。

ローランサンはキュビスムを取り入れつつ、独自の方法でそれを試みた。たとえば、《Les jeunes filles(若い娘たち)》(1910)のような作品では、当時彼女が確立しつつあった特徴的なスタイルで4人の女性を描き、背景にキュビスム風の家々を描いている。そのことについて、バーンズ財団美術館のカンはこう解説する。

「彼女は、ピカソやブラックのスタイルをそのまま踏襲しようとはしませんでした。彼らの研究や理論に興味を持ち、部分的にその手法を取り入れながらも、闇雲に追従することはなかったのです」

ピカソはローランサンの作品を高く評価し、彼女の《La songeuse(物思い)》(1910-11)を購入。また、1913年にニューヨークで開催され、旋風を巻き起こした大規模美術展のアーモリー・ショーに彼女が参加するのにも一役買っている。ピカソは、出展作家の選考をしていたアメリカ人画家のウォルト・クーンに10人のアーティストを推薦したが、その中にローランサンも入っており、彼女は同展で7点の作品を展示した。

しかしローランサンは、次第にキュビスムとのつながりが自分の成長を阻んでいると感じるようになっていった。アポリネールとの別離と第1次世界大戦の勃発がキュビスムと距離を置くきっかけとなったこの時期に、彼女は独特のスタイルを確立することになる。

ローランサン自身、美術評論家のガブリエル・ビュッフェ=ピカビアが1923年に行ったインタビューでこう語っている。

「キュビスムは私の人生の3年間を毒し、その間はまともな仕事ができませんでした。私がそれを真に理解したことはありませんでしたし、周りの偉大な男性たちに影響されている間、私は何もできなかったのです」

スペイン亡命と作風の変化、戦略としてのフェミニンな表現

マリー・ローランサン《Femmes à la colombe》(1919) Photo: Centre Pompidou–Musée National d’Art Modern/Centre de Création Industrielle, Paris. Artwork copyright © Fondation Foujita/Artists Rights Society (ARS), New York/ADAGP, Paris 2023. Courtesy Barnes Foundation

1913年、ローランサンはアポリネールとの関係を終わらせただけでなく、同居していた仲の良い母親を亡くしている。こうした出来事に後押しされたのか、彼女はわずかな交際期間を経て、1914年の6月にドイツ人貴族のオットー・フォン・ヴェッチェン男爵と結婚。しかし、2人が南仏に新婚旅行をしている間に第1次世界大戦が勃発し、ドイツ国籍のヴェッチェンはパリに戻れなくなった。かといって彼はドイツに行くことも望まなかったので、夫妻はスペインに亡命し、マドリードで戦争の終結を待つことにした。しかし、スペイン滞在中、ヴェッチェンは新妻そっちのけで酒びたりになっていたという。

ローランサンが独自の作風を確立するのを後押ししたのは、スペインで味わった孤独感かもしれない。第1次大戦前は絵の具が薄塗りで、カンバスがむき出しの部分もあったが、戦後になると白い絵の具が分厚く塗られ、色彩はピンク、青、グレーを基調として時に緑や黄色が加わる。

「以前よりスペインでの生活にも慣れてきました。たとえどんなことが起きても、マドリードのプラドを訪れると自分が画家であることを思い出さずにはいられません。ゴヤエル・グレコ、そしてベラスケスでさえ、退屈なモナ・リザと比べたら私たちのメンタリティに近いと感じます」

ローランサンは、1913年から彼女の作品を扱い始めたフランスの画商、ポール・ローゼンバーグに宛てた1914年10月の手紙の中でそう書いている。ゴヤから大きな影響を受けたローランサンは、特に彼の描く女性像を参考にしていた。

パリを離れる前に彼女が取りかかっていたのは「Deux amies(2人の友人たち)」というシリーズだが、このシリーズ名は友人たちとも、恋人たちとも解釈できる。その曖昧さを反映するように、《Femmes à la colombe(鳩を持つ女性たち)》(1919)の人物は、一見すると仲睦まじい友人同士だが、実際はローランサンと同性愛的な関係にあった帽子デザイナーのニコル・グルーを描いている。

