トゥイ=ハン・グエン・チーが紡ぐ「女性たちの抵抗と自由」の物語【New Talent 2023】
US版ARTnewsの姉妹メディア、Art in America誌の「New Talent(新しい才能)」は、長きにわたり年1度行われてきた新進作家を紹介する人気企画。今年、そのひとりに選ばれた、トゥイ=ハン・グエン・チーを紹介する。
映像作品で溢れかえる芸術祭の会場で、20分の作品に注目を集めるのは簡単なことではない。しかしトゥイ=ハン・グエン・チーは、2022年ベルリン・ビエンナーレで見事にそれをやってのけた。
グエン・チーのビデオ作品、《Into The Violet Belly》(2022)は、会場のハンブルガー・バーンホフ現代美術館の天井に映し出され、その下にはボートの形をした白い病院用ベッドがある。鑑賞者は、その周囲に置かれた青い大きなクッションに横たわってビデオを見ることができる。
ナレーションでは、グエン・チーの母親がドイツへ移民する中で、ベトナムからタイまで船で移動した体験が語られる。途中ボートは大破し、母親は大海原に投げ出された。泳げない彼女は、あきらめて溺れるか、海賊に助けてもらうかの二者択一を迫られる。海賊にレイプされたという友人の話を思い出し、暴力よりは穏やかに死ぬことを選んだ母親は、そのまま青く広い海へ身を委ねた。水中で祖先たちと心を交わし、安らぎを感じるようになったと彼女は語る。最後のシーンで映像は一面のブルーに切り替わり、冷ややかで薄暗い光が空間を満たす。
ビデオ作品を制作するアーティストが増える中でも、トゥイ=ハン・グエン・チーは印象的な映画的ストーリーテリングで頭一つ抜けた存在だ。彼女は本物の映画製作のように、熟練した撮影監督や音楽家と協力し、魅力的な物語構造を軸に美しい映像を作り上げる。《Into The Violet Belly》では、彼女の母親が自身の体験を回想しているので、生き残ったことは分かる。だが、どのように生き延びたのかは語られず、私たちはただ青い世界に置き去りにされるのだ。
現在ベルリンを拠点に活動するグエン・チーは、ドイツの名門シュテーデル美術大学に入学する前に、ベトナム戦争で枯葉剤にさらされた被害者を支援するスイスのNGOで働いていた。《Into The Violet Belly》は、ベトナムとドイツという2つの視点から冷戦の歴史に向き合った3部作。3本の私的で詩情にあふれた映像は、どれも鑑賞者が青く広がる空間にひたれるよう、展示方法にも工夫を凝らしている。昨年、アムステルダムの旧難民センター(現在は「de Appel」というアートスペース)で《Violet Belly》を上映したときのインスタレーションは、斜めに設置されたスクリーンにギザギザの大きな鏡を突き刺したものだった。ライブのチェロ演奏が行われた晩には、鏡に反射した映像が楽器の上で踊っていた。
この夏グエン・チーは、ノルウェーのトロンハイム美術館でこの3部作品から2作品を初めて同時に上映するが、そこでは床面を何百もの卓球の球で埋め尽くすことを計画している。冷戦時代の「ピンポン外交」を想起させるもので、鏡張りの卓球台にはボールではなくビデオプロジェクターの光が跳ね返るようにするという。
グエン・チーは現在、再度登場する自分の母親に加え、活動家と映画作家のベトナム人女性3人を描いた新しい3部作を制作中だ。彼女たちはそれぞれ「何らかの抵抗を体現し、制約がある中でも自分にとっての自由を定義」している。ベトナム戦争を記録した映像作家が残したフィルムを借用しているが、その中には文字通り血にまみれた光景もある。心に残る物語を矮小化も誇張もせずに伝えられるグエン・チー以上に、こうしたデリケートな素材を活かせるアーティストはいないだろう。(翻訳:平林まき)
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