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「意外性があってワクワクする病院を」──治療の記憶をポジティブに変えるArt in Siteの試み【医療とアートの最前線 Vol.1】

人の心を動かすアートを医療現場に採り入れることで、患者や医療従事者のウェルビーイングを向上させようという動きが世界で広まっている。その取り組みをロンドン在住のジャーナリスト、清水玲奈がレポートする連載「医療とアートの最前線」。第1回は、20年にわたり病院にアートを導入するプロジェクトを進めてきたArt in Siteについて。

Art in Siteが手がけた小児病棟のプロジェクト。『シニカル・ヒステリー・アワー』『いまどきのこども』などで知られるロンドン在住の漫画家、玖保キリコがイラストを手がけた。

誰もが不安な気持ちで訪れる病院が、殺風景な場所ではなく、楽しいアートが散りばめられた空間だったとしたら──。病気やケガが治るわけでなくても緊張が解け、ポジティブに検査や治療に挑もうという気分になれるかもしれない。

イギリスのArt in Siteは、病院をはじめとする医療施設にアートを導入する企業だ。これまで20年に100件近いプロジェクトを手がけ、その対象は小児科から精神科、アルツハイマー病などの老人性脳疾患、救急病棟から産科まで多岐にわたる。ほとんどが公立病院からの委託事業で、資金は主に公的予算と寄付金でまかなわれているという。

創業者のルイーザ・ウィリアムズは1990年代、マークス&スペンサーなどの小売業者や空港でアートコンサルタントとして活動していた。そのキャリアは「アートには何ができるか」という大きな疑問を抱えながら、ギャラリー空間の外にあるさまざまな社会的環境で実験を繰り返す営みだったと振り返る。

そんな彼女に起業のきっかけをくれたのは、ロンドンのキングスカレッジ病院を新築するプロジェクトだった。現場の医療スタッフからの「嫌な場所から楽しい場所になった」という声で、医療現場にアートを採り入れることで人々の人生を変えられること、そしてそれがビジネスになることに気づき、準備期間を経て2003年にArt In Siteを創業した。

病院という“コミュニティ”のためのデザイン

Art in Siteのプロジェクトはチームワークの結晶だ。現場にはArt in Siteのチームだけではなく、プロジェクトに採用されたアーティストや病院のスタッフ、患者も参加する。プロジェクトに出資するチャリティーの代表との話し合いも、病院のさまざまな現場の人たちからの意見調査も、すべて重要なプロセスだ。

Art in Siteのインハウスデザイナーであるシリア・ノックスは「私たちの仕事は常にさまざまな人たちのコラボレーションであり、どの参加者の声も影響力をもちます。ユーザーたちのアイデアを重視し、聞き取りを重ねながら進めているのです」と説明する。

「それぞれの病院ごとにブランディングを計画し、実現することが自分たちの仕事」と語るのは、ウィリアムズとともに共同ディレクターを務めるマーティン・ジョーンズだ。Art in Siteはそれぞれの病院を、そこに集う医療関係者と患者、その家族が形成するひとつのコミュニティとしてとらえ、ふさわしいアーティストを選んでオリジナルのアート作品とデザインを制作し、導入する。コラボレーションを通じて進んでいくプロジェクトは、それ自体が一つのアート作品のようである。

ウェールズにあるスワンジー・モリストン病院。ウェールズ人アーティストにアート作品を委託して地元の自然を表現したほか、ウェールズ語の言葉や詩を取り入れたデザインを採用した。Photo: Art in Site

アートで病院のメッセージを伝える

ニーズの見極めもArt in Siteの役割だ。クリエイティブ・ストラテジストのピーター・シェナイが中心となり、病院の様子とコミュニティを分析する。医療従事者や患者にどのような人がいるのか、それぞれの場所や部屋がどのように機能しているのかといった病院の基本的な状況に加え、救急病棟などでは24時間観察をし、時間帯や場面によるニーズの変化も見逃さない。さらに病院スタッフと患者、その家族を対象とした聞き取り調査を経て、ニーズや改善の方向を定めていく。

