「定型的なイメージを超えたい」──キュレーター、キム・ジェソクが再構成する韓国クィア・アート

フリーズ・ソウルの開幕とともに誕生した新たな施設「Frieze House」のこけら落とし展「UnHouse」は、国内外のクィア・アーティストによる作品を通じて「家」という存在を再考したことで大きな話題を呼んだ。同展のキュレーションを手がけたキム・ジェソクは、美術誌の編集者やギャラリー・ヒュンダイのディレクターを経て自身のギャラリー、xlargeを運営する気鋭のキュレーターだ。いまなお保守的な文化も根強い韓国アートシーンに、彼はクィア・アートをどう位置づけようとしているのだろうか。

2025年9月、フリーズ・ソウルの開幕とともに誕生したスペース「Frieze House」のこけら落とし展「UnHouse」が開催された。韓国と海外のクィア・アーティスト14名の作品を集めたこの展示は、クィア的な視点から「家」に問いを投げかけるものだった。大きな話題を呼んだ本展のキュレーションを手がけたのは、ギャラリー・ヒュンダイのディレクターを務めたのち、現在は自宅を活用したギャラリー「xlarge」を運営するキム・ジェソク。美術雑誌の編集者からキャリアをスタートさせた彼は、韓国アートシーンのなかでも近年注目される存在だ。

ソウル市鐘路(チョンノ)区・北村(プッチョン)エリアの奥に位置するxlargeも、彼のアートとの向き合い方を示す場だと言える。自然光が差し込む生活空間にアーティストの作品が点在し、そこで過ごすように鑑賞するうちに、不思議な親密感が立ち現れる。このギャラリーのディレクターとして展示をキュレーションするキム・ジェソクは、自身もクィア当事者として、社会に対して継続的に問いを投げかけてきた。アーティスト同士、あるいはアーティストと観客の対話を重視する彼はいま、韓国のアートシーンをどうまなざし、どのような実践を試みているのだろうか。

ジェソクが運営するギャラリーxlargeは、実際に彼が生活する空間を活用しながらさまざまなアーティストの展示を行っている。

編集者からディレクター、キュレーターへ

──まず、これまでの活動経歴についてお聞かせください。

アート雑誌『Art in Culture』の記者・編集者として仕事を始め、編集長まで務めた後、ギャラリー・ヒュンダイに入り、ディレクターとして4年間働きました。その後1年ほど休みながらいろいろ考え、xlargeを立ち上げることになったんです。

編集者同士でよく冗談っぽく話すのが、「編集者は何でもできる」ということ。私の場合、20〜30年間アートシーンで働いてきた方々から、写真の撮り方やアーティストへのインタビュー方法、校正、校閲など0から100まで教えていただきました。伝統的なアートマガジンの編集方法や長年のノウハウをもつ先輩たちが次世代にその知恵や技術を伝えられる、ほぼ最後の時期だったと思います。とても貴重な経験でしたし、編集者時代に培ったものは、いまの仕事にもよく活かされていますね。

──なぜ編集者からギャラリーのディレクターへとキャリアを変えられたのでしょうか?

『Art in Culture』の編集長時代に、当時ギャラリー・ヒュンダイの代表だったト・ヨンテさんが一緒に仕事をしようと提案してくださったんです。ギャラリーでは販売以外のほぼすべての仕事を統括しました。展示やイベントのプランニング、アーティストとの仲介、広報、リリース資料作成、映像撮影に至るまで、本当に幅広く担当しましたね。そのときの私のミッションは、歴史あるギャラリーに新しいアーティストたちを迎え入れ、、「古めかしい」イメージを改善することでした。

