ティーカップに毛皮? シュルレアリストと呼ばれたくなかったメレット・オッペンハイムの回顧展
一目見たら忘れられないシュルレアリスムの作品を生み出すには、こんな方法がある。身近な日用品を構成する要素の一つを別のものに置き換えて実用性を失わせ、幻想的、あるいは不条理なものに変えてしまうのだ。
たとえば、1938年にサルバドール・ダリは、受話器の代わりに石膏のロブスターを取り付けて黒電話を変身させた。マン・レイは、アイロンの底板に鋲を打ち付けた作品に《Le Cadeau(贈り物)》(1921)という名を付けている。また、マルセル・マリエンが考案したメガネは、一つの丸いレンズに両方の耳にかけるツルが付いているというもので、一つ目の怪物でない限り使えない代物だ。自分が使っているところを想像すると、吹き出したり、ゾッとしたりするのではないだろうか。
メレット・オッペンハイムの毛皮を使った作品、《Objet(オブジェ)》(1936)は、シュルレアリスムを代表する作品として広く知られている。そのオッペンハイムの回顧展「Meret Oppenheim: My Exhibition(メレット・オッペンハイム:私の展覧会)」が、昨年スイスのベルン美術館で行われた。2022年は米国に巡回し、3月25日からメニル・コレクション(ヒューストン)で、秋にはニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催される。
1936年、オッペンハイムが23歳のときに制作された《Objet》は、同年にMoMAで開催された画期的な展覧会「Fantastic Art, Dada, and Surrealism(幻想的なアート、ダダ、シュルレアリスム)」に出展され、広く知られるようになった。ティーカップとソーサー、スプーンに毛皮をまとわせたアサンブラージュ(*1)で、パリのカフェでパブロ・ピカソやドラ・マールとお茶を飲んでいたときに思いついたという。
その時、オッペンハイムはイタリアのキャパレリ社のためにデザインしたブレスレットをしていた。オセロット(ネコ科の動物)の毛皮で覆われた金属製のブレスレットをネタに、三人は「何でも毛皮で包むことができるはずだ」という冗談話で盛り上がった。オッペンハイムは、「たとえばこのカップでも」と言い、ウェイターを呼んで「毛皮のおかわりをお願い」とふざけてオーダーしたという。数十年後、彼女はこの作品を振り返り、飲み物の保温のために毛皮のコートをまとわせるのは理にかなっていると語ったという。
数カ月後、アンドレ・ブルトンがGalerie Charles Ratton(ギャルリー・シャルル・ラットン)で開催する「Exposition surréaliste d’objets(シュルレアリストのオブジェ展)」にオッペンハイムを招待。作品を制作するのにカフェでのエピソードを思い出したオッペンハイムは、デパートに行ってティーカップのセットを買い、その辺に転がっていた中国産ガゼルの毛皮で覆った。
当初は「Le Déjeuner en fourrure (毛皮をまとった昼食)」というタイトルだった《Objet》は、マルセル・デュシャンの《Porte-Bouteilles(ボトルラック)》(1914)の隣に展示された。デュシャンの作品は、ガラスびんを乾かすためのフックが何層にも並ぶ金属製品をそのまま作品として提示したもので、厳密にはシュルレアリスム作品ではない。しかし、日用品そのものをアートの素材としたレディ・メイドの創始者であるデュシャンに対し、ブルトンは敬意を表したのだ。
ブルトンは、1935年の講演でシュルレアリスムのオブジェを「小さな非彫刻的構造」と呼び、その目的は、全ての感覚を系統的に狂わせることにあると考えていた。ブルトンは詩人アルチュール・ランボーの有名な一節を引用し、「感覚を混乱させることをためらってはならない」と主張している。読者も、毛皮に紅茶を注ぎ、濡れた毛皮に口をつけるところを想像してみてはどうだろうか。
