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訃報:映像作家の飯村隆彦が死去。オノ・ヨーコが惚れ込んだ実験映画、メディアアートの開拓者

1970年代から実験映画・ビデオアートを制作し、芸術作品としての映像を追求した世界的先駆者、飯村隆彦が7月31日に誤嚥性(ごえんせい)肺炎のため85歳で死去。所属していたニューヨークのマイクロスコープ・ギャラリーが訃報を伝えた。

飯村隆彦 Courtesy Microscope Gallery

60年代に制作された飯村の実験的なフィルム作品は、ニューヨークのアンダーグラウンドシーンで人気を博した。飯村の初期作品はメディアとしての映画の物質性を追求し、時間と映像の本質を探るもので、実験映画のリーダー的存在だった映画監督のジョナス・メカスも早くから彼の作品を高く評価している。

1937年に東京で生まれた飯村は、60年代に日本の商業映画界に属さず活躍した数少ない映像作家だった。そのため、彼の初期作品はアートギャラリーで発表された。64年には大林宣彦や高林陽一らと「フィルム・アンデパンダン」を結成し、前衛的な作品の制作・上映を活発に行った。66年の渡米後も、その作品がインスタレーション的なものであることから、劇場だけでなく引き続きアートギャラリーでも公開されている。

62年に制作された《AI (Love)(あい〈愛〉)》は、カップルのセックスを撮影したものだが、日本の検閲を回避するため、意図的に体を抽象化している。音楽はオノ・ヨーコが担当し、彼女がジョナス・メカスにこの作品を紹介したことが、飯村の名が米国で広まるきっかけとなった。

66年にイェール大学の美術館でこの作品が上映された時には、「1000人近い学生たちが映画を見せろとその場に押し寄せ、ポルノだぞ! と叫ぶ者も現れたことから警察が出動するほどの大混乱になった」とイエール・デイリー・ニュースが報じている。この年、飯村はハーバード大学のサマープログラムで米国を訪れ、プログラム修了後はニューヨークへ移住。2018年まで同地で活動を続け、その後東京に戻った。

飯村の作品は、生涯を通じて日本語の「映画」という言葉の解釈を反映したものだった。「画を映す」と書いて映画と読むことに着目した飯村は、従来の映画とはまったく異なる映像作品を追い求めた。「映画は、動きではなく状態を強調するものだ。それは、光を通して映った画の状態であり、動いている画ではない」と彼は論じ、故郷の村祭りで見た提灯が初めての映画体験だったと回想している。

70年代に飯村は、ポータパックというポータブルビデオカメラを使用した作品制作を始めている。初期のビデオ作品は、今の基準からすると低画質で単純なものだが、映像作品が現代アートとして成立して間もない当時は、このメディアの即時性を高度にコンセプチュアルな目的で利用したのは衝撃的なことだった。

ビデオ作品では、映像と音声を分け、ライブ映像や、ディレイ(遅延)手法などを駆使して映像と音が同期していないように見せる実験をしている。たとえば、《Self Identity(セルフ・アイデンティ)》(1972~74年)では、「私は飯村隆彦ではない」としゃべっている飯村の映像に続いて、飯村が沈黙している映像に「私は飯村隆彦だ」という声がかぶさるという具合だ。

また、代表作の1つ《TV for TV(テレビのためのテレビ)》(1983)では、2台のブラウン管テレビがぴったり向かい合って置かれている。それぞれのテレビには別の番組が映し出されているが、画面同士がくっついているので観客には流れている映像が見えない。これは、当時多くの人が感じていたテレビによる情報爆発をシンプルに表現した作品だ。

飯村の作品は、1999年にパリのジュ・ド・ポーム国立美術館で行われた回顧展をはじめ、多くの美術館で展示されてきた。79年にはニューヨークのホイットニー美術館で、同じく映像作家である久保田成子との2人展が行われ、83年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催されたビデオアートをテーマにした画期的な展覧会でも作品が取り上げられている。

また、《TV for TV》は2018年、ビデオアートの歴史にスポットライトを当てた企画展「Before Projection: Video Sculpture 1974–1995(投射以前:ビデオスカルプチャー 1974-1995)」で展示され、マサチューセッツ州のMITリスト・ビジュアル・アーツ・センターやニューヨークのスカルプチャー・センターを巡回した。(翻訳:鈴木篤史)

※本記事は、米国版ARTnewsに2022年8月4日に掲載されました。元記事はこちら

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