宮津大輔連載「アート×経営の時代」第2回「混沌や矛盾を受容する力」~GMOインターネット株式会社 代表取締役グループ代表 熊谷正寿
アートはビジネスに必須だと言われる。だが、CSR(企業の社会的責任)としてのアート支援でもなく、アート的思考でもなく、「経営戦略として」アートを採り入れる企業がどれだけあるだろうか。アートコレクターで、多数の著書もある横浜美術大学教授の宮津大輔氏による連載第2回は、ジュリアン・オピーのコレクターとしても知られ、インターネットを軸に30年間事業を運営してきた熊谷正寿氏(58)と、彼が率いるGMOインターネットグループを取り上げる。
世には近頃、「アート思考」なるものが流布している。それは、あたかもロジカルな戦略で解決できなかった経営課題が、アートの直感的な「ひらめき」によって解決可能であるといった誤解を招きかねない。
優れた現代アート作品が有する真の魅力と、それを理解・消化し自らの経営戦略に生かすことは、そんな安易なことでも、それほど薄っぺらいものでもない。
連載第2回からは、筆者が仕事などを通じ知遇を得たトップ・マネジメントへのインタビューに基づき、アートが有する唯一無二のパワーを企業経営へと生かしている実例について紹介する。
最初のケースとして、GMOインターネットグループを率いながら、筆者が選考委員を務める公益財団法人熊谷正寿文化財団の会長を務める熊谷正寿氏を取り上げたい。(※以下敬称略)
スタイリッシュな経営者の人間愛
取材場所の応接室に現れた熊谷は、ダークスーツに身を包んでいた。プライベートジェットの操縦桿(かん)を自ら握る、いかにもIT系企業経営者然とした姿とは異なり、それは希代のウェルドレッサーとして知られる第7代国連事務総長コフィー・アナン(Kofi Atta Annan, 1938~2018年)の抑制が利いたスタイルを彷彿(ほうふつ)とさせるものであった。彼の背後には、巨大なジュリアン・オピー(Julian Opie, 1958年~)の動画作品3点が、壁面の一部を成す形で常設されている。オピーは、極限まで削ぎ落した線描による表現で知られる、英国を代表する世界的なアーティストである。
熊谷が1991年5月に、GMOインターネット株式会社(以下、GMOインターネット)の前身である株式会社ボイスメディアを創業して以来、GMOインターネットグループ(以下、GMOグループ)はネット社会の進展と歩調を合わせるように発展・拡大してきた。現在では、上場企業10社を含む107社を数え、連結売上高は約2414億円にまで達している。また、グループ企業で働くパートナーは約7200人(2022年4月時点)にも及ぶ。ちなみに彼は敬意と愛を込めて、従業員を“パートナー”と呼んでいる。そして、設立から約30年を経たグループの事業領域は、インターネットを軸にしてインフラ構築から、広告・メディア、金融、暗号資産まで多岐にわたっている。
こうしたグループ躍進の鍵は、企業ヴィジョンである「GMOインターネットグループ スピリットベンチャー宣言」に垣間見ることができる。同宣言は以下のように定義されている。
世に「ベンチャー」の定義は多く存在しますが、我々の言う「ベンチャー」とは「旧来の伝統的企業に対抗して、革新的商品・サービスを提供することでお客様に『笑顔』『感動』を提供し、多くの人に尊敬され応援される、『ファン』の多い会社を作る……そんな『志』=『夢』を実現させるために、革新的なスピード・着眼点・手段・頭脳によって、リスクを恐れず突き進む者の集団」を指します。
上記のマニフェストに続いては、「夢」「ヴィジョン」「フィロソフィー」から成る基本的な考え方と、行動原理である「経営マインド」について詳述されているが、その中に、以下のような一文を見つけることができる。
人も(他の経営リソースと)同様、基本的には性悪説に基づき利益と恐怖による統制が原則と考えられてきたのです。しかしながら、もっとも根本的な経営資源である人間は、感情の生き物であり、本人次第でその生産性は数倍、さらにチームオペレーションの相乗効果を考えると数十倍もの相違が出てきます。(カッコ内は、筆者補足)
更には、「GMOインターネットグループの仲間は皆ファミリーです。思いやりと優しさを持ち、グループ会社、仲間、パートナー、メンバーと呼ぼう」と呼び掛けてもいる。それ故に、言葉は言霊(ことだま)と信じる熊谷は、自ら率先して従業員を“パートナー”あるいは“人財”と呼んでいるものと考えられよう。
“世界一”のジュリアン・オピー・コレクター
