障がいを原動力に生まれた5つの歴史的アート。長い指のグローブからホックニーのFAXアートまで
今、障がい者アートを見直そうというムーブメントが社会に広がっている。だが、歴史を振り返ると、障がいとともに生きる数え切れないほどのアーティストが、ウェルビーイングを実現する方法の重要性をこれまで訴えてきた。アートの歴史の中で、障がいが創造的な力の源泉となってきたことを示す5つの作品を紹介しよう。
レベッカ・ホーン《Finger Gloves(フィンガー・グローブ)》(1972)
ティム・ホーキンソンのメランコリックかつ不思議な機械を思わせる具象彫刻や、1980年代にステラークが取り組んだ幻想と悲壮さが相まった身体拡張の試みに見られるように、人工装具や人工器官をモチーフとし、実用性を併せ持つ詩的なオブジェを創作したアーティストは少なくない。その先駆けと言えるのが、レベッカ・ホーンの《Finger Gloves(フィンガー・グローブ)》(1972)だろう。両手に装着する2つの熊手のような道具で、布で覆われた金属の指が1メートル近く伸びている。
74年のビデオパフォーマンスで、ホーンはこのグローブをはめて両腕を広げ、誰もいない部屋の真ん中を、ゆっくりと一直線に行ったり来たりしている。グローブによって彼女の身体は拡張され、長く伸びた手が両側の壁に触れる。その不気味なタッチで、彼女は部屋を完全に占拠、あるいは使い切るのだ。
この作品を発表する数年前の68年、ハンブルク美術大学在学中にガラス繊維を吸い込んで肺病を患ったホーンは、学業の中断を余儀なくされている。1年間療養所に隔離され、面会謝絶の状態で過ごす間に両親が他界するという不幸が重なった。
隔離期間中の創作活動はドローイングに限定されていたが、これ以降彼女は、医療器具を参照しつつ、風変わりで不吉な連想を掻き立てる彫刻的なウェアラブル作品を生み出すようになった。ハーネスやチューブがエレガントな布と組み合わされている「グローブ」は、脅威を与えつつ身を守るための道具として作られている。リジア・クラークの作品のように、ホーンの装具は、やさしい鎧で身体を表したり隠したりする。
メディア論の研究者で、評論家でもあるビビアン・ソブチャック(癌が原因で左足を切断し、義足で生活している)は、2006年に発表した論文「A Leg to Stand On: Prosthetics, Metaphor, and Materiality(立ち上がるための足:人工装具、隠喩、物質性)」の中で、文学やアートで人工装具が単なるメタファーとして使われていることに絶望を感じると書いている。
彼女が批判するのは、洗練されてはいるが不完全な身体と機械の組み合わせを、漠然と何かが別のものに取って代わるイメージとして提示することで、人工装具を純粋な形式主義と結びつけるような考え方だ。歴史家のキャサリン・オットも同様に、「人工装具を人間と関連づけたまま捉えること」、つまり具体的で日常的な解釈と結びつけておくべきだと主張した。
ホーンの作品から引き出される解釈はプリズムのように変化する。あるときは丈夫で実用的な道具としての側面が示唆され、あるときは未だ決着しない制約と可能性の融合を想起させる。《Finger Gloves》は、ほかの多くの作品が捉え損なっていることを見事に表現している。この人工装具は、説明し難いが、一度見たら忘れられない。シンプルでありながら重厚で、とてつもなく奇妙なのだ。
イブラヒム・ヌバーニ《Untitled (無題)》(2006)
イブラヒム・ヌバーニは1988年に統合失調症と診断され、イスラエルに住むパレスチナ人としての内的葛藤が病にさらに拍車をかけた。この診断以来、彼の芸術は統合失調症というフィルターを通して分析されてきた。たとえば、《Untitled(無題)》(2006)の迷路のような幾何学模様の一番上の層として描かれた太く黒い線は、イスラエルによる占領と心の檻の両方を表しているという解釈もある。
しかし、障がいを持つアーティストの作品が、必ずしも症状の指標や、病が美的フォルムとして積み重なったもの、あるいはアーティストの身体性が無媒介的に反映されたものだとは限らない。《Untitled》の形式上の単純さ(そこには平面的な色面と、おそらく2人の人物を表す線が描かれた部分がある)とは裏腹に、その迷宮の背後には作家による複雑な一連の判断がある。
ヌバーニはパレスチナ国旗の色である赤、緑、黒、白を巧みに使い、この作品に政治的な色合いを加味している。67年にイスラエルは、すべての芸術・表現媒体においてパレスチナ国旗の色を使用することを禁止した。この禁止令は93年に解除されたが、それ以降も再導入の可能性が度々持ち上がっており、最近ではイスラエル国内でのパレスチナ国旗掲示を違法にしようとする動きもある。ヌバーニは、緑の色合いを変え、灰色や黄色を加えてはいるが、国旗の色を絵の中で使いながら暗に禁止令に反発している。