私が在籍中に加わったアーティストのなかには、ギャラリー・ヒュンダイとして初めてのクィア・アーティストであるイ・ガンスン、民衆美術アーティストとして知られる一方で、韓国の伝統的な具象絵画の系譜のなかでも注目すべきチェ・ミナ、そしていま日本でも注目されているメディアアーティストのキム・アヨンなどがいます。企画としては、韓国実験美術を代表する巨匠イ・ゴンヨンの特定の連作のみにフォーカスした、ソウルとヴェネチアでの展示も記憶に残っています。サイモン・フジワラの漫画キャラクターの連作〈Who the Bær〉のペインティング、映像、サイト・スペシフィックなインスタレーションなど40点余りをソウルで初公開したこともありますね。2019年の入社直後にコロナ禍へと突入し、その後、アート市場が爆発的に飛躍する過程をまさに現場で経験しました。あらゆる状況がダイナミックに変化するなかで、このような仕事に携われたことは、とても幸運だったと感じています。

──そして退職後、「xlarge」ギャラリーをスタートさせたのですね。

ギャラリーに勤めていた頃から、生活空間でアーティストたちと何か面白いことができないか考えていました。美術史を振り返ってみても、キュレーターやギャラリストが自分の居住する家や部屋を活用してプロジェクトを始めた例は多くあります。だから自分がホームギャラリーに辿り着いたのは、自然な流れだったかもしれません。

──最初の展示はどのようなものでしたか?

2024年4月に開いた最初の展示「rose is a rose is a rose is a rose」では、バラコレクターが収集した40種類以上のバラと植物とともに14名のアーティストによる60点余りの作品を展示しました。バラが咲き始めて満開になり、散っていく時間の流れのなかで、毎日作品の配置を変えながら作品を生き物のように世話していました。生花と作品が共存する「クレイジーハウス」だと言われましたが(笑)、反応はとてもよく、一つひとつ作品を眺めてまわる楽しみを感じてもらえたようでした。

インタビューのためにxlargeを訪れた際は、直前まで展示を行っていたイ・ドンヒョンの作品が室内のあちこちに配されていた。

クィアと「家」を再考した展示

──ジェソクさんがディレクションとキュレーションを手がけた「UnHouse」は、クィアを主題とした展示でした。新たにオープンした「Frieze House」の第一弾の企画だったこともあり、大きな話題を集めていたように思います。プロジェクトを担当するようになったきっかけはなんだったのでしょうか?

ギャラリー・ヒュンダイで一緒に働いていたフリーズのディレクター、パトリック・リーから声をかけてもらったんです。パトリックがxlargeに来てくれた時にFrieze Houseについて軽く話し、そこからどんなプログラムがいいか対話を重ねていきました。実は私が提案した案は二つあったんです。ひとつが今回の「UnHouse」、もうひとつはギャラリーの役割のひとつであり、故人の作家の“遺産(estate)”を管理することに焦点を当てた展示でした。ただ、時間的な制約もあって、パトリックからクィア・アーティストに関する展示の方がいいとディレクションをもらいました。

フリーズが長年取り組みたかったクィア・アーティストの起用や新しい展示施設の設立、私自身がクィアであること、個人的に自宅を利用したプロジェクトを始めていたこと──これらがタイミングよく合致したんです。何より、パトリックと私の個人的な縁、お互いへのリスペクトがありました。この展示はパトリックが私を信頼してくれなければできませんでしたね。

──フリーズ側から、クィアに焦点を当てたいという話があったんですね。

そうですね。ソウルをベースにアジアと海外をつなぐプラットフォームとしてフリーズをどう機能させるか、彼らは常にローカライズについて悩んでいます。韓国のアートシーンではここ数年間、多様なクィア・アーティストたちがデビューし、ネットワークも築かれ活発な活動が生まれています。ただ、もう一方では韓国社会はまだ保守的で、同性婚も法的に認められていない。そのような矛盾した緊張が共存するなかで、フリーズ・ソウルは世界からの視線をどう変えられるか、政治的なアティテュードを示す機会だと考えてもいたと思います。フリーズ・ソウル内部の意向と韓国アートシーンにおけるクィア・アーティストたちの台頭が重なったタイミングだったんです。

──展示のステートメントにも「家は政治的な場である」とあるとおり、家という空間を解体・再構築する視座にとても共感しました。実際の展示室では、ヌードイメージやセクシュアルな表現が多かったのも印象に残っています。