さて、前出のスピリットベンチャー宣言には、“最高”と、ある種それを定量化・換言した“1番”そして“ナンバー1”というワードが随所に登場する。「インターネット産業で“1番”になろう。“1番”になれないことはやらない」と言い切り、有言実行する熊谷の経営哲学は、自身のアート・コレクションにも反映されている。
20代からアート作品を購入していく中で、ある時彼は自らのコレクションが、常に事業で目指している“1番”とかけ離れた状態であることに気づき、一から組み立て直すことを決意したのである。結論は「“1番”好きなアーティストの作品で、“世界一”になること」であった。
その決心を固めて以来、彼の心を捉えて今も離さないのがジュリアン・オピーの作品である。熊谷はオピー作品の魅力を「この世で最も複雑な人間を、あれだけ単純化して(外見のみならず、その人間性まで)表現していることに驚いた」と語る。また、自身が率いるGMOグループ全事業の根幹を支える技術に準(なぞら)え、「膨大な情報を0と1の組み合わせで処理するインターネットに共通すると感じ、経営者としても強く惹(ひ)かれました」とも述べている※1。
オピー作品に寄せる強い思いは、シンプルにして平易でありながらも核心を突いた企業スローガン「すべての人にインターネット」にも共通している。同時に、その黎明(れいめい)期には高価で複雑であったインターネットへの接続や、レンタルサーバー・ドメイン登録などを、廉価で誰にでも簡単に利用できるサービスとして、提供し続けてきたGMOグループの歩みとも軌を一にしていると言えよう。
更に熊谷がユニークなのは、自身の個人コレクションをオフィスに展示していることである。東京・渋谷の2箇所に計64点、 大阪に12点と所有するオピー作品の大半を、“パートナー”やオフィスを訪れる様々な人々と共に日々楽しんでいる。
それは、アート蒐集(しゅうしゅう)やDJ、スキー、ワイン(シャンパーニュ騎士団シャンベランに叙任されている)と並び、「笑顔を見ること」を自らの趣味として公言する彼の、いわば「幸せのお裾分け」だけが理由ではない。
革新的な着眼点や豊かな感性を必要とされるネット関連事業の世界で、“パートナー”のおよそ半数を占めるクリエイターやエンジニアたちに、「本物にしかないパワーを、日々身近に感じてもらいたい」ためでもあるという。それは彼らの幸せや充実感を追求しつつ、事業の深化・発展を目指す正に一石二鳥の取り組みでもあった。
では、実際にオフィスで働くパートナーたちは、熊谷のコレクションをどのように感じているのであろうか。
自分が誇れる仕事に携わりたいと考えGMOインターネットに合流、現在は、同社でクリエイティブディレクターとして働く丸山清人(事業統括本部 Webプロモーション研究室 クリエイティブチーム リーダー) は、 オピー作品が展示されるオフィスについて以下のように語る。
「前職は広告代理店に勤めていましたが 、自分が胸を張って世に広めたい最高の仕事だけに集中したいと考え、事業会社であるGMOインターネットに転職しました。最近はコロナ禍で、在宅リモート勤務とオフィスでの執務を組み合わせて働いていますが、やはりオフィスにしかない独特の空気感が重要であると再認識しています。アート作品からは刺激を受けると共に、(作品を見ることが)良い気分転換にもなっていますし、外部の方と打ち合わせする時には、誇らしい気持ちにもなります」(カッコ内は、筆者補足)
丸山は、最高のオフィス環境下で「すべてを最高にカッコよく!美しく!気持ちよく!」(スピリットベンチャー宣言から引用)を目指して、「中途半端なものをお客様にお届けしたら悔いが残るので、絶対に妥協はしない」ものづくりに日夜取り組んでいる。
一方で、同社の総務人事部 エグゼクティブリードの谷下田まどかは、採用への効果を以下のように述べている。
「オフィス内におけるアート作品の展示については、採用についてもプラスに働いています。特に感性を重視するエンジニア・クリエイターの方はもちろん、営業職や管理部門の方でもこのような現代アートに囲まれて仕事ができることが、GMOインターネットグループを選んでいただいたひとつの理由という声も聞かれます。
当社の企業理念である『スピリットベンチャー宣言』の中には『すべてを最高にカッコよく!美しく!気持ちよく!』というフレーズがあり、会議室を『GMO Gallery』と呼び、クリエイティブに働ける環境をとても大事にしています。
コロナ禍ではありますが、ご来社頂く学生の皆様には、オフィスツアーを実施しており、社内に置かれているアート作品もご案内しています。たくさんの作品に囲まれながら、オフィスで仲間と刺激し合うことが、さらにパートナーの感性とモチベーション向上につながっていると思います」
彼らの証言からは、オピー作品の“パートナー”に対する直接・間接の効用と共に、「GMOインターネットグループ スピリットベンチャー宣言」がいかに諸処へと浸透しているかが窺(うかが)える。