当時高く評価されたこの作品は、1924年にパリのオークションハウス、オテル・ドゥルオーで競売にかけられ、イギリスの美術商ジョゼフ・デュヴィーン卿に落札された。なお、1931年にデュヴィーン卿は、この作品をフランス国家に寄贈した。

ローランサンは、見るからにフェミニンな色調と画風で、女性ばかりが登場する絵を描いた。この作風は彼女の戦略でもあり、彼女の自己イメージの表れでもあった。同性愛者としてのアイデンティティを作品に反映させることに関して、「ローランサンは、絶妙な形で目立つことを避けていました」とカンは指摘し、こう続ける。

「一度気づいてしまえば、それは一目瞭然で、『ああ、そういうことだな』と肯けます。でも、知らなければそのサインを簡単に見逃してしまう。微妙な表現で暗号化されているのは、幅広い観客に受け入れられるための戦略なのです。過剰なまでの女性らしさはカモフラージュでもあり、ヒントでもあります」

この点で彼女の作品は、当時パリのレズビアン・コミュニティで人気を博していたもう1人のアーティスト、タマラ・ド・レンピッカの作品とはまったく異なっていた。ド・レンピッカの官能的な女性像には、より明確に同性愛的な含みがある。

スペイン滞在の終わり頃には、ヴェッチェン男爵とローランサンの結婚生活は崩壊状態にあった。そして、1920年にパリに戻った彼女は離婚を決意。再び自由な女性になる。

売れっ子になったローランサンとレズビアン・アヴァンギャルド

マリー・ローランサン《牝鹿》(1923)、バレエ《牝鹿》の舞台幕のためのデザイン。Photo: Musée de l’Orangerie, Paris. Artwork copyright © Fondation Foujita/Artists Rights Society (ARS), New York/ADAGP, Paris 2023. Image copyright © RMN-Grand Palais /Art Resource, New York. Courtesy Barnes Foundation

ローランサンがパリのアートシーンに華々しく再登場したのは、1921年3月にポール・ローゼンバーグ画廊で開かれた個展だ。ここでは25点の作品が展示されている。ローゼンバーグは何年も前から彼女の作品を扱っていたが、自らのギャラリーでの個展はそれが初めてだった。

この個展は彼女の評判を大いに高め、展覧会後にはフランス国外のコレクターにも作品が売れるようになった。それまでローランサンは、アポリネールやブラック、ピカソとのコネクションがあるから発表の機会を持てたと思われていたが、個展の成功によりそのイメージは払拭され、独立したアーティストとして見なされるようになる。

またたく間にパリで最も成功した女性画家の1人となったローランサンは、第2次世界大戦が始まるまでその地位を保つ。ローゼンバーグ画廊での個展は、新たな顧客層と高い評価だけでなく、それまでにないコラボレーションにもつながった。その1つに、1924年に初演されたバレエ・リュス(*2)の演目、『牝鹿』のための舞台幕と舞台装置のデザインがある。さらに、エヴァ・ゲバール=グールゴー男爵夫人をはじめ、多くの女性たちから肖像画の依頼を受けている。


*2 バレエ・リュスは、フランス語で「ロシアのバレエ(団)」の意。ロシアの興行師、セルゲイ・ディアギレフが1909年に創設し、革新的なステージで一世を風靡した。

ローランサンは、ギリシャ神話のようによく知られた物語の一場面を、さまざまに解釈可能な方法で描写している。たとえば、出版人でコレクターのスコフィールド・セイヤーが手に入れた《アマゾン》(1923)は、ギリシャ神話にちなんだタイトルの人畜無害な女性像として見ることもできる。しかし、ローランサンが出入りしていたクィア・コミュニティの女性たちにとって、アマゾン(*3)はレズビアンの象徴だった。