「ペニスがあまりに多すぎる」という声もありました(笑)。でも、それをどうイメージとして、どのような文脈で提示するか。性器や男性のヌードなど性的なイメージを「家」という空間の中でどのように再配置するかが核心的な問いでした。観客が「クィアの展示」のためでなく、「フリーズの新しいスペース」を訪れて、このようなイメージにふと対峙する場面を想像したんです。そのとき、挑発的な卑猥さではなく、とても自然なあり方で「ヌード」が現れるといいなと。私的で、同時に開かれた場としての「家」の両義性が、作品への視線を変えるだろうと思いました。

──なるほど。作品の配置にも工夫があったそうですね。

はい、作品同士の対話を重視し、視線が空間の中で交錯するよう作品を向き合うかたちで配置しました。たとえば、レズビアン・アーティストの作品とゲイ・アーティストの男性のヌードが向き合っているとき、どんな対話が生まれるか想像してほしかったんです。

2階建ての洋館であるFrieze Houseを初めて見たとき、キム・ギヨンの『下女』(1960)やポン・ジュノの『パラサイト 半地下の家族』(2019)といった映画に登場するセットを思い出しました。韓国の大衆文化では、こうした構造の家は特異な象徴性をもっています。実際にほとんどの人は住んだことがなく、裕福な人々が暮らす空間ですが、テレビや映画を通してよく見ていたので、不思議とノスタルジーを感じるんです。こうした観点から、家もひとりの主人公としてどう見せるか? を考えながら、床や壁面、階段など、居宅そのものとの調和やバランスも意識しました。異性愛中心的な「家族」の痕跡を感じる空間にクィア・アーティストたちの作品が並ぶことで、この場所がもつ意味そのものも変容させることができますよね。

あるいは、アーティストが一堂に会すホームパーティーのような展示だとも言えるでしょう。見慣れない人々同士が出会い、互いに自己紹介して、スモールトークから会話が封切られる。海外のアーティストと韓国を中心に活動する若いクィア・アーティストが、こうしてひとつの場所に集合したのもほぼ初めてだったのではないでしょうか。

クィア・アートとフェミニズム

──この連載のテーマであるフェミニスト・アートの観点からもお話を伺いたいです。展示を企画する際、フェミニズムの視点を意識されることはあるのでしょうか?

まだ「フェミニズム」というキーワードを前面に掲げた展示を企画したことはありません。しかしながら、展示に参加するアーティストのバックグラウンドと思考、そして作品が形成される条件そのものがフェミニズムの歴史と切り離せないことが多く、結果的にフェミニズムのメッセージは展示に自然に溶け込むしかないと思っています。必ずしも前面に掲げずとも、フェミニズムが私たちに与えた視点と方法論はきわめて重要で革命的であり、作品を選び、配列するプロセス全体において持続的に作用しています。

たとえば「UnHouse」でも、自身が属するコミュニティの人々を記録し再現するペインティングや写真のなかに、すでにフェミニズム的な視点が内在しています。特に1990年代から活動してきたキャサリン・オピーの作品に登場する人物の物語は、特定のイデオロギーを宣言しなくとも、フェミニズムとLGBTQ+の歴史的文脈が必然的に含まれています。生活を記録する方法そのものがすでに政治的選択と言えますね。そのため、むしろ私にとって大事なことは、あえて「フェミニズムの視点」を意識したり、フェミニスト・アートを固定されたカテゴリーやジャンルとしてどう規定するかよりも、クィアの位置からその概念をどのように問いなおし、拡張できるかです。この問題は、いまもなお進行中の課題だと思っています。

──「問いなおし、拡張する」ことについて、もう少し詳しく教えていただけますか?