MoMAが所蔵する《Objet》は、壊れやすく輸送に耐えられないため、回顧展が巡回するベルンやヒューストンでは展示されない。この作品だけが注目されることを嫌ったオッペンハイムがそれを知ったら、きっと喜んだことだろう。
回顧展では、絵画やアサンブラージュだけではなく、家具、アクセサリーなどさまざまなデザイン作品を集めている。オッペンハイムは、生涯を通じてアートとデザインの制作を別ものと考えており、デザインの仕事は生活のためにすることが多かった。実際のところ、実用品がアート界に受け入れられる可能性は低そうだ。
1936年、バーゼルのGalerie Schulthess(ギャラリー・シュルテス)で行われたオッペンハイムの初個展について、ある批評家は「オブジェの始まりは、アートの終わり」と述べている。しかし、オブジェとアートは互いを補完し合うものでもある。1964年のX線による自画像は、オッペンハイムがアクセサリーを自分のアイデンティティーの一部だと見ていたことを示唆している。この写真でオッペンハイムは、通常は検査技師から外すよう指示される指輪や巨大なフープイヤリング、ネックレスを身に着けている。アクセサリーはレントゲン画像に濃い黒で映し出され、そうでもなければ誰のものとも見分けがつかない頭蓋骨が、確かにオッペンハイムのものであることを示している。
1936年に作られた金の指輪《Sugar Ring(シュガーリング)》は、宝石の代わりに角砂糖がはまっていて、お茶の時間になったら取り外せるというものだ。また、「les fesses peuvent être très maquillées ou etoffe-voile coloré」(お尻には化粧をしたり、色のついたチュール飾りを付けたりすることができる)という思わせぶりなフレーズが刺繍されたランジェリーや、レンズの一部に四角く色をつけたメガネも制作した。調光レンズが登場する前の時代に、メガネをかける人の見る角度によって光をさえぎるようにしたのだ。このように、オッペンハイムの作品には実用的なところもあるが、基本的には不条理なものが多い。
実用品に関するオッペンハイムの知見は、彼女のシュルレアリスムの系統を際立たせるのに大きな役割を果たしている。オッペンハイムといえばやはりオブジェであり、中でも有名な《Ma gouvernante - My Nurse - Mein Kindermädchen(私の乳母)》(1936/67)は、ハイヒールの靴を逆さにして金属皿に載せ、まるでローストチキンのように見せた作品だ。後期の作品《L'écureuil(りす)》(1969年)は、琥珀色のビールの上に作りものの泡が浮かぶグラスに、ふさふさのリスの尻尾のようなものが付いている。
オッペンハイムは、《Objet》の成功に反発してキャリアの大半を過ごし、自身の言葉によれば「物体を並べるだけのアーティスト」になることを望まなかった。彼女は、型にまらない遊び心にあふれたアプローチで様々なことに臨んでいる。まだ16歳のとき、高校の数学のノートに書いた不思議な数式は、1957年にブルトンがLe Surrealisme même(シュルレアリスム・メーム)誌に発表するほど挑発的なものだった。
これは、「x=√(e-b)(a-f)」という代数方程式を複雑な方法で並べ替え、変数をウサギの輪郭線上の点として「x=ウサギ」であると証明しようとしたもの。オッペンハイムが展開した論理は、証明するのが難しいのと同じくらい否定も難しい。その公式と条件を認めるなら、何らかの次数を見出せるのかもしれないが。いずれにせよ、オッペンハイムは常に、論理を逆手にとって論理自体の限界と不条理を証明し、いかに容易に論理をねじ曲げたり、あるいは外挿(*2)したりできるかを示してみせた。
1939年に第二次世界大戦が勃発すると、オッペンハイムは創作活動が難しいと感じるようになり、オブジェ制作を休止した。ばかばかしい、あるいは思索的な作品に取り組むことが、時代にそぐわないように思えたのだ。絵を描くことも試みたが、結局カンバスを壊してしまうか、あるいは手直しを続けて完成に至らないことが多く、ボツになった作品が積み上がっていった。
