都市の地層から掘り起こすクィアな時間と空間──「Spectrosynthesis Seoul」レビュー
韓国・ソウルのアートソンジェセンターで開催中の「Spectrosynthesis Seoul」は、74組のアーティストが参加する韓国史上最大規模のクィア・アート展だ。すでに失われた場所と、まだここにはない未来──都市の地層から立ち上がるクィアな時間と場所を捉える本展の試みに迫る。

韓国・ソウル、アートソンジェセンターの床に、緑色の粉で文字が書かれている。クラブ、サウナ、バー……床に書かれているのは、かつてソウルに存在したクィアなスペースの名前であるらしい。その粉は香でつくられており、端から少しずつ燃えていた。展示空間にうっすらと煙が立ち上り、ほのかに匂いが広がっていく。床に書かれたスペースの名が、少しずつ消えていく。
現在アートソンジェセンターで開催されている「Spectrosynthesis Seoul」は、サンプライド財団によるクィア・アートをテーマとした巡回展だ。ソウルの展覧会には74組のアーティストが参加しており、クィア・アートを扱う取り組みとしては韓国史上最大規模の展覧会だという。
香の粉によってクィアなスペースの名前を描いたオ・インファンの《Where He Meets in Seoul》は、本展を象徴する作品のひとつだ。すでに消えてしまった場所や美術館という制度の外側にある時間と、美術館はどのように関われるのか。本展は単にクィアなアーティストによる作品を集めたものではなく、そんな問いを投げかけるものだと言えるだろう。

ヴァリテーション・ローカライゼーション・グローバリゼーション
香港を拠点とするコレクターのパトリック・サンが設立したサンプライド財団は、アジア初のLGBTQ+に特化した現代美術財団として知られている。「Spectrosynthesis」は同財団のコレクションを軸としながらアジア圏諸国のクィアなアーティストを紹介するシリーズ展であり、台北(2017年、MoCA Taipei)、バンコク(2019〜2020年、BACC)、香港(2022〜23年、大館当代美術館)を経て今回のソウルが4回目の展覧会となる。
これまでの展覧会がアジア圏全域の幅広いアーティストを扱っていたのに対し、「Spectrosynthesis Seoul」では74組の参加作家のうち約50組が韓国のアーティストであり、大きく方向性が異なっている。サンによれば、本展の特徴は「ヴァリデーション(承認)」「ローカライゼーション」「グローバリゼーション」という3つのコンセプトにあるという。
包括的な差別禁止法がなく同性婚も認められていない韓国の中心地に位置するアートソンジェセンターで本展を開催することは、これまで制度的な空間で評価されにくかったクィア・アーティストらによる実践を正当な制度のなかで価値づけることだろう。そしてローカライゼーションとは言うまでもなくソウルという都市空間のなかで培われきたクィアな文化に目を向けることにある。さらに本展では一部欧米圏のアーティストによる作品も展示されており、ローカルな実践をグローバルな文脈と接続するものでもある。
本展はアートソンジェセンターの全フロアを使い切るように構成されており、サンプライド財団のコレクションを展示する2階の「The Two-Sided Seashell」と韓国アーティストにフォーカスした3階の「Tender: Invisibly Visible, Unlocatably Everywhere」を中心に、地下やボイラー室、通路、トイレなど館内のあらゆる場所で作品が展示されている。本展のキュレーションを担当したアートソンジェセンターの芸術監督、キム・スンジョンは「トランジショナル・スペース」として空間を構成したと述べており、この構成そのものも美術館という制度的な空間をクィア化する試みだと言える(もっとも、昨年同館で開催された「Adrián Villar Rojas: The Language of the Enemy」展も従来の展示室を逸脱したダイナミックな空間構成が話題となっており、アートソンジェセンター自体も積極的に美術館という空間へ問いを投げかけてきた)。会期中は毎週のようにトークセッションやパフォーマンスが開催されており、本展がホワイトキューブに閉じず広がりをもったプロジェクトとして設計されていることが伺えるだろう。
先行世代の実践をローカルな文脈と接続
「Spectrosynthesisはコレクション展だと思われがちですが、コレクション以上の試みなんです。コレクションをもとに、キュレーターたちが展覧会を発展させていく。各展覧会はその土地に根ざしたものでなければならないと考えています」
そうサンが語るとおり、本展はサンプライド財団のコレクションをソウルという都市の文脈に接続することで新たなつながりを生み出している。たとえばコレクションを中心とした2階の「The Two-Sided Seashell」ではデレク・ジャーマンやアニー・リーボヴィッツ、ギルバート&ジョージ、ロバート・ラウシェンバーグといった欧米の巨匠たちによる作品が並ぶとともに、2024年12月3日の非常戒厳事態以降にソウルで起きた抗議運動の記録映像から構成されたシレン・ウニョン・ジョン《Sick Seoul》や、ポスト・コロナのデジタル化する韓国社会を描いたキム・アヨンの《Evening Peak Time Is Back》や《Delivery Dancer Simulation》が対置される。