フェミニズムとクィアは深く結びついてきた一方で、常に同じ方向を向いてきたわけではありません。つまり、歴史や表現様式と深く絡み合いながら、そのなかにもさまざまな立場や定義があり、ひとつの関係性でまとめることは難しいんです。ふたつの言説は互いを必要としてきた一方で、緊張と衝突を繰り返してきました。

たとえば「あなたはゲイでありながらフェミニストですか?」という質問は比較的頻繁に投げかけられますが、このなかにはすでに単純化された前提が潜んでいます。個人的にはゲイのアイデンティティはフェミニズムの抱えている問題意識から切り離せないと思います。ですが、実際にはすべてのクィアが自らをフェミニストと自認するわけではありません。クィアの共同体内でも、女性嫌悪の問題が依然として発生しています。これは、どのように表明するか、ではなく、それぞれの人が位置する社会的条件と経験の差異から生じる現実でもあります。

この複雑性はトランスジェンダーとフェミニズムの関係においてよりはっきりと表れる。たとえば公共施設の利用やスポーツといった制度的な領域において、トランスジェンダーの存在が一部のフェミニストの主張と衝突する場面は、依然として繰り返されていますよね。この摩擦は「正しいか、正しくないか」という問題ではなく、フェミニズム内部に存在する多様な立場と限界が同時に表れるケースだと見なすことができます。

だからこそ私にとって重要なのは、ある立場を断定的に表明することよりも、緊張と不一致そのものを丁寧に扱うことです。同時代的の議論に目を配りつつ、使われる言葉や表現がどのような歴史や排除を前提としているのか。争点がどこに置かれているのかを繊細に読み解くべきです。アーティストとプロジェクトを進めながら、思索し、問いつづけなければならないんです。

──歴史的な文脈においては、フェミニスト・アートが運動として理解されてきた側面もあります。クィア・アートも同様に、社会的・政治的な主張として捉えることについてお伺いしてみたいです。

そうですね、クィア・アートも社会的・政治的運動と結びつきながら形成されてきた系譜があります。検閲や制度的差別、エイズ危機といった条件のもとで、クィアの視覚文化は長い間生存や権利をめぐる言語と関わってきました。その意味で、社会的・政治的な主張とクィア・アートの関係は、きわめて自然で本質的だと言えると思います。

ただ私が気をつけたいのは、クィア・アートを「運動」という単一の解釈のフレームに固定した瞬間に生じる損失です。確かに「運動」の文脈で読まれる作品もあり、明確な政治的言説を前面に打ち出す実践も存在します。しかし同時に、関係性や情動、形式の実験、あるいはイメージの歴史といった異なるレイヤーを通して、クィア性を構築するアーティストも少なくありません。とりわけ2020年代以降、ソウルに広がってきたさまざまなクィア・アートのシーンを見ると、自らをクィアと自認するアーティストたちの実践は、ひとつの運動へと収束するというよりも、それぞれの条件や言語に応じて分岐的に表れているように感じられます。だからこそ私にとって重要なのは、「クィア・アートは運動である/ではない」という二分法ではなく、個々の作品がどのような方法で世界と関係を結び、どのような感覚と言語を生み出しているのかを具体的に読み解くことです。その視点に立つことで、クィア・アートを身体やセクシュアリティといった表層的な記号だけで消費する読解からも脱却できますから。

フリーズのYouTubeでは、ソウルにおけるクィア・カルチャーとつながりの深いスポットやインディペンデント・ギャラリーが建ち並ぶエリアをジェソクが巡る映像も公開されている。

定型化された“文法”を書き換える

──少し抽象的な質問ですが、ジェソクさんは「クィア」という概念そのものをどう捉えていますか。

簡単には答えることが難しい質問ですね。ただ、私が最近気に入ってよく引用している、映画『クィア』(2024)の監督、ルカ・グァダニーノの言葉があります。彼は「すべての偉大な映画はゲイだ(I think every great movie is gay)」と語りました。そして、偉大な映画は少なくとも「クィア的」であると。少し“オールド”な定義かもしれませんが、クィアとは世界の中心とされる場所から離れ、秩序立っておらず、どこかずれていたり、壊れたような感覚。世界を斜めの位置から眺める歪んだ視点、そしてその視点を最後まで維持しようとする意志と態度そのものがクィアなのです。