占領、病気、診断という3つの拘束は、それぞれ切り離すことができないものなのかもしれない。近年急速に進展している黒人障がい者研究の分野で、重要な書籍として広く読まれている「How to Go Mad Without Losing Your Mind(正気を失わずに狂うには)」(2021)で、研究者のラ・マー・ジュレル・ブルースは、「go mad(狂気に至る)」というフレーズに現れているように、狂気とは「場所とプロセスの両方」だと言っている。ブルースはこの主張を、「黒人を野生だと見なす」「狂った」プロジェクトとしての「中間航路(*1)」に関する議論の中で展開している。
だが、より広い意味では、診断によって身体が客体化され、モノ化される以前の問題として、身体に絡みつく関係性の一種として狂気を捉えることもできるだろう。社会的次元でのこの関係性は、ヌバーニの《Untitled》の中に見ることができる。この絵では、そこに描かれているであろう人物の数だけでなく、彼らの身体の境界や身振りも曖昧で、もつれ合ったまま表現されている。鑑賞者はそこにある関係性を解析しようと試みるかもしれない。だが、《Untitled》はまさにそうした行為、つまり診断そのもの、ある状態に名前を付けることが、一種の拘束になり得ることを示唆しているのだ。
ダレル・エリス《Untitled (Reclining Self-Portrait)(無題〈横たわる自画像〉)》 (1992頃)
木炭で描かれたこのドローイングでは、横たわっている人物が片手を腹部に置き、もう片方の腕を頭の上に伸ばしている。髭を生やしたこの男性は目を閉じており、背景は細部を省略してごく簡単に描かれている。無題のこの自画像は、ダレル・エリス(1952-92)の短すぎるアーティスト人生の最晩年に描かれた作品のうちの1枚で、エイズに関連した合併症で亡くなった年に制作された。彼が手がけたポートレートは、自分自身や家族、特に父親をモデルにしたものが多い。写真家だった父親は、エリスが生まれる2カ月前に警察に殺された。エリスはその父親を描くだけでなく、父親の写真をもとにした作品も制作している。
エリスは特定の人物を明瞭に描いた一方で、インク、アクリル、ガッシュ、木炭などを重ねながら、時にはモデルとなっている人物を覆い隠し、守るようにして、意図的に不透明さを演出することもあった。たとえば、彼の母親の肖像は目が長方形で覆われている。キスをしているカップルを描いた版画でも、片方の人物の顔が同じように隠されている。
また、人物を認識できる場合でも、その姿が歪められていることが多い。彼は写真の引き伸ばし機を従来とは違う方法で用いて、ネガの画像を凹凸のある表面に投影する。そして、その歪められたイメージを撮影して写真にする。こうした彼の戦略は「分かりやすさ」、特にマイノリティのアーティストに要求される「らしさ」を裏切ることへの関心からくるものだ。研究者デビッド・ハーシュによるインタビューで、彼は次のように述べている。「僕の作品は黒人らしくないとよく言われる」
エリスは、ある人物のアイデンティティが、誰に見られるかでどう変化するかというテーマを探求していた。それが特によく分かるのが、彼の自画像だ。アレン・フレーム、ピーター・ヒュージャー、ロバート・メイプルソープなど、異なる写真家が撮影した彼の肖像写真をもとに描かれている自画像などが良い例だろう。
こうした絵に比べ、1992年に描かれた横たわる自画像は、鑑賞者に見られることを素直に受け入れている、あるいは、少なくとも見られることに対し、受け入れることと拒否することの両方を示している。この絵の中のエリスは飾らない無防備なポーズで描かれ、難解なところはない。ソファのようなものに横たわっている彼は、おそらく晩年を過ごしたブルックリンのグリーンポイントのアパートの部屋にいるのだろう。制作時期や、白と黒の色合い、閉じた目、荒い筆致などから、死が近いことが想起されるかもしれない。
だが、私はこの絵で描かれているのは死ではなく、休息だと解釈する。閉ざされたドアのようなものが遠くに見えるこの絵の中で、彼は自らの内面に意識を向けているようだ。HIV陽性だと診断され、その事実を受け止めながらまだ公にしていなかったこの時期に、エリスは私的な空間で自分自身の身体と向き合っていた。それまでアーティストとして外界を見つめ続けてきたエリスは、安息の重要性を噛みしめていたのかもしれない。
アリス・ラオン《La balada para Frida Kahlo (フリーダ・カーロのためのバラード)》(1955–56)