熊谷にとってオフィスとは、「ビジネスは、戦(いくさ)である。誇りとナンバー1のサービスを武器に感動を売ろう。そしてお客様の笑顔の領地を広げよう」の実現に向けた、正に「城」といっても過言ではなかろう。そして、冒頭に触れた、華美を排しながら洗練された彼の装いも、ビジネスという戦場に挑む熊谷自身にとって、「最高にカッコよく!美しい!そして、お客様にとっては気持ちよい!」鎧(よろい)であると考えれば合点がいく。
企業家人生最大の危機
さて、 今や傘下に10社もの上場企業を擁する熊谷も、ここまで全てが順風満帆であったわけではない。
2005年に東証一部への昇格を果たしたGMOインターネットは、以前から構想していた金融事業に進出する。イーバンク銀行(現・楽天銀行)に投資、法人筆頭株主となり、GMOインターネット証券(現・GMOクリック証券)を設立。更には融資機能を有していなかった同行のために、同年消費者金融のオリエント信販を買収するなど、一大フィンテック事業者を目指し矢継ぎ早に手を打っていったのである。
ところが好事魔多しの例え通り、2006年には金融事業を取り巻く想定外の外部環境変化が勃発する。最高裁が信販会社などのグレーゾーン金利を否定する判決を下したため、同社も信販会社の経営に1年しか携わっていなかったにも関わらず、過去9年分を含む巨額の引当金を求められる事態を迎えることになる。本業では順調に利益を出していたが、バランスシート上では正に債務超過寸前の状態であった。降って湧いたような黒字倒産の危機により、熊谷は窮地に陥った。
その時に人生でたった一度だけ自裁死を考えたという彼は、あたかも写経のごとく無心で「弱気にならない、諦めない」と、愛用の手帳に書き続けることによって、辛うじて自らを奮い立たせていた。その週末にクリスチャンである熊谷は教会を訪れ、祈りを捧げながらステンドグラスから射す陽の光を目にして美しいと感動し、ハッと我に返ったという。
そこからの行動は、迅速を極めた。外資からの買収提案を全て断ると、400億円で買収した信販会社を500万円で売却。そして、ほぼ全ての私財に、個人で借り入れたお金を加えた170億円を、債務超過回避のため投じたのである。一度地獄を見た男は以降快進撃を続け、2010年には最高益を達成。株式情報誌では「読者が選んだ期待の経営者2011」に選ばれ、表紙を飾るまでになっている。追い詰められた熊谷を救ったものは「光の“美しさ”」と、インターネット企業経営者には一見似つかわしくない「手帳への“手書き文字”」であった。
この時のことを振り返ったと思われる一節が、スピリットベンチャー宣言には以下のごとく書かれている。
私たちには、自らが解決できる問題しか起こらない。今まで、私たちのところには100兆円の問題は起こったことが無い。私たちのところに起こる問題は、すべて「ちょっと努力が必要な」問題ばかりである。あなたに解決できない問題は、そもそもあなたには起こらない。
企業家人生最大の危機を「『ちょっと努力が必要な』問題」へと消化・血肉化し得る、彼のポジティブな姿勢もまた、グループ成長の大きなエンジンであるといえよう。
故郷を思う心に宿る自然との共生
熊谷による人を笑顔にさせる取り組みは数々あれど、特筆すべきはアート作品の一般公開と、故郷である長野県の特産物を、お世話になった方々に毎年贈っていることであろう。
前者については、2015年11月7、8日の2日間限定で渋谷のオフィスを一般に公開し、「熊谷コレクション〜オフィスとアートの新しい関係〜ジュリアン・オピーの世界」展を開催している。2日間で約1300人が訪れたことからも、彼のコレクションが、世のアート愛好家からいかに高く評価されているか想像いただけるものと思う。
また、2021年9月5日からは、GMOインターネットグループ第2本社が入るビル2Fに「現代アートをすべての人に」をコンセプトとし、「バンクシー展 GMOデジタル美術館 東京・渋谷」をオープン。本物の作品だけが有するパワーによって、多くの人々に感動を与えている。
後者の特産品については、ここ数年生産者と共に手塩にかけ育てた、ぶどう「GMOオリジナル ナガノパープル」と、りんご「GMOシナノスイート」を贈答している。熊谷は、「GMOシナノスイート」に同封した挨拶状へ以下のように記している。
今年は春先に霜の被害が発生し、花が無事に咲くかどうか心配されました。また七月に長雨が続き、収穫直前には夏のような暑さとなり天候に苦しめられた一年となりましたが、生産者の努力により無事成熟するまで育てる事ができました。