ベルリン生まれでスイス育ちのオッペンハイムは、ドイツ在住ユダヤ人である自分の家族の運命がどうなるか不安に思っていた。そして、理性の限界についての関心と、世界は無意味だという意識は、楽しいものではなく、深い憂うつへと変わっていった。
さらに現実的な問題として、バイエルンで医者をしていた父親が廃業を余儀なくされ、家賃を送金してもらえなくなった。オッペンハイムは、生活費を稼ぐために服やジュエリーのデザインに専念することになる。1937年、絵画を学ぶためにバーゼルに移り住んだオッペンハイムにとって、戦争で中立の立場を取ったスイスは理想的な居場所だったろう。しかし、ドイツ国境から数キロしか離れていないため、残虐な戦争が頭から離れることはなかった。
宣戦布告の時点で、オッペンハイムはまだ絵の制作に取り組み始めたばかりだった。1938年に描かれた戦間期の2枚の絵は、囚われの身となった女性を描いている。《Steinfrau(石の女)》は、巨大な岩が女の胴体を押しつぶしている、あるいは胴体が石に置き換わったかのように見え、女性の脚は漂着した鯨のようだ。また、《He Rocks His Wife(彼は妻を揺さぶる)》は2匹のアルマジロを描いた絵で、片方のアルマジロが丸まって仰向けに転がり、もう一匹が丸まったアルマジロをつついている。
この絵が評判になると、あまのじゃくなオッペンハイムはまたもやまったく違うことをやりたいと思うようになった。分類されたり予想可能と思われたりすることを嫌うあまり、これらの絵画を「ロマンティックで逸話的で図解的」と言っている。このように作品の“方式”を見つけ出すことで、自らそれを否定し、さらには誤っているとする根拠としたのだ。
16年後の1954年、ベルンにアトリエを構えたオッペンハイムは突然スランプを脱した。自身は「絵が再び動き出した」と書いている。1967年にはバーゼルからベルンに住居も移し、1985年に亡くなるまでそこで暮らした。ベルンでは主に絵を描き、その作品は各地に散らばっている。オッペンハイムの多様で膨大な絵画作品を、評論家やキュレーター、美術史家の多くは自由な実験の証しだと考える。
結局のところ、オッペンハイムのモットーは「自由は自分で勝ち取らなければならない。誰も与えてはくれないから」だったのだ。しかし、1989年のカタログ・レゾネ(作品総目録)で、スイスの美術史家バイス・クリガーが「スタイルに対する明らかな無関心」と呼んだものは、絵画という手法の中で自分の声を見つけようとしたオッペンハイムの葛藤だったとも捉えられる。ベルリン生まれのユダヤ人でヨーロッパに留まった彼女は、強烈な戦争体験の影響を受けていた。
オッペンハイムはやがて、カンバスの上で現実を参照する必要性から完全に解き放たれ、実用性の論理を外挿したアサンブラージュ作品とはかけ離れた本格的な抽象画に着手した。この時代の絵は、自然や夢から発想を得ることが多かったようだ。1959年に制作された楕円形の木に描かれた絵は、濃い茶色の背景にクリーム色の幾何学的な形を配したものだが、《Die Termiten-Königin(シロアリの女王)》というタイトルを見逃すと、作品に込められたユーモアが理解できないかもしれない。
1956年にパリで開催されたオッペンハイム展への批評には、彼女の作品を「抽象画としてもシュルレアリスム絵画としても不十分」と評したものがある。オッペンハイムは、安易に分類されなかったことをむしろ喜んでいたかもしれない。ただ、カンバスの空白部分が少し自由すぎるように見えることも事実だ。
オッペンハイムにとって制作への刺激になったのは、何気ない日常に埋れている思い込みに挑戦することだった。そして1956年、ついにオブジェに回帰する。この年、オッペンハイムはピカソの戯曲『しっぽで願いをつかむ方法』の衣装と仮面の制作を依頼された。このコラボレーションによって、オブジェの懐かしい思い出がよみがえったのかもしれない。