幅が1.5メートル以上あるこの絵は、一見すると、きらめく都市の夜景のようだ。だが近くでよく見ると、建物のような形は、実は観覧車に向かって行進する生き物の群れであることが分かる。ラオンは、おそらく筆を反対に持ち、柄の先端で絵の具を引っ掻くようにして白い輪郭線を描き込んでいるのだろう。そのため、ディテールを見分けるのは難しいかもしれない。
だが、眺めているうちに、嬉しそうなキリンや帽子をかぶった人々、凧揚げをする動物たちの姿を見つけることができる。それらを発見し、そしていくつかの背景知識があれば、おそらくこの作品を解読できる。これは、秘密の暗号を埋め込みながら、障がい者同士の友情を描いたシュルレアリストの絵なのだ。
この絵は、障がい者のアリス・ラオンが、やはり障がいを持つアーティストであるフリーダ・カーロのために、彼女が亡くなった翌年に描いている。カーロは、背が高く茶色い目のラオンのことを「キリン」と呼んでいた。一方のラオンは、黒い瞳のフリーダのことを「frida aux yeux d'hirondelle(燕の目をしたフリーダ)」と表現し、それを絵の一番下に書いている。絵の大部分が鮮やかな青色で塗られているのは、メキシコシティにあるカーロの自宅「カサ・アズール(青い家)」へのオマージュだ。
こうしたシンボルは、2人の親密さの証しだと言える。それぞれが書き残したものから明らかになっているように、彼女たちの友情を支えていたのは、障がい者であり、女性であり、メキシコシティで芸術家として活動しているという共通の体験だった。ラオンは、第2次世界大戦中にカーロの勧めでパリからメキシコに移住した後、詩から絵画へと表現の場を移している。
この絵はまた、障がい者たちがいつの時代にも、無数の方法や文脈で互いを見つけ出し、支え合ってきたことも表現している。彼女たちが2人だけで障がいについて語り合った、会話の内容は知ることができない。しかし、その交流の証であるこの絵が、「Surrealism Beyond Borders(国境を越えるシュルレアリスム)」展(2021-2022)に出品され、ニューヨークのメトロポリタン美術館で多くの人の目に触れたのは注目に値する。以前、障がい者アーティストのパーク・マッカーサーが筆者に語ったように、こうした出来事は「私たちのような人間が、どこにでもいるのだということを再確認させてくれる」からだ。
果たしてこの絵には、ラオンとカーロだけが判読できる、永遠に暗号化されたままの何かがあるのだろうか。私は、2人の会話がどんなものだったのかを知りたくてたまらない。心のどこかでは、ある程度その内容が分かっているような気がしながらも。
デイヴィッド・ホックニー《Tennis(テニス)》(1989)
デイヴィッド・ホックニーは、代表作として知られるパステルカラーのプールのシリーズを描き終えた40代の頃、自分の耳が遠くなってきたことに気づいた。最初の兆候は、サンフランシスコでセミナーの講師を務めたときに、女性参加者たちの声が聞き取りにくかったことだ。それで、父親も同じ年齢の頃に耳が聞こえなくなり始めたのを思い出したのだという。
聴覚が衰えるにつれて、ホックニーにとっては電話よりFAXの方が便利になっていった。友人に宛てた彼のメッセージは、時を追うごとに遊び心が増していき、ついには展覧会に出す作品をまるごとFAXで美術館に送っている。1988年に制作された初期のFAX作品は、白黒の線画だ。グレーの階調は、細かく線を重ねるハッチングや、機械を通すことでピクセル状のノイズへと変換された質感をスキャンすることで表現した。
彼が送った多くのFAXは捨てられてしまったが、ニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵されて残っている作品もある。その多くは、肖像画、かごに入った果物、テーブルの上の花瓶などを描いた静物画で、独特の色彩がなくてもホックニーらしさが感じられる。
聴覚が損なわれたため、空間を把握する際に視覚に大きく頼るようになってしまったと、ホックニーは何度も語っている。実際、人の声を聞き分けられないので、混雑した場所は避けるようにしているそうだ。こうして視覚の位置付けが高まったことは、彼の作品にも表れている。FAXという日用品を斬新な方法で使うようになったのも、明らかにそれがきっかけだろう。
89年、ホックニーは用紙サイズの制約すら取り払ってしまった。《Tennis(テニス)》という抽象的な絵の中では、中央のネット状の形の両側に人物らしきチューブ状のフォルムが向かい合っている。ウェスト・ヨークシャーのソルテアにあるソルツ・ミルのギャラリーで展示する作品を制作するにあたり、彼はキュレーターに144枚の画像を、それを並べて巨大な絵にするための指示書とともにFAXで送っている。ホックニーは、FAXというツールが持つ制約をものともせず、何度もそれを創作の原動力に変えていったのだ。(翻訳:野澤朋代)
*US版ARTnewsの元記事はこちら。