そこから続く実際のデザインプロセスは、アーティストとインハウスのデザイナーが打ち合わせとデッサンを重ねながら「インテリアデザインとして空間の中で、アーティストの作品が最大のインパクトを果たすように使えるか」を追求する過程だとシェナイは語る。

例えば、病院では動線の悪さや表示の煩雑さが患者たちのストレスになりがちだ。しかし、絵や色で順路やゾーンを示せば、英語が不自由な人や子どもにもわかりやすくなるだろう。加えて、ちょっとしたユーモアのある絵や美しい風景画は緊張をほぐす効果もある。

産科では流産や死産の危険があるハイリスクな妊婦の病室には幸せそうな家族のイメージはあえて排除し、ニュートラルでマインドフルな空間作りを心がけた。Photo: Robert Greshoff 

「アートを通して『病院はあなたを歓迎しています。わたしたちは病気やけがを治す強い味方です』というメッセージを、患者と医療従事者の双方に伝えます。医師は難しい言葉を使いがちですが、私たちはアートを通して子どもや移民を含む患者たちとコミュニケーションを取る方法を知っているのです」と、ウィリアムズは語る。加えて、患者や家族に「この病院なら信頼できる」という安心感をもってもらえれば、医師との関係やコミュニケーションのレベルが上がり、順調な治療も可能になるという。

シェナイは医療現場へのアート導入の先進国で、病院を含む公的施設の予算の1.5%がアートに使われるというデンマークの建築家の言葉を引用してこう話す。「コペンハーゲンの小児科病院を担当しているある建築家は、『遊び心を発揮しながらも、論理的に建築を作り上げる』と言っています。まさにその精神で、意外性があってワクワクするような病院づくりを心がけています」

Art in Siteが手がけたヒリンドン病院のアルツハイマー病患者病棟。文字ではなく花の絵で場所の表示を行うなど、患者の特性に合った配慮と工夫をしている。Photo: Hillingdon

玖保キリコとの10年にわたるプロジェクト

そんなArt in Siteが10年にわたって手がけてきた長期プロジェクトのひとつが、ロンドン市内でNHS(国家保健サービス)が運営するエヴリーナ小児病院へのアートの導入だ。ロンドン在住の漫画家である玖保キリコが担当アーティストとして起用され、2013年以来オリジナル作品を次々と病院内に導入してきた。まるで玖保キリコミュージアムかと思わせるくらい、院内にはおなじみの画風が散りばめられている。

玖保に依頼した理由について、ジョーンズは玖保の画風が決め手のひとつだったと話す。「キリコの絵は、首を傾げる角度で人物の個性や気持ちが表現されています。また、小さな子どもからティーンエイジャー、親世代まで楽しめるスタイルであることも重要でした。特にティーンエイジャーたちは日本にクールなイメージをもっていますしね」

エヴリーナ病院には、オリジナルの人物像や図柄のほか、葛飾北斎の《富嶽三十六景 神奈川沖浪裏》をモチーフにした玖保のイラストも。5月に完成したエヴリーナ・デイ・サージェリー(日帰り病棟)にも、月で餅をつくウサギという日本らしい絵柄を取り入れた。Photo: Art in Site

プロジェクトでは、まず玖保とジョーンズが病院のコミュニティを理解するためのワークショプを行なった。「漫画制作は編集さんと一対一の作業ですが、Art in Siteの仕事ではクライアントである病院の理事会と現場の医師やナース、そしていちばん大切な患者と家族の合意を得ることが重要です。いろいろな人の意見を取り入れて作品を制作します」と、玖保はそのプロセスを振り返る。

その結果完成したのが、人種もジェンダーも健康上抱えている問題も(包帯や車いすなど)さまざまな10人の「エヴリーナ・ギャング」たちのポートレートだ。3歳の女の子、エヴリーナを筆頭にみんなに名前があり、年齢も想定されている。

玖保が描いた「エヴリーナ・ギャング」。「実際にこの病院にいそうな子ども」というリアルな個性を表現した。その表情も一律に無邪気な笑顔ではなく、悲しみや不安を乗り越えるレジリエンスを感じさせる。Image: Art in Site