*3 アマゾン(アマゾネス)は、ギリシャ神話における勇猛な女性戦士の部族。

また、聖書の物語をもとにした《ユディト》(1930)という作品もある。ユディトはアッシリアのホロフェルネス将軍を殺した女性だが、ローランサンの絵にホロフェルネスは登場せず、ユディトと侍女の2人が描かれている。将軍を誘惑し、その首を切り落とす準備をしているユディトを神が祝福している瞬間、侍女はその傍らでユディトの美しさに見惚れ、露わになった彼女の乳房をうっとりと眺めている。ここで仄めかされているのは、ローランサンとメイドのシュザンヌ・モローとの関係かもしれない。1925年にローランサンに雇われたモローは、彼女の恋人で生涯のパートナーとなった。

1930年代には、確実に売れる定番の作風で似たような絵を次々制作するようになったが、それでもローランサンはフランスのアート界における大きな存在であり続けた。1935年にはレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを授与され、その2年後には、牧歌的な背景に5人の女性を描いた《Le répétition(舞台稽古)》(1936)をフランス国家が取得。1942年には散文集『夜の手帖』を出版し、その中で自分がクィアであることについて語っている。

アート界を生き抜くためのカモフラージュ戦略

マリー・ローランサン《ヘレナ・ルビンスタインの肖像》(1934) Photo: Private collection, Stowe, Vermont. Artwork copyright © Fondation Foujita/Artists Rights Society (ARS), New York/ADAGP, Paris 2023. Courtesy Barnes Foundation

女性たちは、ローランサンのことを常に男性とは違う視線で見てきた。たとえば、レズビアンの書店・出版社経営者アドリエンヌ・モニエの1926年の記述によると、ローランサンは「男性の機嫌を取るためには、バカを装うのが得策」だとし、「私自身、頭の軽い女の代表格だと思われている」と語っていたという。彼女は商売上の戦略として、こうした「何も知らないふり」をしたのだろう。しかし実際はその逆で、5千冊を超える蔵書を持つ大変な読書家だった。

フロリダ州ゲインズヴィルのフロリダ大学で美術史を教えるレイチェル・シルヴェーリ助教授は、バーンズ財団美術館のマリー・ローランサン展の図録にこう書いている。

「男性が権力を握る世の中で成功するために、女性であるローランサンが用いたカモフラージュ戦術は功を奏した。家族から受け継いだ遺産も、夫の経済的支援も、別の仕事による副収入もないローランサンは、芸術活動だけで生計を立てていた。カモフラージュ戦術はそのためのツールで、同性愛が『逸脱、医学的退廃、場合によっては犯罪』とされた時代においては特に重要だった」

ローランサンが生涯に制作した絵画は約2000枚。その死後、「フェミニストの美術史家たちの間では、彼女の仕事について大きく意見が分かれている」とカンは説明する。女性のステレオタイプを利用したローランサンの発言に関しては、「面従腹背と解釈する」者もいれば、「バカな女性のふりをするなど、家父長制への屈服ではないか」と言う者もいる。

このように相反する見方があるにもかかわらず、ここ数年、ローランサンは再び注目を浴びるようになった。作品が再評価されたことに加え、彼女のクィアとしてのアイデンティティへの関心の高まりもその一因だ。長い間、彼女の作品を倉庫にしまい込んでいた美術館が、今あらためてそれを見直している。約50点の作品が展示されたバーンズ財団美術館の個展以外にも、過去10年間にパリのマルモッタン・モネ美術館ソウルのハンガラム美術館でローランサン展が開催されたことがそれを裏付けている。

「ローランサンへの見方が変わってきています」と、バーンズ財団美術館のローランサン展の共同キュレーターであるシモネッタ・フラケッリは言い、彼女がカンバスの上に描き出した近代アート版のバービーランド(*4)についてこう付け加えた。


*4 ファッションドールのバービーを描いた映画『バービー』に出てくる、バービーたちが暮らす完璧な世界。

「ローランサンが創り出した女性像や独特の世界観、女性のためのオルタナティブな世界は、数十年前よりもずっと魅力的に感じられるようになっているのです」(翻訳:野澤朋代)

from ARTnews

あわせて読みたい