同年、茶色い革の編み上げブーツを擬人化した《Le Couple(カップル)》を制作。ブーツは内股に配置され、つま先で縫い合わされ、永遠のキスを交わしているように見える。しかし、脱いだ状態のブーツは、足首から上の部分が生気なく垂れ下がっている。これが表現しているのはロマンスの始まりや若者の恋愛ではない。この“二人”は、さまざまな年月を経てきたのだろう。年季の入った革は柔らかだ。これが、単に一足の古い靴であることを考えると、オッペンハイムの作品は驚くほど愛すべきものになっていると言えるだろう。
しかし、再び起こったシュルレアリスム熱は長続きしなかった。シュルレアリスムのメンバーはすでに世界中に拡散しており、オッペンハイムは1959年にグループの一員であることをやめたが、そのフィナーレは大いに注目を集めた。同年春に発表した作品《Frühlingsfest(春の宴)》は、ベルンで小さなパーティーを開き、女性の裸体に豪華な料理を盛り付けたもの。食器の使用は禁じられた。
ブルトンは、同年末パリで開催された「EROS(Exposition inteRnatiOnal du Surréalisme)(エロス:シュルレアリスム国際展)」で、この作品を再現するようオッペンハイムに依頼。オッペンハイムは承諾したが、以降は抽象絵画に目を向け、1960年代から70年代にかけては抽象絵画に没頭する。ただし、それだけに専念することはなかった。
オッペンハイムは抽象画を、理性の限界を超えるための言語であり、無意識の奥深くへ到達するための道具であると捉えていた。《Summer Star(夏の星)》(1963)は、淡い青の背景に、白い四角に一部が隠された錆びたような円形が描かれている。《Das Geheimnis der Vegetation(植物の秘密)》(1972)も幾何学的な形状で構成された風景画で、緑色の菱形状のものが、紙吹雪かイチョウの落葉のように画面上を舞っている。
カール・ユングはオッペンハイムの心理分析を行い、また父親の友人でもあったことから、著作を通してだけではなく、直接的に彼女の思想に大きな影響を与えた人物だ。オッペンハイムは特にユングの「人には男性的な面と女性的な面がある」という考え方に影響を受け、繰り返し「心は両性具有だ!」とユングの言葉を言い換えて主張した。そして、1960年代から70年代にかけて流行した女性芸術運動への参加を断る理由としても、この言葉を使っている。
女性芸術運動への関わりはやはり分類で、自分を拘束するものと感じたオッペンハイムは激しく抵抗したのだ。美術史家ホイットニー・チャドウィックが1985年に発表した書籍、『シュルレアリスムと女たち 1924-47』でも、オッペンハイムはシュルレアリスムの女性アーティストに分類されることをはっきり拒否している。
予測不可能であることを予測させたアーティストとも言うべきオッペンハイムは、決して一つの様式に満足することなく制作を続けた。論理の破壊への執着は、自身の制作パターンにも顕著に見られる。抽象画の時代には絵画と彫刻を融合させたアサンブラージュを数点だけ制作したが、印象的な作品を残している。
《Oktavia(オクタビア)》(1969)は、ノコギリの形から連想される女性の体を表現したもの。まず、ノコギリをかたどった木板を、鏡像のように元のノコギリの横に配置する。ハンドル部分の穴からは猫の目のようなドラマチックなアイラインが引かれた瞳を覗かせ、鋭い刃の部分には、柔らかい羽のように見える鮮やかな色彩を施している。
この作品でオッペンハイムは明らかに、機能よりも形の論理を重視している。その点で、約30年前に制作した毛皮のティーカップとは、重要かつ微妙な違いがある。《Oktavia》では、彼女が最も得意とするところ、つまり日用品の実体を捉えながら、別の視点で見ることを実践した。オッペンハイムは物体の特徴を捉え、遊び心を持って対応し、ありふれたものに埋もれている幻想的な潜在力を引き出したと言えるだろう。(翻訳:清水玲奈)
※本記事は、ART in Americaに2022年2月23日に掲載されました。元記事はこちら。