アートには、病院コミュニティへの帰属意識やスタッフ同士の絆を生み出す効果もある。玖保が描いた医師や検査技師のイラストを見て、「あれは僕・私」と言う病院スタッフが少なくないという。ある検査技師は「キリコが描いてくれるまで、誰も自分の存在なんて気にしていないと思っていた」と漏らしたとか。

また、院内には人物のキャラクターのほか、動物の絵もたくさん登場する。エヴリーナ小児病院の場合、以前からフロアに海や山などの地名や動物にちなんだ名前がついていたという。プロジェクトでは、これを生かして演劇的な効果を加えた。「キリコの作品は、医療の現実を明るく見せることに成功した」とジョーンズは評価する。

長い廊下の果てにあるMRIの検査室。子どもの小さな体で巨大で恐ろしい見た目の機械に挑まなくてはならないのはストレスフルな体験だ。Art in Siteでは廊下に大きなクジラの絵をあしらい、大きさや恐ろしさをエキサイティングで面白い冒険の舞台として表現した。Photo: Art in Site
採血室には、血が科学者によって色々な場所に運ばれて検査が行われるというストーリーのマンガのパネルを制作した。Art in Siteでは、直接的に苦痛を表現しないことと、警戒を示す赤色の多用を避けることを原則にしている。治療を、攻撃的なイメージではなく、ケアとして捉えられるような配慮だ。Photo: Art in Site

治療の記憶をポジティブなものに

玖保による「ギャング」は医療施設におけるアートの活用の成功例として有名になり、クライアントからは同じような取り組みに対する要望がよくあるという。「どの病院もエヴリーナのコピーにするというわけにはいかないのが悩みの種です」とウィリアムズは笑う。

一方、玖保本人は「Art in Siteのデザインが素晴らしいので、いつも自分の絵がどう組み合わされるのかを見るのを楽しみにしています」と語る。「絵を通してストーリーを伝える仕事なので、漫画家としていつもしていることなんです。漫画家でいてよかったなと思います」

2023年5月には、エヴリーナ小児病院デイ・サージェリー(日帰り手術病棟)での玖保のプロジェクトも完了した。建物内に宇宙をテーマにしたアートを散りばめ、宇宙飛行士が星座にまつわる世界の神話や伝説、銀河系についての科学知識を説明するという演出だ。

デザイナーのシリアは「アートやデザインの力で、治療の記憶をポジティブなものにできる」と語る。子どもが手術を受ける1日を、ふだんとは違った場所で特別な体験をして、しかもけがや病気を治してもらったという楽しい思い出にしてもらおうという試みだ。

エヴリーナ小児病院デイ・サージェリーで、作品の設営作業を見学する玖保キリコ。Photo: Art in Site

患者へのマナーとしてのアート

イギリスでは国民の医療費を基本的に無料にするNHSの制度が、医療費の増大と人手不足によって危機に瀕している。医師や看護師、救急車のドライバーによるストライキも行なわれた。

そんななかでアートに医療の予算を使うことの意義について、クリエイティブ・ストラテジストのシェナイはこう説明する。「病院の建築費、設備、賃金などを総合した予算全体の中で、アートの支出はごくわずかですが、患者のフロントラインのケアにおいてアートは重要な貢献を果たします。患者の入院日数が大幅に短縮し、精神病棟では明るい環境が希望をもたらし、回復を早める効果があるという証言や統計が多数あります。アートは非常に効率のよい投資なのです」

また共同ディレクターのジョーンズは、幼い患者に「お医者さんはとても優しい人たちだ」と言われてハッとしたと振り返る。「そんな優しさを病院の環境にも反映させれば、治療の現実を変えることができる。アートによって心地よい環境を作り出すことは、患者に対する親切心、マナーの表現であると考えています」

懸命に治療にあたる医療スタッフと、病気やけがに苦しむ子どもから大人までの患者とその家族が、アートによって今日も、文字通り癒されている。

エレベーターに描かれた玖保の作品。絵を入れてから、看護士から子どもが手術に向かうエレベーターを怖がらなくなったと感謝の言葉を掛けられたという。「あのときは泣きそうになりました。『ファンです』『作品が好きです』と言われたことはあっても、役に立ったと言われたのは初めてだったので」Photo: Art in Site

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