私はこの考えをアートにも適用したいんです。自らをクィアと自認しないアーティストの作品であっても、なぜその作品が有効で説得力をもつのかを考えると、簡単には規範に吸収されない感覚、すなわちクィア的な要素が明らかに存在することが多い。これこそ、すでに定型化された「クィア・アート」の文法やアイコンを理解し可視化しつつも、そこから脱却しようとする試みが必要である理由です。

たとえば「UnHouse」に参加した彫刻家のチェ・ハヌルの作品の男性身体の表現は、「クィアな身体」というフレームだけで読まれるものではありません。彼の作品は「so gay!」ではあるものの、「クィア」というアイデンティティだけで規定すると、その彫刻が機能する美術史的な深みと形式的な緊張感がかえって見過ごされてしまう危険性がありますよね。むしろ彼は、西洋的な彫刻の歴史と理想化された身体の伝統、そしてそのバランスがどのように揺らぐかを明らかにしている。

──その視座がキュレーションに活かされているのですね。

はい。特定のアイデンティティや前提知識よりも、作品が結ぶ関係性と配置を通じて自然に問いが立ち上がり、観客がそれぞれの立場から異なる読みを行える余地を残すこと。これこそが、私がキュレーションを通じて生み出したいと考えている効果です。

私は作品が置かれる関係性と配置を通じて、ひとつの解釈に集約されない、多層的なストーリーをつくり出したいんです。慣れ親しんだ動線や安全な組み合わせよりも、作品同士に見知らぬ緊張感やズレが生じるよう、関係を新たに構築したい。もちろん、性器のイメージやキッチュな表現、刺激的な視覚要素など、いわゆるクィア展覧会の表現における歴史と文脈は欠かせないものです。ただ、こうした定型的な表現が繰り返されるほど、クィアな実践が特定のイメージや感覚だけに固定される危険性も高まりますよね。だからこそ常に意識しているのは、こうした定型的な要素からいかに脱却するか。あるいは逆にそれをひとつの入り口として、そこに内包されるより複合的な物語や形式、関係をいかに拡張して示せるかです。

──xlargeの展望についてもお伺いできますか?

2025年12月20日まで、モク・ミンスとパク・スンヒョクの二人展「XM」を開催しました。一人はクィア、もう一人はストレートであり、中学時代から友人として過ごしてきた仲です。互いに使用するメディアも異なり、性的アイデンティティ(性自認)も違いますが、幼い頃からファッションに関心をもってきた点が共通しています。今回の展示は、二人の長き友情を私的な空間でひとつの場面として立ち上げながら、美術とファッション、身体とモノ、暮らしと作品、労働と余暇、形態と機能が自然に混ざり合い、再び分離する境界の瞬間を考察する試みでした。

2026年も個展と企画展を継続する予定です。展示ごとに異なるメディアを選択し、この場所が毎回異なる表情をもつようにしたいですね。今日お話したクィア・アートについて改めて考えると、私のギャラリーで展示してきた作家が全員クィアというわけではありません。ただ、クィアである私が運営するという点で、この場所自体にはすでにひとつのクィアな条件が内在していると思います。まだ日は浅いですが、ギャラリーを運営してみて、「誰かがクィアの空間を訪れる」という行為そのものに意味があるように感じています。日本の読者のみなさま、韓国にお越しの際はぜひxlargeへお越しくださいね。


キム・ジェソク|キュレーター、ギャラリスト。美術雑誌「アートインカルチャー」のエディター、編集長を経て、ギャラリー・ヒュンダイのクリエイティブディレクターとして4年間勤務。イ・ガンスン、チェ・ミナ、キム・アヨン、イ・ゴンヨン、サイモン・フジワラらの展示を企画。2025年、実際の生活空間を活用したホームギャラリー「xlarge」(アポイント制)をソウル・鍾路(チョンノ)区にオープン。2025年9月、フリーズ・ソウルの会期に合わせて新たにオープンしたギャラリー、Frieze Houseではこけら落とし展となる「UnHouse」をキュレーション。

Text: Ruka Kiyama Edit & Photo: Shunta Ishigami

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