眼差しのバグと不穏なノイズ──「ロン・ミュエク」展【EDITOR’S NOTES】
人の知覚というものは、思いのほか当てにならない。森美術館の「ロン・ミュエク」展は、そんな知覚の脆さを突きつけてくる。執拗に再現されたリアリズムと、狂わされたスケール感。その造形を前にしたとき、現実の輪郭はぐらりと揺らぐ。

巨大な骸骨や、小さな老人。ロン・ミュエクの彫刻を前にすると、まるで自分が不思議の国のアリスになったかのような錯覚に陥る。皮膚のたるみや血管の浮き出しまで再現されたリアリズムと、あからさまに狂わされたスケール感。森美術館とカルティエ現代美術財団が共催している「ロン・ミュエク」展は、私たちが普段どれほど無防備に現実というものを信じ込んでいるかを突きつけてくる。
過去の森美術館の企画展を知っている人も知らない人も、展示室に入った瞬間のいささか不自然な余白には気がつくだろう。本展はパリ、ミラノ、ソウルに続く巡回展であり、かつ国内では18年ぶりの大規模個展だが、出展作品はわずか11点と少ない(そもそもミュエクは総作品数が約50点と、寡作なアーティストではあるのだが)。
だだっ広い展示空間に、各作品が互いに干渉を避けるようにポツン、ポツンと置かれている。鑑賞者は、まるで彼らのテリトリーに迷い込んでしまったかのような妙な居心地の悪さを感じながら、一点一点の作品とじっくり向き合うことになる。
極大と極小が揺さぶる、距離の力学
ミュエクの作品の特長は、なんといってもそのスケールだ。会場に入ってすぐに鎮座する長さ6.5m、幅約4mの作品《イン・ベッド》(2005年)では、巨大なベッドに女性が横たわっている。見上げるほど大きな彼女は空間の彼方を見つめており、私たちと視線が交わることはない。その大きさも相まって、彼女の表情が喜怒哀楽のどれを表現しているのかを想像することもなかなか難しい。
あるいは、水着姿で壁にもたれかかる10代の少女をモチーフにした《ゴースト》(1998/2014年)。身長は約2メートルあり、脚は極端に細長く、足は実際の人間とは思えないほど巨大に造形されている。内気で少し怯えているような少女の内面的なアンバランスさが、そのまま異形とも言える肉体として表現されているようだ。本物の人間なのかどうかさえ疑わしくなるその姿は、タイトル通り、まさにゴーストのような違和感とともに迫ってくる。
一方で、初期の代表作《エンジェル》(1997年)や《チキン / マン》(2019年)といった作品は、人間のサイズよりもはるかに小さく造形されている。大人が子どもの目線に合わせるようにしゃがみ込み、覗き込むようにして細部を観察しなければならない。
この絶妙なスケールの操作によって、ミュエクのハイパーリアルな彫刻が、単なる錯覚のゲームではないことに気づかされる。実物大ではないからこそ、私たちは対象との距離を測り直し、自分自身の身体感覚のバグに意識を向けることになるのだ。
背面から忍び寄る物語のノイズ
ミュエクの作品が孕む物語もまた、一筋縄ではいかない。例えば《若いカップル》。一見すると10代の男女が寄り添う初々しい場面に見えるが、作品の後ろに回り込むと、少年が少女の手首を無理やり強く掴んでいることがわかる。その瞬間、微笑ましい青春の1ページは、不穏な力関係の露呈へと一変する。

あるいは、約4倍の大きさでミュエク自身の寝顔を再現した《マスクⅡ》。あまりにもリアルなその顔の背面はぽっかりと空洞だ。圧倒的な質量を感じさせていたはずの顔が、ただの皮膜に変わる。

前述の《チキン/マン》もそうだ。下着姿の老人がテーブルの前で、一羽の鶏と対峙しているという奇妙なシチュエーション。一体何が起きているのかの説明はない。だからこそ、私たちはその不可解な物語の深みへと覗き込むように誘い込まれてしまう。そうして実物よりも小さなその世界をしゃがみ込んで観察するのだが、見つめれば見つめるほど、彼らの沈黙がプレッシャーとなって跳ね返ってくる。
さらに、展覧会の最後に登場する《マス》(2016-2017年)が、追い打ちをかけるように感覚を揺さぶる。そこにあるのは、空間を埋め尽くす巨大な頭蓋骨の群れ。ディテールが異なる名もなき死者たちの集合体は、いまにもこちらに集団で転がってくるのではないかと思うような圧迫感をもたらし、もはや個別の物語すらも剥ぎ取られた圧倒的な事実を突きつける。

会場の後半で上映されている記録映像には、数年という時間をかけて一作品を練り上げる、ミュエクの執拗なまでの制作風景が収められている。そんな執着によって生まれる作品の数々は、物語をあえて語りきらず、解釈を鑑賞者に委ね、その存在感で私たちの眼差しを宙吊りにし続けるのだ。
ロン・ミュエク
会期:2026年4月29日(水・祝)〜9月23日(水・祝)
場所:森美術館(東京都港区六本木6-10-1 六本木ヒルズ森タワー53階)
時間:10:00~22:00(火曜は17:00まで、ただし8月11日、9月22日は22:00まで/最終入館は閉館時間の30分前まで)