彼のメッセージは、どれほど技術が発達しても人間のコントロールが及ばない自然に対する畏怖(いふ)の念と、そうした厳しい環境と対峙(たいじ)しつつ果樹栽培に取り組む農業従事者に対する深い愛情や敬意を感じさせる。
グレーゾーン金利判決という想定外の外部環境変化はもとより、気候変動や台風、新型コロナウイルスのパンデミックといった天災は防ぎようがない。しかし、企業経営の傍ら、収穫に対しても責任の一端を担う彼の行動は、故郷への愛だけではなく、不測の事態に備えて常在戦場=危機意識醸成を自らに課していると思えてならない。
熊谷正寿にとってアートとは
これまで述べてきたように、熊谷による経営戦略の根幹には、インターネット関連事業と手書きメモ、あるいはリモートワークによる効率性と「城」としてのオフィスのように、先端的な考え方とレガシーな価値観が混在している。この点について真意を訊(たず)ねると「両方のいいところを見いだし活用しながら最適な解を求めていく旅の途中」と、その心情を正直に吐露している。
一つだけいえることは、現代アートの世界でも、その魅力やコンセプトをすぐに言語化できない優れた作品が少なくないという点であろう。「矛盾」や「混沌(こんとん)」に対して、性急に正解を求めることなく受容・活用する力は、20代からアート作品をコレクションしてきた熊谷だからこそ身につけられた独自の経営視点ではなかろうか。
また、禅や中国の易から想を得て、通常の演奏行為を行わない『4分33秒』(1952年)によって、「偶然性の音楽」※2を確立したジョン・ケージ(John Cage, 1912~92年)の名言である「なぜ人々が新しい発想・考えを恐れるのか、理由がわからない。私なら古い発想・考えを恐れる」※3を彷彿とさせる。
なぜなら、幼少より武道を通じて培った礼節や、20歳の時に父から言われた「人間は書物を通じて、人の一生を数時間で疑似体験できる。だから、本を読め」といったアドバイスを、熊谷自身が現在も大切にしている姿勢とも通じるからである。インターネットという先端的な産業領域で活躍するためには、礼節や読書といった伝統的な価値観への敬意≒畏(おそ)れこそが重要であることを、彼は幼少期から体現していたといえまいか。
加えて、彼は「情報通信技術に関する研究活動への助成支援を行うことで、情報通信技術の進歩発展を図り、もって国民生活の利便性向上とよりよい社会の構築に寄与する」といった理念の下2018年に設立した公益財団法人 GMOインターネット財団を通じ、情報通信技術分野の研究活動を広く支援している。更には、自らの事業分野と深く関わる公益活動のみならず、2020年には「現代アートの振興に関する事業を行い、もって文化的で豊かな社会の形成に寄与する」を理念とし、公益財団法人 熊谷正寿文化財団を立ち上げ、現代アート領域で活動するアーティストへも助成を行っているのである。
革新的な先端情報通信技術は言うに及ばず、豊かな感性や常識に捉われない発想力を有するアートについてサポートすることは、巡り巡ってGMOインターネットグループの社業隆盛に貢献する可能性も考えられよう。しかし、受けた恩を忘れずに、それを「幸せのお裾分け」として次世代へバトンを渡すことこそ、彼が考える公益財団として果たすべき使命であるといえる。
熊谷正寿にとってアートとは何か? という最後の問いに対し、笑顔で「感謝です」と答えたことこそは、紛れもない証左であろう。
「私たちにとっての“1番”とは、他との比較ではなく、自分に勝つこと」であると語る熊谷と7200人の“パートナー”達は、「すべての人にインターネット」サービスを、より便利で廉価に届けるため、今日も自分自身と戦い続けているのである。
(次回につづく)
※2:米国の作曲家であり思想家のジョン・ケージは、禅や易経に着想し、音楽に偶然性の要素を取り入れることによって、作曲家により厳密にコントロールされた従来の西洋的音楽の見直しを図った。そして、4分33秒の演奏時間中、奏者が全く楽器を弾くことなく静寂であり続ける『4分33秒』は、彼自身の、更には「偶然性の音楽」を代表する作品として、今日、高く評価されている。そのコンセプトは、コンサート会場が一種の権力空間と化していることに対するアンチテーゼであり、観客一人ひとりが発する音(心音など)や、排除の対象たるノイズに今一度耳を傾けることにあると言われている。
※3:原文は、“I can't understand why people are frightened of new ideas. I'm frightened of the old ones.” 出典Richard Kostelanetz “Conversing with Cage”(Routledge, 2003)