サンが「The Two-Sided Seashell」というテーマを「あなたの中に私がいて、私の中にあなたがいる」と解釈するように、このフロアに並んだ作品たちは時間と空間を超えながらクィア・アーティストらによる実践をつなぎ合わせるものだと言えるだろう。
さらにマーク・ブラッドフォードによる《The Nadir》は、本展のためにつくられた新作だ。パーマ用紙を素材にした本作は彼の母親が経営していた美容室に由来するものであり、当時の美容室はクィアの人々が集まって話すコミュニティの場でもあったのだという。そんな作品の前に、冒頭で紹介したオ・インファンの《Where He Meets in Seoul》は配置されている。LAやソウル、ニューヨーク……各都市でクィアなコミュニティが切り拓いてきた場所の記憶や痕跡というモチーフは、そのまま3階の展示へとつながっていく。
時間と空間にフォーカスしたキュレーション
本展の取り組みをさらに力強いものにしているのが、キュレーターのイ・ヨンウが中心となって企画した3階のセクション「Tender: Invisibly Visible, Unlocatably Everywhere」だ。
2階が欧米の制度のなかで自身の“声”を獲得してきたアーティストの作品群を提示しているとすれば、3階に見られるのは、いままさにソウルのなかでクィア文化の可視化を試みる現在進行系の実践である。サンは3階のキュレーションを「時間的かつ空間的」と要約しており、アーカイブや時代の変遷を辿る時間軸とソウルの具体的な都市地理を辿る空間軸が、作品群を貫いている。
時間軸においては、ソウルのクィアな過去を発掘する作品が並ぶ。たとえばイム・チョルミン《Glowjob》はかつてゲイ男性のクルージングスポットとして機能していた鍾路3街の映画館を訪れることでその場がもっていた記憶を蘇らそうとするものであり、ホン・ミンキ《Paradise》は実写の映像と3DCGのキャラクターを組み合わせながら、1980年代の映画館に集まっていたゲイ男性たちの物語を描く。
空間軸では、ソウル随一のクラブ街であり多くのゲイクラブがあることで知られる梨泰院に焦点を当てた作品が少なくない。イ・ウイン《THE BALLAD OF OIOTOIL》はリソグラフによって梨泰院の地図を描き出す作品で、わずかにずれた色のレイヤーが、米軍基地の周辺コミュニティから外国人街、トランスジェンダー・コミュニティ、近年の観光地化に至るまで、この地区が抱え込んできた複数の時間を可視化する。チョン・ナファン《The Wristband》はすでに潰れてしまったゲイクラブのリストバンドを集めて額装することでかつてあったクィアコミュニティを立ち上げようとする。ゲイ文化に固有の場所として機能してきた鍾路3街に対して、梨泰院は雑多な匿名性のなかにクィアの空間が紛れ込んできた場所であり2つの空間を行き来しながら、ソウルという都市はクィアな存在に居場所を提供してきた。こうした作品が記録しているのは、すでに失われた場所、損なわれた身体、誰にも語られなかった生のかたちだ。
クィア・アートの可能性を開いていくこと
もっとも、本展の試みはソウルで行われてきたクィアな文化実践の記録や可視化にとどまるものではない。会場で描かれた場所の多くはすでになくなってしまっているが、その文化は過去に固定されているわけではなく、常に変容し広がりつづけているからだ。
たとえばチョン・ナファン《Anessa's Room》《For a Flash》は、ドラァグクイーンのAnessaがパフォーマンスに向けて変容していく様子を記録した映像作品であり、展示室の床には銀色の紙吹雪が一面に敷き詰められている。紙吹雪は鑑賞者の靴底に付着し、館内のあちこちへ運ばれていく。クラブという場の物質性は鑑賞者の身体を媒介しながら、作品を超えて広がっていってしまう。あるいは、キム・リョムの絵画作品はまた別の形でクィア文化のつながりを感じさせた。《Serving Butterfly》はかつて梨泰院に存在した「Trunk」というクラブのワンシーンを描いたものであり、展覧会のオープニングに際した行われたアフターパーティの会場はまさにTrunkがあった雑居ビルのワンフロアに位置するクラブだった。こうした接続が意図的に行われているかはさておき、クィアな空間はいまもなお都市のあちこちに広がろうとしているのである。
本展のカタログに寄せられた論考において、イ・ヨンウは次のようにクィア・アートの可能性を表現している。
「最もラディカルなクィア・アートとは、あるアイデンティティを最も正確に表象するものではなく、まだ意識化されていないもの、まだここにはないもの——私たち全員を待つクィアな未来の地平線を垣間見させてくれるものである。Tenderとは、そのような未来に向かう旅に必要な親愛の勇気であり、旅そのものに内在する脆弱さの誠実な承認である」
オ・インファンの香は会期の終わりまでに燃え尽き、靴底に貼りついた銀色の紙吹雪は来場者とともに館外へ運び出される。地下のドラァグ・クラブの上にゲイ・クラブが重なり、ダンスフロアはやがて次の場所へと移っていく。どこかで生まれては消え、また別の場所で反復される、クィアな時間と場所そのものを本展は体現していたのであり、「まだここにはないもの」に向かって「Spectrosynthesis」は開かれているのである。
Spectrosynthesis Seoul
会期:3月20日(金)〜6月28日(日)
場所:アートソンジェセンター(ソウル市チョンノ区ユルゴクロ3ギル87)
時間:12:00〜18:00
休館日:月曜


























