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ブリンケン国務長官の父が守ったマーク・ロスコの遺作。故ドナルド・ブリンケン元米国大使とロスコの絆

アントニー・ブリンケン米国務長官の父で、駐ハンガリー米国大使を務めたドナルド・ブリンケンが9月22日に96歳で死去した。ドナルド・ブリンケンは、米国抽象表現主義作品のコレクターとしても知られている。

ブダペスト祝祭管弦楽団のガラに出席したドナルド・ブリンケン(2018年) Patrick McMullan via Getty Image

ベンチャーキャピタル企業の共同創業者でもあるドナルド・ブリンケンが、駐ハンガリー大使を務めたのはクリントン政権下でのこと。ちょうどハンガリーが共産主義から民主主義へと移行していた時期に、両国の関係構築に尽力している。しかし、彼の人生にはもう1つ重要な側面がある。それは、彼がニューヨークのアートシーンに残した足跡だ。

ブリンケンは1950年代から60年代にかけて、マーク・ロスコやウィレム・デ・クーニング、フィリップ・ガストンなどの作品を収集するようになった。「当時30代前半の新米コレクターだった自分より彼らはだいぶ年上で、既に中堅作家として活躍していた」と、生前ブリンケンは語っている。

2014年にブリンケンがスミソニアン博物館のアメリカ美術アーカイブに寄贈した資料からは、彼が数多くのアーティストや美術館関係者と親密に交流していたことがうかがえる。

たとえば、1974年にフィリップ・ガストンがブリンケンに送った手紙には、美術評論家のジョン・ラッセルが批評を書くにあたっての取り計らいに関する感謝の意が記されている。また、弁護士で、当時ホイットニー美術館の理事だったデビッド・ソリンガーを伴ってデ・クーニングのスタジオを訪れ、同美術館のコレクションに加える作品について話し合った記録もある。

特にブリンケンが固い絆で結ばれていたのは、マーク・ロスコだ。2人が初めて出会ったのは56年、ブリンケンが美術品の収集を始めたばかりの頃だった。アーティストのスタジオを訪問するようになってまだ日が浅かったため、直感に頼ってコレクションに加える作品を選んでいたという。

ロスコのアトリエを訪れたブリンケンは、警戒心が強く簡単に人に心を許さないこの画家と、ほんの少しやり取りしただけで《Three Reds(3つの赤)》を購入する合意を取り付けている。以後、2人は友人として親交を深めていった。70年にロスコが亡くなった後、残された作品をめぐって法廷闘争が起こると、ブリンケンはアート界を騒がせたこの争いの解決の中心的役割を果たしている。

ロスコの相続人は、76年にロスコの遺産管理人を詐欺罪で訴え解任した。ブリンケンは同年にマーク・ロスコ財団の理事長に就任。裁判所の命令により、同財団は遺されたロスコ作品のうち、遺族への相続分となっていない作品の多くを譲り受けることになった。

ブリンケンは、これらの作品が公共の美術館のコレクションに入ることで、末長く人々の目に触れられるよう奔走。彼の監督のもと、約1000点の作品が米国内外の30以上の美術館に寄贈された。これにより、多くの作品が市場に出て散逸せずに済んでいる。

そのうち、かつてブリンケンが理事を務めていたワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーには、300点近い油絵や紙に描かれた作品が贈られた。そのほかの寄贈先には、ニューヨークのメトロポリタン美術館、ニューヨーク近代美術館(MoMA)、ホイットニー美術館、グッゲンハイム美術館などがある。

ブリンケンはその後、ナショナル・ギャラリーとの関係を生かし、ロスコの展覧会を何度も企画するようになる。展覧会の計画は、常に「これはロスコが望んだことなのか」と自問していたという。そして85年、ロスコの娘は、苦悩の末に亡くなった父の願いが叶えられ、何年にもわたる対立に終止符が打たれたことを明らかにした。

ブリンケン国務長官の父として、彼は晩年も政治や文化事業の世界と緊密な関係を維持していた。妻のヴェラは、海外の米国大使館に美術品を設置するワシントンD.C.の非営利団体「大使館におけるアートと保存のための財団」の副会長を務めている。また、ドナルド・ブリンケンの逝去にあたり、ブリンケン国務長官は、自分は父親のおかげでこの道を歩んできたとソーシャルメディアに投稿している。

2017年のフィナンシャル・タイムズ紙の記事の中でブリンケンは、(自分のような駆け出しのコレクターが)有名画家のロスコと直接会い、親しく付き合うことができた当時は特別な時代だったと振り返り、今ならそんなことは「不可能」だっただろうと述べている。(翻訳:野澤朋代)

※本記事は、米国版ARTnewsに2022年9月30日に掲載されました。元記事はこちら

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